おまけ
なんでしょっぱなから「おまけ」かって?
だって、アザとー、文章書いていると落ち着くんだもん。
だからヒコーキ乗っている間に、こんなものが出来上がっていたんだもん……
それに娘も言ってたけどね、雲の上ってなぜか創作意欲を刺激するよ?
座席にはパッケージされた薄布団と、ふかふかの枕が置いてある。
13K、窓際席だ。進行方向と逆にしつらえられたシートに身を沈めれば、右翼の先端が目に付いた。
男性の英語が頭上から降る。どうやら座席を確認したいらしい彼に、俺は黙ってチケットを見せてやった。
「フーン? 13K、オケィ」
これから8時間のフライトを隣で過ごすのは彼か。言葉は通じないが、落ち着いた物腰の好青年だ。悪くない。
機内ではウェルカムドリンクが配られ、窓外では小柄なタグがちょろちょろと走り回っていた。周囲の会話さえ英語なのを聞けば、この空間はすでに異国の入り口なのだと自覚する。
ひゅおーと鳴る始動音は飛び立ち前の自信に満ちたエンジンの呼吸。空きコップは下げられ、ぽぉんと間が抜けた警告音と共にベルト着用のサインが灯る。
俺はシートに深く身を沈めた。
緩い移動の動きが僅かばかりの静止をした後、機体は一気に走り出す。
……この瞬間が好きだ。
引きとめようとする重力の手を振り払って、斜めにあがってゆく瞬間に覚えるは、平衡感覚の戸惑い。普段は見上げるしかできない空間に解き放たれる身体感覚は、果たして鳥類のそれと似ているのだろうか。
窓からは九十九里の曲線を見下ろすことができた。すでに高度は相当であるというのに、長距離飛行に向けて機体はさらに高度を上げようと、ぐんと這い上がる。
機体が揺れるたび、俺は空というところでは空気が固体化しているんじゃないかと夢想してしまう。ごん、と跳ね上がったのは、その固体化した空気を踏み砕いたからなのだ。
小窓から足下を見れば、綿のように薄柔な雲が海面を包んでいる。その上をさらに薄い、ホコリのように頼りない雲層の一枚が撫で通っていった。
出発が17時ごろだったので、今は何時なのだろうか。それすら曖昧なほど急速に迫る夕刻の気配は、この機が夜に向かって飛んでいるのだと思い出させるには十分な小道具であろう。
ずしんと、殊更に重たい気圧を切り裂いて、窓景が濃い雲に包まれた。またひとつ、空気の固体を踏んだらしい。
かすかな跳ねと共に雲層の上にあがれば、そこには美しい風景が用意されていた。
足元一面に垂れ込める分厚い雲は、粘り気の強い液体であるかのように淀んで静かだ。遠くに目を向ければ雲海の水平線は目立たないほどになだらかな弧を描いていた。
「ああ、地球は丸いものだったな」
当たり前の事実が遠く離れてしまった地べたへの思慕をくすぐる。
この瞬間も好きだ。
そして今回、夜に向けて浅暮を跳ぶフライトは、俺に極上の『空色』を与えてくれた。
古今東西いかな文筆を以ってしても、この美景の全てを写し取るなど許されはしないだろう。ましてや俺の筆に収めようなど、手前の身の程知らずっぷりにあきれ果てる。
だが、書かずになどいられるだろうか。分厚い雲層を夜に引きずり込もうとしている空が、地上からは見知りようも無いほどに気高い色味を湛えているということを。
ここは地上よりも宇宙の方が近い……無蓋の空間から降りる夜と、地上から還ろうと昇る夕の混ざりあうは何ブルーと名づけてやればよいのだろうか、思いもよらぬ青だ。
決して濃くは無い藍色、だが濃すぎるほどのスカイブルー。その中間で刻一刻と暗さだけを増してゆく青は、いっそ『夕暮れ色』と呼ぶに相応しいではないか。そう、浮ついた赤みに染まるよりも、夜を曳くには余程に相応しい……青。
ああ、やはり全てを写すなど出来はしない。
いくら人が作り出した『乗り物』などで飛んで追いかけようとも、空はあまりに広く、俺たちが普段暮らす地べたなど、あまりに頼りない。
俺はペンを止め、窓外に今一度の視線を流しくれた。急速に吹いたかのように、青みはすっかり消し去られ、夜黒にふさがれた窓には俺の顔が映る。
(寝よう……)
この機体は昼を目指して夜の中を飛んでいる。日付変更線を越える肉体のバランスを保つには、地上の時間ではなく天空の時計にこそ支配されるべきだと、俺の本能は告げている。
シートを深く倒して、空気の上を滑る心地よい眠りの中に、俺は意識を埋めた……