↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

冷めたシチューと合鍵の重み

掲載日:2026/09/27

冷めたシチューと合鍵の重み


「結婚、やっぱりやめたいんだ。お互いのために、そのほうがいいと思う」


瀬尾智美は小松菜の根元を洗っていた。蛇口から落ちる水が泥をほどき、シンクの隅へ細い筋を作っていく。背後のコンロには、昨日から仕込んだクリームシチューの鍋が載っていた。婚約者の高梨洋平が帰ったら、牛乳を足して温めるつもりだった。


「……何を言ってるの?」


振り向くと、洋平はダイニングチェアの背に手を置いていた。ネクタイを緩めたばかりで、コートも脱いでいない。智美が驚くことは分かっていたらしく、目だけは合わせなかった。


「来月、式場の最終打ち合わせだよ。招待状だって出したでしょう」


「だから今しかないんだ。智美といると、息が詰まる。献立も貯金も休日の予定も、何でもきっちり決めるだろ。俺、もっと自由に暮らしたいんだよ」


智美は蛇口を閉めた。生活費を折半しようと言ったのは洋平で、結婚式の費用を毎月貯めようと言ったのも洋平だった。家計簿は彼が三か月でつけなくなり、智美が引き継いだ。遅く帰る彼のために鍋の火を止めたりつけたりすることまで、窮屈な暮らしに数えられているのだろうか。


「二人で決めたことじゃない。嫌なら、どうして今まで言わなかったの」


「ほら、また正しいことを言う。俺が悪者にならないと別れられないわけ?」


洋平はコートをつかんで玄関へ向かった。智美は追いかけようとして、台所の棚に置いた二個組の耐熱ガラス容器を見た。先週一緒に買ったばかりで、洋平は片方を手に取り、「これなら弁当にも持っていける」と言っていた。


「ほかに好きな人ができたの?」


「そういう話じゃない。今日は外で寝る。今の智美とは話せない」


扉が閉まっても、智美は台所から動けなかった。ダイニングテーブルには、二人で印をつけた式場の席次表が残っている。洋平の叔母の名前の横には「足が悪いから出口に近い席」と、彼の字で書かれていた。


鍋の蓋を開けると、シチューの表面に薄い膜が張っていた。温め直せば食べられると分かっていたのに、智美は火をつけず、一口だけすくった。冷えた脂が舌に触れ、喉の途中で止まった。


「まずい」


スプーンを流しに置いたとたん、膝から力が抜けた。智美は床に座り込み、エプロンの裾で口を押さえた。洋平に電話をかけて、献立も予定も全部相談すると言えば、戻ってくるかもしれない。そう考える自分を止められず、スマートフォンを握ったまま夜が更けた。


翌日、智美は休暇を取った。昼過ぎ、同じ文具メーカーで働く同期の真理からメッセージが届いた。真理は洋平とも同期で、部署は違っても昼休みには顔を合わせる。


『智美、大丈夫? 洋平が昨日の昼、結婚式はなくなるって話してた。私はてっきり、二人で決めたことだと思ってた』


智美は画面の日付を確かめた。洋平が「結婚をやめたい」と告げたのは、昨日の夜だ。その前に職場の人たちは知っていた。智美自身が夕食の小松菜を買っていたころ、洋平はもう式の中止を話していた。


智美が電話をかけると、真理は自分の聞いた言葉をできるだけそのまま伝えた。洋平は昼休みに数人の同僚へ「結婚はやめることにした。智美が細かすぎて、二人とも疲れたんだ」と話したという。最近よく洋平と一緒に帰る新人女性も、その場にいた。


「私、昨日の夜まで何も知らなかった」


真理が言葉を失った。智美は台所の棚を見た。二個組の容器を買った土曜日、洋平はまだ智美の隣で、新しい暮らしの話をしていた。


その晩、真理は肉まんを二つ持って来た。智美が作ったままのシチューを見ても、すぐには何も聞かなかった。二人でテーブルにつくと、真理は洋平と新人女性について、職場で自分が見たことだけを話した。


智美は共有口座にひもづけたカードの明細を開いた。二人の食費と日用品に使う口座から、覚えのないレストランの代金が二度、ホテルの代金が一度引き落とされている。レストランの日付は、洋平が残業で夕食はいらないと連絡した日だった。


「私、あの日もシチューを作ってた」


智美は肉まんの皮をちぎったが、指先でつぶしたまま食べられなかった。真理は「私が職場で聞いたことなら、必要なときに説明する」と言った。智美は半分だけ食べ、水を飲んでから父に電話をかけた。


父は結婚式が中止になりそうだと聞くと、招待状がもう発送されていることを確かめた。智美が洋平の言葉と職場での話を伝える間、父は遮らなかった。最後に「母さんへの説明は俺がする。お前は今夜、寝なさい」と言った。


翌日の夕方、洋平から『今日は残業で荷物を取りに行けない』と連絡が来た。智美は『分かった』と返し、彼の服が残る寝室の戸を閉めた。父がその日、探偵に調査を頼んでいたことを、智美はまだ知らなかった。


さらに二日後、父が封筒を持って訪ねて来た。台所に通されても座らず、冷蔵庫に貼られた式場の打ち合わせ予定を見ている。智美がお茶を出すと、父は礼を言って封筒をテーブルへ置いた。


「お前に話す前に会社で式の中止を言いふらしたことが、どうにも引っかかった。探偵に調べてもらった。黙って頼んだことは謝る。見たくなければ、このまま持って帰る」


智美はすぐに封筒を開けられなかった。父が自分の代わりに確かめたことにも、確かめれば何か出ると思われたことにも、言葉が見つからない。父は封筒を押しつけず、湯飲みの横に置いた。


「……見る」


報告書には、洋平が新人女性と職場を出て、食事をしたあと、二人でホテルへ入るまでが記されていた。翌朝、一緒に出てきた時刻も写真に残っている。調査が行われたのは、洋平が智美に「残業で荷物を取りに行けない」と送った日だった。


「一日だけ調べてもらった。これをどう使うかは、お前が決めなさい」


父が帰ったあと、智美は報告書を閉じ、カードの明細をもう一度開いた。明細にあるホテル代は、調査の日より前に使われたものだ。写真に写った夜だけが「一回だけ」だったとしても、それ以前の支払いについて、洋平はまだ何も説明していない。


智美は式場と管理会社へ電話をかけた。式場は今週中の取り消しでもキャンセル料がかかり、賃貸の解約には一か月前の予告が必要だった。金額を紙に書き出してから、父に紹介された弁護士の事務所へ相談に行った。


報告書、カードの明細、招待状、式場の契約書、真理のメッセージを机に並べた。弁護士は一枚ずつ日付を確かめ、式場などの実費と、婚約破棄による慰謝料の請求を分けて整理した。智美は費用の説明を聞きながら、式場に送った申込書の自分の署名を見つめた。


「相手の話も確認した上で、こちらから書面で請求しましょう。職場であなたについて話したことも、いつ、誰に、何と言ったか記録してください」


智美は手帳を出し、真理から聞いた言葉を書いた。昨夜は洋平に長いメッセージを打ちかけ、途中で消している。今は一つずつ確かめて進めればいいと分かり、弁護士から受け取ったメモを鞄に入れた。


土曜の午後、洋平が服を取りに来た。智美はテーブルに式場の書類とカードの明細を置き、探偵の報告書は封筒に入れたまま手元に置いた。スマートフォンの録音画面を開き、洋平にも見える向きで置く。


「今日の話は録音する。嫌なら費用の話はここでせず、弁護士を通して進める」


「好きにすれば。俺は何も隠してないし」


洋平は椅子に座り、足を組んだ。智美の目が腫れているのを見ると、少し声を柔らかくした。智美はその声で式の準備をしてきた三年間を思い出し、開始ボタンを押す指を一度止めた。


「弁護士に相談してきた。まず、あなたに確かめたいことがある」


洋平の組んだ足がほどけた。智美は録音を始め、彼が答えるまで待った。


「私に話す前に、職場で結婚式はなくなるって話したよね。どうして?」


「いずれ分かることだろ。急に聞かされるより、周りも準備できる」


「私には準備する時間をくれなかった。『智美が細かすぎるから、二人とも疲れた』とも言った?」


「事実だよ。お前だって疲れてただろ」


智美は席次表を見た。招待客への知らせ方を考える時間も、洋平は自分のために先に使っていた。智美はカードの明細を一枚、彼の前に出した。


「新人の人とは、いつから会ってたの」


「真理に何か吹き込まれたのか。仕事の相談に乗ってただけだ」


「先月のこのホテル代も、仕事の相談?」


洋平は明細の店名を指で隠した。智美はその指を見たまま、次の言葉を待った。窓の外を走る車の音が途切れると、換気扇の低い音だけが部屋に残った。


「終電を逃したんだ。あの子を一人で帰せないだろ」


「同じ部屋に泊まったの?」


「……泊まったよ。でも一回だけだ」


智美は報告書から写真を一枚抜いた。洋平が新人女性の肩に手を回し、ホテルへ入るところだった。写真の日付を見た洋平は、明細を隠していた指を離した。


「一回だけなら、この写真の日のホテル代はどこから払ったの? 共有口座の引き落としは、それより前の日だよ」


洋平は明細と写真を見比べた。智美がもう一枚の明細を出すと、彼は椅子の上で体をずらした。智美は急かさず、返事を待った。


「……先月も泊まった。二回だよ。これで満足か」


「その日、私には残業だと言った。この前も、荷物を取りに来られないのは残業だからと言った。どちらも嘘だったのね」


「そうだよ。カードも俺が使った。後で戻すつもりだったんだよ。そうやって一つずつ責めるから、家に帰りたくなくなった」


洋平は明細を裏返した。言い合いになると、彼はいつもそうして黙り、智美が話題を変えるのを待った。智美は裏返された紙を元に戻した。


「私と別れたら、その人と付き合うつもりだったの?」


「……あの子は、俺となら気楽に暮らせるって言ってた。智美には悪いと思ってたよ。でも、結婚前に決めたほうがいいだろ」


「それを、私には『お互いのため』と言ったのね」


智美は録音中の赤い表示を確かめた。聞きたかった言葉はそろったが、手の震えは収まらない。膝の上で両手を握り、式場の書類を洋平の前へ滑らせた。


「共有口座から使ったお金は返してもらう。式場のキャンセル料はあなたに全額負担してもらう。それとは別に、婚約破棄の慰謝料を請求する。金額は弁護士から書面で送る」


「慰謝料? まだ結婚してないのに?」


「三年暮らして、結婚を約束して、式場を予約して、招待状まで出したの。あなたが『まだ結婚していない』の一言で消せる関係じゃない」


洋平は写真に目を落とした。智美は真理のメッセージを印刷した紙も出した。そこには、洋平が智美に話す前に式の中止を職場で伝えたことが残っている。


「招待状を出した人には、取りやめを決めたのはあなたで、連絡が遅れたのは私のせいじゃないと知らせて。職場で私について話したことも訂正して」


「会社にそんなこと言えるわけないだろ。俺の立場はどうなるんだ」


「私の立場は、もうあなたが先に話して回ったよ」


洋平は椅子を引きずって立ち上がった。寝室から服を鞄に詰める間も、「二回だけだ」「大げさだ」と繰り返した。玄関で靴を履くと、急に声を低くした。


「智美。三年も一緒にいたんだぞ。本当にこんな終わり方でいいのか」


靴箱の上には、二人で旅行に行ったときの写真が貼ってある。あの日の洋平を好きだったことまで消す必要はない。智美は写真を剥がさずに、靴箱の空いた場所を指した。


「合鍵を置いていって」


洋平がキーホルダーから外した鍵は、木の上で乾いた音を立てた。智美は彼が出てから鍵を手に取り、三年間で角が少し丸くなった金属を握った。手のひらに跡がつくほど力が入っていた。


弁護士から届いた請求書面に、洋平は最初「智美にも窮屈にさせた責任がある」と返した。次には、ホテルに二度泊まったことを認めても、関係については曖昧な言葉を並べた。智美はそのたびに直接返事を書きかけ、弁護士へ届いた文面だけを転送した。探偵の報告書、共有口座の明細、洋平が自分で話した録音は、すでにそろえてある。


話し合いの末、洋平は共有口座から私的に使った金を全額返し、式場のキャンセル料も全額負担した。それとは別に慰謝料を支払う合意書へ署名した。支払いの一部は分割になったが、期日と金額は書面に記された。


洋平は、自分が招待した親戚や友人へ、式の取りやめは自分の申し出だったと連絡した。職場でも「智美が細かすぎるせいだ」と話したことを訂正した。真理によれば、以前その話を聞かされた同僚から、なぜ説明が変わったのか洋平は尋ねられたという。新人女性も、二人の食事やホテルの代金が共有口座から出ていたと知り、洋平から離れた。


「洋平、今になって『誰も俺の話を聞いてくれない』って言ってるよ」


引っ越しの手伝いに来た真理が、段ボールを抱えながらそう言った。智美は食器棚から皿を取り出し、新聞紙で一枚ずつ包んだ。洋平が職場で先に作った話を、智美が訂正するために歩き回る必要はなくなった。招待客への連絡も、彼が自分の口で済ませた。


二個組の耐熱ガラス容器のうち、片方には小さな欠けがあった。智美は欠けたほうを処分し、残る一個を新聞紙で二重に包んだ。真理が箱に「台所」と書きながら、「それ、持っていくんだ」と尋ねる。


「うん。明日のお弁当に使えるから」


智美は会社を辞めなかった。洋平と廊下ですれ違うと、最初のうちは足が止まりそうになった。そんな日は真理が昼食に誘い、仕事の話をした。何度か一緒に食べるうち、智美も取引先から来た問い合わせや、新しく入った文具の話をするようになった。


数か月後、販売企画の担当を社内で募る知らせが出た。智美は応募用紙を前にして、受注の確認や在庫表を作ってきた自分に、売り場の提案などできるのかと考えた。それでも、事務の仕事で気づいた小さな行き違いを三つ書いた。替え芯の品番が分かりにくく、店から問い合わせが繰り返し来ていることも、その一つだった。


異動後、智美は取引先の文具店を訪ねた。店主は棚を見ながら、「若い人はもう、うちみたいな店では買わないよ」と言った。智美は用意した売上表を開きかけたが、店主の顔を見て頷いた。


「どんなときに、そう感じますか」


店主は最初、「いつもだよ」と答えた。智美が待つと、夕方に来る学生がペンの試し書きだけして帰ることや、替え芯の場所を尋ねられても棚の奥まで案内できないことを話し始めた。智美はメモを取り、「試し書きをした方は、そのあと何を探していますか」と尋ねた。


会社に戻ると、智美は真理を相手に提案の練習をした。真理が店主役になり、智美は説明の途中で何度も売上表を指さした。練習が終わると、真理はペンを置いた。


「智美、私、替え芯の場所で困ってるって言ったよね。先にそこを聞いてほしかったな」


智美は自分のメモを見直した。次の練習では、真理の話が止まるまで待ち、困っている場所を確かめてから提案した。売上表を使ったのは、最後の三分だけだった。


店主と一緒に替え芯の棚をレジ近くへ移し、試し書き台にも小さな案内を置いた。一か月後、店主から電話が来た。前はペンだけ見て帰った学生が、その日は替え芯を買い、ついでにノートも一冊選んでいったという。智美は受話器を置いてから売上表を開き、数字が増えた欄に鉛筆で小さな丸をつけた。


その日の帰り、真理と店の前を通った。窓越しに見えた試し書き台では、学生がペンを選び、店主に何かを尋ねている。店主は棚から替え芯を取り、学生の持っていたペンと並べて見せた。


「智美、日曜はお父さんが来るんでしょ」


「うん。シチューを作るって言ったら、パンを買ってきてくれるって。真理も来られる?」


「行く。今度は私が肉まん以外のものを持っていくよ」


智美は笑って、真理に何を持ってきたいか尋ねた。真理との練習で覚えた通り、まず相手の話を聞けばいい。日曜の献立は、二人で相談して決められる。


新しい部屋に帰ると、玄関の浅い皿には鍵が一本入っていた。智美は手を洗い、一口コンロに小さな鍋を載せる。玉ねぎと鶏肉を炒め、昨日切っておいたじゃがいもを入れて、牛乳を注いだ。今日はじゃがいもを少し長く煮る。


洋平から『俺だってつらい。少し話を聞いてほしい』とメッセージが届いていた。智美は画面を伏せ、鍋底を木べらでなぞった。支払いについて必要な連絡は弁護士を通している。洋平が自分のしたことを誰かに聞いてほしいなら、その相手を智美に決めることはできない。


シチューを深皿によそい、生クリームを細く回しかけた。ベランダの鉢からパセリを少し摘んで刻み、パプリカパウダーと一緒に散らす。白い皿に緑と赤が加わると、智美は小さなテーブルに座り、湯気の上がるうちにスプーンを入れた。じゃがいもは中まで柔らかく、玉ねぎの甘みも出ている。残りは明日の昼食用に、あのガラスの容器へ詰めればいい。


「おいしい」


日曜には父と真理が来る。もう一つ深皿を買い足して、鍋も少し大きなものを出そう。智美は温かいうちに二口目を食べ、週末の買い物を楽しみにした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。