二章 物語の幕開け()
あれから、湊はひとしきり涙を流すと、気恥ずかしさから冬川の抱擁をそっと外し、顔を赤くさせていた。
「ふふ、可愛いな。なぁ、そう思うだろ?」
そんな湊に対し、冬川は自然と笑みがこぼれてしまう。
「いや、同意を求めないでくださいよ。ましてや、自分自身のことについてなんて」
依然として顔は赤いが、湊は冷めた目を冬川に向け、平然を装うとする。
「ぬぅ、なんだ。先程までの弱った状態はもうお終いか」
冬川は不満顔を作り、拗ねたような態度を全面に押す。
「……全く、安易に油断も出来ないなんて、ここは戦場ですか」
「油断して構わないんだがな。私的には」
思わず溜め息を零す湊に、冬川は妖艶な雰囲気を醸し出しながら、しなだれるようにして寄りかかる。
「真冬さん、何度も言いますがあなたを受け入れるわけにはいかないんですって」
しかし、湊は口ではこう言いながらも、何時ものように避けようとはせず、それを許していた。
「これを聞いてもか?」
「……いつの間に」
それに気を良くした冬川は更にスーツの胸元から小型のボイスレコーダー出し、スイッチを押す。
「そりゃ、毎回録音しているさ。いつ何時、チャンスがくるか分からんからな」
そこには先程、湊が冬川に告げた言葉の一部が録音されていた。
「これだけを聞けば告白にしか聞こえないな」
冬川はボイスレコーダーをひらひらと揺らしながら湊に見せると、
「ほら」
そのまま渡してしまった。
「えっ、何で」
「ん? いや、今更こんなもの必要ないだろう? 本音も聞けて、私達が相思相愛だと確信できたんだ」
湊が何度もボイスレコーダーを見やるのが面白かったのか、冬川はクスクスと笑ってしまった。
「そ、そうですね」
「また顔赤くして、ほんとお前は可愛いなぁ」
改めて言われると気恥ずかしさがあるのか、湊は再び赤面していた。
「そ、それより! これからのことについてです!」
「ふふ、そうだな。だがその前に、お前を何と呼べばいい? 湊か、それとも――か」
慌てて話しをすり替える湊に、冬川は薄く微笑みを浮かべ待ったをかける。
「あ、だから。いえ、これからも湊と呼んでくれるのであれば、それが一番なんですが」
そこで湊は得心がいった。
何故、冬川が名前を呼ばなくなっていたのかと。
そして、現状を顧みると、やはり湊の名を呼んでもらうべきだと判断した。
「今更、烏滸がましいですかね」
しかし、そこでまたもや思い悩んでしまう。
「ふむ、やはりお前のその癖は直さないといけないな、『湊』。そのすぐネガティブになるところなど悪い癖だ」
そんな湊に冬川は眉をひそめ、説教混じりに湊の名を強調して呼んだ。
「……真冬さん」
「何時も深く考えすぎているから駄目なんだ。昔の私のようだぞ? 案外な、どんな過程を歩もうが結果は悪くなることはないんだ」
未だ悩む湊に、冬川は湊の頭に手を置き優しく撫でる。
「さて、話を戻そうか」
暫くそうしていたが、一向に話が進みそうにないと思い、冬川にしては心を鬼にした。
「っ! スパンって良い音なりましたよ!」
「さて、話を戻そうか」
湊が頭を叩かれた痛みに悶えて抗議をするが、冬川は言葉を繰り返すだけで取り合わない。
「…………」
「さて、話を戻そうか」
湊のジト目にも何のその、にっこりと笑うだけで先程と変わらない対応だ。
「分かりましたよ。もういいですよ。話を戻します。戻せばいいんでしょう」
そこで渋々湊が先に折れ、本題へと入っていった。
何だか何時もの立場が逆転したようなしてないような、そんな気分にさせられた湊であった。
「それで、今後についてですが。やっぱり、家族には話すべきなんだと思いました。話した後どうなるかは分かりませんが、どんな事になろうとも甘んじてそれを受けるつもりです」
そう話す湊の瞳には、覚悟と言えるものが確かに存在した。
口だけではないと、それが教えてくれている。
「そうか、湊が決めたことなら私は全面的に応援しよう」
冬川はそれを垣間見て、どんな事になろうとも支えていこうと、心に誓う。
「ありがとうございます。だから楓については、その時に話してみようかと」
神妙な顔つきで、湊は先程の楓を思い返していた。
「私に出来ることがあれば、何でも言うんだぞ。今度は私が湊を救う番だ」
「そんな、僕はもう数え切れないほど助けられましたよ」
冬川のその言葉に、湊は本心を語った。
冬川に本当の意味で心を許した証でもあった。
「ふっ、そう言ってくれると嬉しいがな。……さてと、授業の準備に取り掛かるとするか。今日は二年だったな。遅れるなよ?」
冬川はつい口が緩んでしまう。
そして、思い出したとばかりに腕時計で時間を確認すると、階段から立ち上がる。
冬川が受け持っている授業は、魔法の実習授業だ。
実習授業は月曜が一年、火曜が二年、水曜が三年、と学年別に分けられ行われている。
それに加え、月に一度学校全体で合同の授業があり、一年から三年までの数人による混合グループで行われている。
ちなみに、実習授業は基本的に午後にしか行わない授業である。
準備や道具の点検に、安全確認まで隈無くしなければならない為、どうしても午前中に行うのが難しいという理由からだ。
更に、授業時間も二時間から三時間と長めに設定されている。
そのことから午前にやってしまうと、疲れや片付け、その他諸々によって他の授業に支障を来す恐れがあるというのも理由だ。
「あ、今日は二年の実習でしたっけ」
そして、この日は二年だけでの実習授業であった。
最近は悩み過ぎて曜日も忘れていたらしい。
「あ、後、代表な、もうすぐ決まりそうだ。早めに返答考えておいて欲しいらしいぞ」
そうだ、と冬川はあの時湊を呼び止め、話そうとしていた本来の内容を思い出す。
「いや、早くないですか? まだ五月ですよ? 普通、七月辺りに決まって夏休みに合宿って流れでしょう?」
そう、代表は本来七月に最終決定を下すのが通例となっていた。
「まぁ、何だ。教頭の話を聞く限り、みんな似たり寄ったりの実力なら、さっさと決めて、放課後に訓練するなり公欠扱いで強化合宿するなりして、学校の恥曝しにならないようにしろだとさ」
何やら、気が重いと言わんばかりの口調で冬川は語る。
だが、教頭の言い分も学校側の意見としては、強ち間違ってもいないのが辛いところだった。
この学校は、国からかなりの支援を受け運営されている。
ここ数年、あまり良い結果も出せずにいた為、結果を出さなければ支援も打ち切られる可能性が増してきていたのだ。
それはこの学校にとって、非常にまずい事態だった。
国からの支援のおかげで、他の学校などに比べ遥かに安い学費に出来ていたのだ。
それが無くなると言うことは、この学校の魅力の一つであった学費を上げるしかなくなり、人材の確保も難しくなる。
元々、設備面においては私立の有名校には劣っていたため、それに拍車を掛けることになるのは目に見えていた。
「また、あの見栄っ張り教頭か。はぁ、分かりました。考えときます」
しかし、湊はそれを分かっていながらも、やはり代表入りはする気がなかった。
湊が入り、個人戦で良い成績を残したとしても、それは湊の実力であって学校の実力ではないのだ。
これは団体戦でも同じこと。
湊が踏ん張り、団体戦で勝利に導いたとしても、世間は湊がいたから勝てたと思い、学校の評価はあまり上がらないだろう。
これは湊の慢心ではなく、確かな事実であった。
だからこそ、湊は自身の代表入りを快くは思わないのだ。
「まぁ、教頭の言い方は悪いが、現実的ではある。そこは分かってくれないか?」
「そうですね。と言うか、今までがおかしかったんだと思いますよ? 所謂、天才とか神童とかって呼ばれる類の人が固まって入ってきてたんですから」
冬川が湊のうんざりした態度に一応のフォローを入れると、湊も溜め息混じりに相槌を打つ。
そして、この現状が普通なのではと暗に示唆する。
「ああ、あの時はメディアの取材が凄かったらしい。プライベートなど無かったみたいだぞ」
これには冬川も頷き、ついでに補足説明を付け加える。
「もしかしたら、そう言うのもあって集まらないのかもしれないですね、人材」
湊はそれを聞き、冗談半分で言ったつもりであった。
「はは、まさか」
「ですよねぇ」
しかし冬川の引きつった笑みに、湊はある種の確信とともに同じく笑みを浮かべ目を右往左往させた。
「……さて、本当に私は行かないと間に合わなくなるからもう行くが、湊はどうするんだ?」
そんなくだらない事をしていると、流石に時間も推してきたらしく、冬川は階段を降り始める。
「僕も戻ります。もう少ししたら休み時間ですし」
「そうか、なら一緒に行こう」
湊が自身も戻る旨を伝えると、冬川は湊を見上げながら立ち止まった。
「それは良いんですけど、何故腕を組もうとするんです?」
「組みたいからだ」
湊が隣まで来ると、冬川は湊に阻止されながらも腕を組もうとする。
「冬川先生? 僕は理由を聞いているんですが」
「むっ、何故真冬と呼ばないんだ。それにいい加減敬語で話すのを止めろ」
湊の口角が小刻みに引きつるが、冬川は既に違う話題に話を持っていっていた。
「いや、一応ここ学校ですし、さっきのあれはその場の雰囲気に流されたからで。って話しを逸らさないでください」
苛つきはないが、正直湊は盛大にため息を吐きたくなってしまった。
「全く、生真面目な奴め」
「いや、拗ねる意味が分からないんですけど」
そんな湊に冬川が拗ねてしまうが、それをしたいのは自分だと心の奥底で面に出ないように思う湊だった。