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限定恋愛  作者: 久遠夏目
6/16

05 進歩

 何をどこで間違えてしまったのだろうか。わたしは今、この世で一番嫌いな男を待っていた。


「……遅い」


 ケータイで時刻を確認すれば、待ち合わせの時間を十分ほど過ぎている。

 はっきり言って、わたしは短気なほうだ。別に待つのは嫌いじゃないけれど、あまりにも時間にルーズなのはどうかと思う。まあ、十分くらいは誤差の範囲なのかもしれないが。

 しかし、その相手が嫌いな人物となれば話は別だ。しかも、時間を指定してきたのは向こう。強引に誘っておいてこの仕打ちはないんじゃないだろうか。わたしの貴重な睡眠時間を返せ。あ、何かイライラしてきた。

 腕を組み、足でとんとんと地面を踏みながら、もう帰ろうかなという考えが頭をよぎった、そのとき。


「楓くん」


 わたしのものではない名前が呼ばれた。しかし、それは確実にわたしのことを指している。ちっ、もう少し遅かったら帰ってやろうかと思ったのに。

 それが『あの男』を喜ばせることになると知りつつも、わたしは眉間にシワを寄せてゆっくりと振り向いた。


「遅い。ていうか楓くんて言うな」

「楓くんは短気だなぁ」

「あんたが時間を指定してきたくせに遅れるとはどういう了見だ? そしてその呼び方はやめろ」

「前者に関しては謝るよ。ごめん」

「後者に関してはスルーか」

「何を今さら」


 全然謝られた気がしないのは、わたしがジト目でにらみつけても、この男――高梨千尋はまったく気にしていない、むしろ愉快で仕方がないというような笑みを浮かべているからだろうか、それとも、結局『楓くん』と呼ばれたままだからだろうか。いや、そもそも後者に関しては謝られてすらいない。


「じゃ、行こっか」


 にこ、とヤツが笑ったかと思うと同時に、組んでいた腕をほどかれ、するりと手を絡めとられる。普段男の人と会話することすら少ないわたしにとって、手をつなぐなんて非日常でしかない。中学校の体育祭のフォークダンス以来じゃないだろうか。しかもこんな外でなんて、恥ずかしすぎて死ねる。


「ちょっ、離せ!」

「あれ、照れてるの?」

「確かに一生の恥だわ」

「ひっど。でも、すごくいいカオしてるから離してあげない」

「最悪……」

「俺は最高だね」


 死ね、いや、むしろわたしが死にたい。

 でも、つながれた手はとてもあたたかかった。あれ、でも手があったかい人は心が冷たいんだっけ。うわぁ、当たってるな。


「ていうかどこ行くの?」

「んー、どこがいい?」

「は? 決めてないの?」

「うん。会ったら決めればいいかなと思って」

「無計画にも程があるだろ……」

「楓くんはどこ行きたい?」

「また楓くんて……もういいや、どこでもいいの?」

「常識の範囲内ならね」


 にこり、とバカにしたような笑みを浮かべる高梨。わたしを何だと思っているんだ。どこまでもムカつくな。

 でも、どこでもいいと言うのなら、


「……じゃあ」


       * * *


「かわいい……」

「へえ、楓くんて魚とかすきなんだ」

「おいしそう……」

「……それ、ここでは禁句なんじゃ」

「冗談だよ」


 珍しく引いたような表情をしたヤツと来たのは水族館だった。買い物といっても特にほしいものはないし、遊園地は騒がしすぎるから却下。というわけで希望したのがここだった。

 久しぶりだったのでじっくりと堪能し、結構な時間を費やしたところでようやく出口に着けば、もう夕方になっていた。


「楓くん、楽しかった?」

「その呼び方がなければもっと楽しかったよ」

「それならよかったよ。じゃあ帰ろっか、楓くん」

「あんた人の話聞いてた?」

「はい」

「あん?」


 噛み合っているのかいないのかよくわからない会話のあとで、ごく自然にすっと差し出された手。それが意味するものが何か、なんて考える余地もなくすぐにわかったけれど、今度はわたしの意思が問われている。どこまでこいつは嫌なやつなんだ。

 でも、こうやって考えている間にも、わたしはこの男を喜ばせる表情になっているのだろう。その証拠に、ヤツは至極愉快そうなカオをしている。それなら、


「あれ、珍しく素直だね、楓く……、っ」


 差し出された手を軽く握ってやれば、少し驚いたようなカオがこちらに向けられた。それを見計らって、にこ、と微笑んでみせる。さも手をつなぐのが嬉しいとでもいうように。

 また引かれたような蔑んだようなカオされるのかと思っていたが、ヤツは戸惑ったように息を詰まらせていた。これは予想外の反応だったが、上に立てたような気がして気分がいい。わたしはにっと口角をあげて、その手を引っ張った。


「帰るんでしょ。ほら早く」

「……面白くないなぁ」

「ふん、お互い様だろ」

「――楓くん」

「だから……、っ!」


 勢いよく振り返ると、せっかくの気分を台なしにするような一言を言い放った男の顔がすぐ目の前にあった。

 あ、やばい。

 そう思ったときにはもう遅かった。自分の学習能力のなさを恨む。冬の夕方で薄暗く、周りに人がいなかったのがせめてもの救いだろう。


「まだまだ甘いよ、楓くん」

「……頼むから死んでくれ、そして楓くんて言うな!」

「ははっ。さ、帰ろうか」

「……うん」


 つないだ手があたたかかったのは、相手の熱だけではなかったらしい。




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