09 別離
「楓くん」
懐かしい、とまではいかないものの、何日かは聞いていなかった声で呼びかけられる。ゆっくりとそちらに視線を向ければ、見たくもない顔があった。
突然の登場に驚いて身体がこわばり、ヤツが一歩一歩とこちらに近づいてくるたびに、全身の温度が引いていく。何で、会わないようにしていたのに、どうして高梨がここにいるんだ。
「もしかして砂名ちゃんの彼氏?」
「え、あ、いや……」
「うん、そうなんだ。砂名の友達?」
「あ、はい」
弱々しいわたしの否定の言葉を遮り、高梨は一緒に帰るためにトナリにいた友人に、ウソくさい笑顔で話しかけた。
「もしかしてこれから何か予定とかあった?」
「いえ、今日はもう帰るだけです」
「そう。じゃあ、砂名を借りていってもいいかな?」
「ええ、いいですよ」
「ありがとう。じゃあ行こ、砂名」
「ちょっ……」
ぐい、といきなり手を握られたので、いつものクセでにらみつけたのだが、ヤツは何も言わずに口角を上げただけ。いつもと同じムカつく表情なのに、無言の笑みが何故か無性にこわい。
「砂名ちゃん、またね」
友人がやさしい笑顔で手を振る。彼女には、きっとわたしとこの男が普通の仲の良いカップルであるかのように見えているのだろう。何も知らない彼女に心配をかけさせるわけにはいかない。
「……うん、またね」
わたしは力なく笑い、高梨に手を引かれてその場をあとにしたのだった。
「離してよ」
「嫌だね。ようやく会えたんだから。最近避けてたでしょ、俺のこと」
確かにわたしは最近こいつのことを避けていた。正確には、友羽に相談した日あたりから。相談したはいいけれど、余計に意識してしまったからだ。
――いやいや、何を意識しているんだ、わたしは。わたしはこいつが嫌い。それでいい。それでいい、はずなのに。
すると、悶々としているわたしの気を引くかのように、手がさらに強く握られた。
「とりあえず楓くんの家に行くから」
「勝手に決めんな。そして楓くんて言うな」
「じゃあちょっとだけ黙る」
ぶっきらぼうにそう言って、高梨は本当に黙ってしまった。こいつが素直だなんて気持ち悪い。だけど、それ以上に顔が見えないから、ヤツが何を考えているのかわからなくて不安だった。
そうこうしている間にわたしの家に着いてしまい、この寒い中外で話すわけにもいかないので、渋々鍵を開けて部屋の中に入る。テーブルを挟んで向かい合うように腰を下ろすと、ヤツが先に口を開いた。
「ねえ、何で俺を避けるの? 俺、何かした?」
「いや、ちょっと忙しくて……」
目を合わせずに答えた歯切れの悪い言い訳は、きっとウソだとバレているだろう。視線が泳いでいるのが自分でもわかる。しかし、ヤツはそれについては何も触れず、違う質問をしてきた。
「楓くんてさ、俺のことすきなの?」
「はっ?」
「この前さ、水宮サンと会ったんだよね」
「え、何で」
「水宮サンて友達想いだよね。忠告されたよ、俺が楓くんを振り回すことで傷つくのは俺だけじゃないってね。それってつまり、楓くんも傷つくってことでしょ? 楓くんは俺のことがすきなんだ?」
またあの幼なじみは墓穴を掘ったのか、という憤りを感じる前に、高梨が言ったことに驚いて固まってしまった。この前友羽に相談したときに「高梨のことすきなの?」とは聞かれたけれど、まさか本人から同じことを聞かれるとは思ってもみなかった。
ここでようやく友羽がやらかしてくれたことの重大さに気付いたけれど、もう遅い。人は、過去に戻ることはできないのだ。
「ね、楓くん、答えてよ。俺のこと、すきなの?」
「……もし、もしの話だけど、もしわたしがあんたのことをすきだって言ったら、どうするの?」
「そうだね、別れようか」
「……は?」
間髪いれずにされた唐突な提案に思わず顔を上げる。ぱちり、と目が合った高梨は、困ったように眉を下げて笑った。
「だって、楓くんが言ったんだよ? 付き合ってもいいけどすきにはならないって。それに、俺も楓くんのことがすきなわけじゃないって知ってるでしょ?」
そのセリフで、あの忌まわしい同窓会の記憶が蘇る。
(わたしは絶対あんたのことをすきにはならない)
(いいよ。俺も別に楓くんのすべてがすきなわけじゃないから)
ああ、そうだ。そうだったじゃないか。
(高梨だって少なからず好意持ってるってことでしょ?)
バカだね、友羽。そんなことあるわけないじゃん。
――違うな、一番バカなのは、わたしか。
そう自覚したら、自然と薄い笑みがこぼれてきた。
「楓くん?」
「いいよ、別れよう。もともとこんな状態で付き合ってるのがおかしかったんだ」
「……それ、俺のことがすきだって受け取れるけど、いいの?」
「んなわけあるか。あんたなんか大っ嫌いだよ。今も、昔も、あんたが楓くんなんて呼び始めたあの日から、ずっと大嫌いだ!」
何が悔しいのか自分でもわからないけれど、怒鳴ってからうつむいて、唇をぎりっと噛みしめる。
すると、しばしの沈黙のあとにヤツが動いたのがわかった。
「……楓くん、何で泣いてるの?」
こちらをのぞきこんだ高梨の口からこぼれた小さな声。そのセリフで、わたしは膝の上でぎゅっと握った拳に、水滴が落ちていたことに気付いた。
「泣いてない。楓くんて言うな」
「じゃあ、この雫は何?」
「汗だよ」
「ウソだね」
ふ、と呆れたように笑みをこぼした高梨が、ほおを伝う涙を拭う。わたしはそれを乱暴に振り払ったつもりだったが、上手く力が入らなかった。
「ウソじゃない。触るな。わたしはあんたなんか大っ嫌いなんだ。もうこれ以上わたしに構うな」
「やだ。俺は楓くんのことすきだから」
「わたしの嫌がるカオだけだろ。そんなのすきのうちに入らない」
「うん、ごめん」
「謝るくらいなら最初から変なこと言うな」
「ごめん。すきでごめん」
ふわり、いつの間に移動したのか、わたしの正面から横に来た高梨に抱きしめられる。
ねえ、それは何に対しての「ごめん」なんだよ。わたしの嫌がるカオしかすきじゃないこと? それとも、わたしをすきになれないこと?
後者なら勘違いも甚だしい。さっきも言ったけれど、わたしは高梨のことなんかちっともすきじゃないんだから。別にすきになってもらわなくても全然構わない。
「お願いだから死んで」
「それはムリ」
「即答かよ」
「うん、ごめんね」
「もう、いいから。もうやめよう」
「そうだね、別れようか」
「うん」
そう言ったのに、そのぬくもりが離れたのはしばらくしてからだった。




