08 混乱
「……ん、……えでくん、楓くん」
「は、え、何っ?」
「あれ、楓くんって呼ばれるのはもう諦めたんだ?」
「んなわけあるか! 今すぐやめろ!」
「嫌だね。でも、最近楓くんおかしいよ。よくボーッとしてるし。熱でもあるんじゃ……」
「さわるな!」
「え」
ぱしっ、と乾いた音があたりに響く。高梨は一瞬瞠目したが、すぐにふっと笑みをこぼし、こちらに伸ばしてわたしに叩かれた手を引っこめた。
「あ……ご、ごめん」
「いや、大丈夫だけど。顔赤いし、やっぱり熱あるんじゃないの?」
「ない! ないから! 心配してくれてありがとう!」
こちらをのぞきこもうとする高梨から顔をそらし、乱暴に返事をすると、ヤツは再び驚いたように目を瞠った。
「何か微妙に勢いだったけど、楓くんが俺にお礼を言うなんて、やっぱり頭でも打ったんじゃ……」
「打ってないわ! ていうか楓くんて言うな!」
結局いつものやりとりに落ち着いてしまったけれど、確かにヤツの言うとおり、わたしは最近おかしかった。
原因は多分、『アレ』だ。そう、あいつが夜遅くに家に来て、わたしが寝たら帰るとか気持ち悪いことを言い、起きたら帰っていたどころか抱きしめられていたという、悪夢みたいな出来事。
悪夢。あれはまさにそう呼ぶのが正しいはずで、さっさと忘れてしまえばいいはずなのに、こうやって引きずっているのは何故なのだろうか。
手をつないだときよりも、キスを(半ばムリヤリ)されたときよりも、抱きしめられたときのほうが心臓に悪かった。だって、全身に相手の温度が伝わってくるし、自分の心臓の音がより大きく聞こえるから。相手は大嫌いなはずの男だから、吊り橋効果か脳の勘違いかもしれないけれど、それでもわたしはドキドキしてしまったのだ。
でも、あの男は違った。わたしが背骨を折らん限りの力を腕にこめても、ヤツの心臓はゆっくりと、冷静に動いていた。
あの男が動揺したのはあとにも先にも一回だけ。水族館から帰るとき、わたしから手を握って微笑んでみせた、あの一回のみ。物理的に触れるとかそんなんじゃなくて、ただ見せた笑顔に動揺するなんて、どんだけピュアなんだよ、バカじゃないの。
* * *
「それは恋だね」
「……は?」
真正面に座った友羽がつぶやいた一言に、思わず顔を歪める。しかし、彼女はメニューに目を通していたためか、わたしの表情の変化に気付かず、話を続けた。
「なぁんだ、何だかんだ言って砂名も高梨のことがすきなんだね。よかったよかった」
「いや、何言って……」
「手ェつなぐくらいならやるかもとか思ってたけど、チューと同衾とは……やるな、高梨」
「どうきっ……げほっ、アホか! 誤解を招くようなこと言うなっての!」
「だってホントのことでしょ?」
メニューの横から顔を出して、かくん、と首をかしげる友羽。
わたしは水をちょっと吹き出しかけてしまったので、口と机を拭いてからきっぱりと吐き捨てた。
「有り得ない」
「えぇー? 相談してきたのは砂名じゃん」
「それはそうなんだけどさ、付き合うときにすきにならないって言っちゃったし、昔からずっと大っ嫌いだったヤツのことを、だ、抱きしめられたくらいで意識するとかさ、何か軽くない?」
「そんなことないでしょ。あたしだって手をつなぐのとキスするのと抱きしめるのだったら、抱きしめるのが一番すきだし、一番ドキドキするよ?」
「……そうなの?」
「うん。一番いっぱい触れあってて気持ちいいんだよね」
「でも、相手は高梨だよ?」
「いや、そこはわかんないよ。高梨の相手は砂名なんだし」
うん、それは正論だ。でも、自分でも何で高梨を意識しているのかわからないから相談しているのも事実であって。ああ、何でわたしがあんなヤツのためにこんなに悩まなくちゃいけないんだ。どこまでも忌々しいヤツめ。
ぐ、と黙っていると、パタンとメニューを閉じた友羽が先に切り出した。
「砂名はさ、結局高梨のことがすきなの?」
「……それがわからないから困ってるんだけど」
「うーん、でも、あたしは軽いとか思わないよ。お互いすきでもないけど付き合ってて、恋人っぽいこともしてれば、そうなるのは普通じゃない? 恋なんていつ始まるかわかんないんだよ?」
真剣な目でわたしを見つめてにっと笑う友羽が、このときばかりは何だか頼もしく思えた。やはり恋愛経験者は違うということだろうか。
「友羽もたまには良いこと言うんだね」
「でしょー? ってアレ? これちゃんと誉められてる?」
「誉めてる誉めてる」
「うわぁ、投げやりーい。あ、すいませーん、注文お願いしまーす」
傷ついてるんだか傷ついてないんだか、わたしの返答をさらっと受け流し、小柄なくせに結構な量のデザートを注文する友羽。
そのうち運ばれてきたそれらを嬉しそうにほお張った友羽は、ほとんど完食したころにまた口を開いた。
「そんなに気になるならさーあ? あたしが高梨にちょっと探り入れてみよっか?」
「え、それだけはマジでやめて」
「何で?」
「友羽ちゃん、あなたの特技は何かな?」
きょとん、ととぼけたようなカオをしている友羽(本当に本気で悪意がないからタチが悪い)に向かって、にこっ、と心中とは裏腹の笑顔を浮かべてみせれば、友羽もにこっ、と微笑み返し、
「墓穴を掘ることデース」
と言った。何だ、ちゃんと自覚しているじゃないか。
「わかってるじゃん。ホントにやめてね」
「……わかったよーう。でも、脈ありだと思うけどなぁ」
「……ないない」
ずずっ、とクリームソーダを吸い上げた友羽を見て、わたしも紅茶を口に運ぶ。
口では否定したけれど、内心ちょっと期待してしまった。それが、大きな勘違いだとは知らずに。




