それなら、もう頑張る必要はありませんね~婚約破棄されると知った侯爵令嬢は、王妃教育をやめて自分のために生きることにしました~
私、ユリアーナ・エルフォードの一日は、朝五時に始まる。
起床、身支度、朝の祈り。六時から外国語の朗読。七時、朝食を摂りながら各国の情勢報告に目を通す。八時から王宮で王妃教育。礼儀作法、外交儀典、財政学、法学、社交術。昼食は有力貴族夫人との会食を兼ね、午後は王太子殿下の執務の補佐。夕方からは夜会か茶会。帰宅後、深夜まで翌日の資料の読み込み。
これを、六歳の頃から十年間、一日も欠かさず続けてきた。
「ユリアーナ様、本日もお見事でございました」
王妃教育の教師である老伯爵夫人が、深々と頭を下げる。
「歴代の王太子妃候補の中でも、あなた様ほどの方を私は存じません。殿下は果報者でございますね」
「恐れ入ります。ですが、まだまだ足りませんわ」
私は微笑んで答えた。謙遜ではない。本心だった。
私の婚約者であるアルベルト王太子殿下は、剣の腕に優れ、明るく、誰からも愛される御方だ。けれど、正直に申し上げれば――執務はあまりお得意ではない。
だから私が支える。それが私の役目だと思っていた。
殿下の演説の草稿を直すのも私。外交文書の下読みをして問題点を洗い出すのも私。予算案の数字の齟齬を見つけるのも私。社交界の調整も、有力貴族の根回しも、隣国との交渉の下準備も、全部、全部、私。
もちろん、表向きはすべて「殿下のお手柄」だ。
それでいい。王太子妃とは、日向を歩く夫を日陰から支えるもの。お祖母様も、お母様も、そう教えてくださった。
殿下が議会で称賛されるたび、私は誇らしかった。
私の十年は、この方の隣に立つためにあるのだと。
――そう、信じていた。
あの日、あの中庭を通りかかるまでは。
◇
その日、私は殿下に届け物があって、王宮の回廊を歩いていた。
隣国から届いた親書の写しだ。少々厄介な要求が紛れ込んでいたので、注釈をつけてお渡しするつもりだった。
中庭の薔薇園に差しかかったとき、聞き慣れた声がした。
「――だから、卒業パーティーの日に婚約破棄する」
足が、止まった。
生垣の向こう。殿下の声だった。
「ユリアーナとの婚約は父上が勝手に決めたことだ。俺が選んだわけじゃない。あの女は昔からそうだ。笑わない、甘えない、間違いも犯さない。人形と一緒にいるようで息が詰まる」
「で、でも、アルベルト様」
遠慮がちな少女の声。聖女リゼット様だ。
半年前に教会で聖女に認定された、男爵家の御令嬢。癒しの力をお持ちで、殿下が後見役を務めていらっしゃる。
「ユリアーナ様は、その、とても立派な方だと聞いています。私なんかが、そんな」
「リゼットは気にしなくていい。あれは義務しか頭にない冷たい女だ。婚約破棄されたところで、眉ひとつ動かさないさ。それより俺は、君といるほうがずっと楽しい。卒業したら、すべて片づける」
「アルベルト様……」
私は、そっとその場を離れた。
足音を立てずに歩くのは得意だ。礼儀作法の授業で、嫌というほど仕込まれたから。
回廊を戻り、親書の写しを侍従に預け、馬車に乗り、屋敷に帰った。
自室の扉を閉めて、鏡の前に立つ。
鏡の中の私は、泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ――ひどく、疲れた顔をしていた。
「……人形、ですか」
笑わない? 当たり前だ。王太子の婚約者が公の場で気安く笑えば、軽んじられるのは殿下なのに。
甘えない? 当たり前だ。甘える暇があったら、殿下の抱える案件をひとつでも片づけたかったのに。
間違いを犯さない? ええ、犯さないよう、毎晩血の滲むような思いで確認してきましたとも。私の間違いは、殿下の間違いになるのだから。
全部、あなたのためだったのに。
……いいえ。
私は首を振った。恨み言は美しくない。それに、気づいてしまった。
殿下は、私の努力をご存じない。
ご存じないまま、私を「冷たい人形」だと判断なさった。そして婚約破棄をお決めになった。
ならば、答えは簡単だ。
「それなら――もう、頑張る理由はありませんね」
声に出してみると、驚くほどすとんと胸に落ちた。
十年間、私を支えてきた柱が、音もなく倒れた。
不思議と、悲しくはなかった。
むしろ、少しだけ――ほんの少しだけ、肩が軽くなった気がした。
◇
翌朝、私は五時に起きなかった。
「お、お嬢様!? どこかお加減が!?」
八時に目を覚ました私を見て、侍女のマーサが悲鳴を上げた。無理もない。十年間、私が寝坊したことなど一度もないのだから。
「大丈夫よ、マーサ。今日から少し、生き方を変えることにしたの」
私はまず、王妃教育の教師陣に丁重な手紙を書いた。
『一身上の都合により、本日をもちまして王妃教育をお休みさせていただきます。長年のご指導、心より感謝申し上げます』
次に、王宮に届けていた「週次報告書」をやめた。各国情勢の要約と、殿下が今週注意すべき案件の一覧。あれは誰に頼まれたわけでもない、私が勝手に続けていたものだ。やめても、誰にも文句を言われる筋合いはない。
殿下の執務補佐も、お断りした。
『体調を考慮し、しばらく登城を控えさせていただきます』
嘘ではない。十年分の疲労は、確かに私の体に蓄積していた。
代理で出席していた茶会も、夫人方への根回しも、隣国の外交官との「非公式なお茶」も、すべて、やめた。
「お嬢様、本当によろしいのですか」
マーサが心配そうに尋ねる。事情は話してあった。彼女は殿下への怒りで一晩中震えていたけれど、私が「復讐はしないわ」と言うと、余計に泣いた。
「いいのよ。私はただ、婚約者としての務めを果たしてきただけ。その婚約が終わるのなら、務めも終わり。当然のことでしょう?」
「ですが、それでは王宮が……」
「あら」
私は紅茶を一口飲んで、微笑んだ。
「王宮には、優秀な殿下がいらっしゃるもの。何の問題もないわ」
……我ながら、少し意地の悪い言い方だったと思う。
でも、これくらいは許してほしい。
その日、私は生まれて初めて、昼まで庭で読書をした。
恋愛小説というものを、初めて読んだ。侍女たちの間で流行っていると聞いて、マーサに借りたのだ。
面白かった。涙が出るほど面白かった。
世の中には、こんなに楽しいものがあったのか。
午後はお菓子作りに挑戦して、盛大に失敗した。卵の殻が入った不格好な焼き菓子を、マーサが「人生で一番おいしゅうございます」と泣きながら食べてくれた。
夜は九時に眠った。
夢も見ないほど、深く眠った。
◇
最初の異変は、二週間後に起きた。
「殿下、議会での演説、その、いかがなさいますか」
「いかがも何も、いつも通りやるだけだろう」
王宮の執務室で、アルベルトは側近の問いに眉をひそめた。
「それが、その……草稿が、まだ」
「文官に書かせればいい」
「書かせたのですが、これが」
差し出された草稿に目を通し、アルベルトは首を傾げた。悪くはない。だが、何かが違う。いつもの草稿にある、あの――議員たちが思わず頷いてしまう、絶妙な言い回しがない。反対派の顔を立てつつ、こちらの要求を通す、あの流れがない。
「……まあいい。俺が直す」
直せなかった。
結果、その日の議会でアルベルトの提案は、貴族派の重鎮に理路整然と反論され、初めて否決された。
次の異変は、外務省で起きた。
「隣国ガルダニア王国から抗議が参りました! 先日の返書の文言に、あちらの王室への非礼と取れる表現があったと……!」
「馬鹿な、確認は通したはずだ」
「それが、いつもの『最終確認』が入っていなかったようでして」
「いつもの最終確認? 誰がやっていた」
「それが……記録上は、誰も」
外務大臣は青ざめた。調べてみると、ここ数年、王家発の重要文書には必ず、発送前に精緻な修正意見が添えられていた。差出人不明。ただ、筆跡は極めて端正な女性のものだった。
その修正意見が、二週間前からぱたりと途絶えていた。
異変は、続いた。
建国祭の準備が進まない。例年、貴族間の席次で揉めるはずの調整が、なぜか今年はまとまらない。「例年どうしていた?」と調べれば、いつの間にか調整案が出来上がっていた、としか誰も答えられない。
予算案の審議が紛糾した。数字の齟齬が三か所も見つかったのだ。「去年まではこんなことはなかった」と財務官たちは首をひねった。去年までは、審議の前に誰かが齟齬を潰していたことに、彼らは気づいていなかった。
有力貴族夫人たちの間で、王家への不満がくすぶり始めた。これまで細やかに届いていた気遣い――娘の誕生日への祝花、病気見舞い、絶妙な頃合いの茶会の招待――が、ぷつりと途絶えたからだ。
「最近、王宮はどうなさったのかしら」
「ええ、ほんとうに。まるで、心臓が止まってしまったみたい」
社交界に、そんな囁きが流れ始めた。
◇
「くそ、どうなっている!」
アルベルトは執務室で頭を抱えていた。
机の上には未決裁の書類が山を成している。どれも一筋縄ではいかない案件ばかりだ。以前はこんなもの、朝のうちに片づいていたのに。
いや――違う。
片づいて「いた」のだ。彼の手元に来る前に、論点が整理され、選択肢が三つに絞られ、それぞれの利害得失が一枚の紙にまとめられて。
あれを、誰がやっていた?
「殿下、失礼いたします」
入ってきたのは、リゼットだった。おずおずと、菓子の包みを差し出す。
「あの、お疲れのようでしたので、その、街で評判の焼き菓子を」
「ああ……ありがとう、リゼット」
彼女の顔を見ると、少しだけ心が和んだ。そうだ、俺にはリゼットがいる。聖女の力を持つ彼女がいれば、大抵のことは。
「なあ、リゼット。すまないが、この予算案を見てくれないか。数字に強かったりは」
「え!? わ、私、男爵家では家計簿くらいしか……あの、ごめんなさい、桁が、多すぎて、目が回りそうです……」
「……だよな。すまない、忘れてくれ」
当たり前だ。彼女は癒しの力を持つ、心優しい普通の少女だ。財政も外交も、彼女の領分ではない。
では、誰の領分だった?
この違和感の正体を、アルベルトはまだ、直視できずにいた。
認めてしまえば、何かが決定的に崩れる気がして。
「アルベルト様……あの、ひとつ、伺ってもいいですか」
リゼットが、遠慮がちに口を開いた。
「最近、王宮の皆さんが、口々に仰るんです。『ユリアーナ様がいらっしゃらなくなってから、何もかもうまくいかない』って。……ユリアーナ様って、いったい、何をなさっていた方なんですか?」
アルベルトは、答えられなかった。
十年も婚約していた相手が、毎日、何をしていたのか。
彼は本当に、何ひとつ、知らなかったのだ。
◇
一方その頃、私は王都の書店にいた。
新刊の恋愛小説を三冊。それから、ずっと読みたかった異国の紀行文。両手いっぱいの本を抱えて店を出ようとしたところで、声をかけられた。
「――これは、エルフォード侯爵令嬢。お久しぶりです」
振り向くと、栗色の髪の青年が柔らかく微笑んでいた。
「セドリック様」
ガルダニア王国の外交官、セドリック・アシュフォード様。二年前の通商交渉のとき、「非公式なお茶」を何度もご一緒した方だ。年は私の三つ上。物腰は穏やかだが、交渉の席では油断ならない切れ者である。
「最近、王宮でお姿を拝見しないので、案じておりました。……ああ、いや」
彼は書店の棚を見回して、いたずらっぽく目を細めた。
「そのご様子だと、案ずる必要はなさそうだ。以前より、ずっと良いお顔をなさっている」
「まあ。以前はそんなにひどい顔でしたかしら」
「とんでもない。以前は完璧な顔をなさっていました。完璧すぎて、こちらが息を止めてしまうくらいに。今日のあなたは――なんというか、春の休日のようです」
外交官らしい、するりとした賛辞。でも不思議と、嫌味には聞こえなかった。
「実は先日の返書の一件で、こちらに参っておりまして。いや、正直に申し上げて驚きました。貴国の外交文書から、突然『あの手』が消えたものですから」
「あの手、とは?」
「とぼけないでください」
セドリック様は、ふっと真顔になった。
「二年前の交渉、私は今でも覚えています。我が国が仕込んだ罠を、貴国は三手先まで読んで潰してきた。あの盤面を組んだのは、交渉席の大臣ではない。……あなただ。私はずっと、そう確信していました」
私は答えず、ただ微笑んだ。
「肯定も否定もなさらない。相変わらずお見事です」
彼は苦笑して、それから、少しだけ声を落とした。
「ひとつだけ。これは外交官としてではなく、あなたの手腕に敗れ続けた一人の男として申し上げます。――あなたの仕事は、芸術でした。それを間近で見られなくなるのは、正直、寂しい」
……不覚にも、胸の奥が、じんと熱くなった。
十年間。誰にも気づかれないよう、徹底して裏方に徹してきた。それが務めだと思っていたし、後悔もしていない。
でも。
見ていてくれた人が、いた。
それも、敵側に。
「ふふ。……ふふふ」
「おや、笑われてしまった」
「ごめんなさい。だって、おかしくて。十年隣にいた方は何もご存じなかったのに、国境の向こうのあなたがご存じだなんて」
「それは」
セドリック様は肩をすくめた。
「隣にいると、案外、見えないものですよ。太陽の真下に影ができないのと同じです。……まあ、見ようとしなかった者の怠慢を、擁護する気は毛頭ありませんが」
その日、私たちは書店の隣のカフェで、二時間も話し込んだ。
政治の話は、一切しなかった。
好きな本の話。旅の話。彼の故郷の、湖と葡萄畑の話。
誰かとこんなふうに、何の駆け引きもないおしゃべりをしたのは、生まれて初めてだった。
◇
そして――学園の卒業パーティーの夜が、来た。
大広間には王国中の貴族が集い、国王陛下と王妃陛下も臨席されていた。卒業生の門出を祝う、年に一度の華やかな夜会だ。
私は淡い青のドレスで出席した。装いは完璧に。立ち居振る舞いも完璧に。最後の夜くらいは、エルフォード侯爵家の名に恥じないように。
ワルツが一曲終わったところで、アルベルト殿下が壇上に上がった。
ああ、始まるのね。
私は、静かにグラスを置いた。
「皆、聞いてくれ!」
殿下の声が、大広間に響き渡る。
「私、アルベルト・フォン・ローゼンハイムは、この場を借りて宣言する。ユリアーナ・エルフォード侯爵令嬢との婚約を――破棄する!」
ざわ、と広間が揺れた。
殿下はまっすぐに私を指差した。
「ユリアーナ! 君はこの半年、王妃教育を放棄し、登城もせず、婚約者としての義務を怠り続けた! 街で男と親しげに歩いていたという報告もある! そのような者に、未来の王妃たる資格はない!」
……まあ。
半年前から婚約破棄をお決めになっていたのは殿下なのに、理由は「この半年の私の怠慢」ですか。都合よく大義名分ができて、ようございましたね。
視界の端で、リゼット様が真っ青になって首を振っているのが見えた。「違うんです」と唇が動いている。ああ、やっぱり。彼女はこんな公開の断罪劇、望んでいなかったのだ。
広間中の視線が、私に突き刺さる。
同情。好奇。憐憫。
私は――一歩前に出て、完璧なカーテシーをした。
「謹んで、お受けいたします」
しん、と広間が静まり返った。
「……は?」
殿下が、間の抜けた声を出す。
「アルベルト王太子殿下。婚約の解消、確かに承りました。十年間、大変お世話になりました。殿下の御代が末永く栄えますよう、一臣民として心よりお祈り申し上げます」
私は微笑んで、ドレスの隠しから折り畳んだ書類を取り出した。
「なお、婚約解消に伴う手続き一覧はこちらに。持参金の返還規定、両家の取り決めの清算、王家からお預かりした宝飾品の目録、すべて整理してございます。あとは殿下と陛下のご署名だけで完結いたしますわ」
「な……用意して、いたのか……?」
「ええ。半年ほど前から」
にっこりと。
「殿下が薔薇園で、婚約破棄のご予定をお話しになっていた頃から」
殿下の顔から、血の気が引いた。
広間のざわめきが、津波のように膨れ上がる。
「それでは皆様、ごきげんよう。素敵な夜を」
私が踵を返した、その瞬間だった。
「待てぇい!!」
大広間の空気を震わせたのは、国王陛下の怒号だった。
陛下は玉座から立ち上がり、転がるように壇を降りてきた。その後ろから宰相閣下、財務大臣、外務大臣までもが血相を変えて駆けてくる。
「待て、待ってくれユリアーナ嬢! 婚約破棄じゅ、受理せん! 余は認めんぞ!」
「陛下、なりません、お鎮まりを――いや私も認めません!」と宰相。
「エルフォード嬢! 予算案の! 予算案の齟齬を洗っていたのはあなたですな!? 半年前から審議が地獄なのです!」と財務大臣。
「ガルダニアへの返書! あの最終確認は! あなただったのでしょう!? 頼む、戻ってきてくだされ、外務省が沈む!」と外務大臣。
「父上!? 皆、何を言って……」
狼狽える殿下に、陛下は燃えるような目を向けた。
「黙れ、この大馬鹿者が!! 貴様、この半年の王宮の惨状を見て、何も考えなんだのか! 議会は否決続き、外交は綱渡り、社交界は王家離れ、建国祭は準備が半年遅れ! 余と宰相で必死に原因を探った結果が――全部! ぜんぶユリアーナ嬢が陰で担っておったと判明したのが、つい先週のことじゃ!!」
「……え?」
「殿下」
宰相が、疲れ切った顔で一枚の紙を突きつけた。
「これが、我々が確認できただけの、ユリアーナ様が無償で担っておられた職務の一覧です。演説草稿の作成、外交文書の最終確認、予算案の事前精査、貴族間の席次調整、社交界の関係維持、各国情勢の週次報告、隣国交渉の戦略立案――文官三十人分に相当します。この半年、我々全員でかかっても、穴は埋まりませんでした」
殿下は、紙を持ったまま、凍りついていた。
一覧を上から下まで、何度も、何度も目でなぞって。
それから、壊れた人形のような動きで、私を見た。
「……ユリアーナ。これを、君が? ……全部? ……ひとりで?」
「はい」
私は静かに答えた。
「あなたの、妃になるはずでしたから」
過去形で。
殿下の目が、大きく見開かれた。
その瞳に浮かんだのは、怒りでも屈辱でもなく――生まれて初めて、自分が何を失ったのかを理解した人間の、底なしの後悔だった。
「ま……待ってくれ。俺は、知らなかったんだ。君がそんな……なぜ言わなかった! 言ってくれれば、俺は……!」
「殿下」
私は、首を振った。
「妃の務めとは、夫の栄光を陰で支え、その功をすべて夫のものとすることです。誇るためにしていたのではありません。……それに」
一度だけ、目を伏せた。
「気づいていただけないことは、寂しくありませんでした。ただ――『冷たい人形』と言われたことだけは、少し、こたえました」
殿下が、ぐっと言葉に詰まる。
あの薔薇園での言葉を、彼自身が一番よく覚えているのだろう。
「ユリアーナ嬢!」
陛下が、すがるように叫んだ。
「望みを申せ! 公爵位か! 領地か! 金か! 何でもくれてやる! だから王宮に戻ってくれ! 何なら、アルベルトを廃嫡して弟のほうと婚約し直しても」
「父上!?」
「陛下。ありがたいお言葉ですが」
私は、微笑んだ。
この半年で覚えた、務めのためではない、本物の笑顔で。
「私はもう、私のために生きると決めましたので」
広間が、静まり返った。
「十年間、私は誰かのために完璧であろうとしてまいりました。それを後悔はしておりません。ですが、これからの人生は、私自身のものです。朝寝坊をして、下手なお菓子を焼いて、恋愛小説を読んで泣いて――そういう、ささやかで愚かで、素晴らしい人生を生きたいのです」
陛下は、しばらく私を見つめていた。
やがて、深く、深く、息を吐いた。
「……余は、王国最大の宝を、息子の愚かさで失ったのだな」
「もったいないお言葉です」
「せめて、これだけは受け取ってくれ。此度の婚約解消の責は、すべて王家にある。エルフォード侯爵家には一片の瑕疵もない。余の名において、それを国中に布告する」
「――ありがとう存じます、陛下」
それは、私の名誉と、家族を守る言葉だった。
最後の最後に、陛下は王として正しいことをしてくださった。
私は完璧なカーテシーを一度。
そして今度こそ、顔を上げて広間の出口へ歩き出した。
「ユリアーナ様!」
駆け寄ってきたのは、リゼット様だった。目に涙をいっぱいに溜めて、彼女は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい……! 私、こんなこと、望んでいなくて……止められなくて……私の、せいで……」
「リゼット様」
私は彼女の手を、そっと取った。細くて、温かい手だった。
「あなたのせいではありませんわ。あなたは何も悪いことをしていない。……ひとつだけ、年上として申し上げてもいいかしら」
「は、はい」
「あなたの人生も、あなたのものです。誰かに流されそうになったら、思い出してくださいな」
リゼット様は、ぽろぽろと涙をこぼしながら、何度も頷いた。
――後に聞いた話では、彼女はこの夜を境に王宮と距離を置き、教会での癒しの活動に専念するようになったそうだ。彼女の力で救われた民は数知れず、今では「まことの聖女様」と慕われているという。
よかった。心から、そう思う。
大広間の扉が、私の背後で閉まった。
夜風が、頬を撫でる。
振り返らなかった。
空には、憎らしいほど綺麗な満月が出ていた。
「……ふふ」
ああ――なんて、いい夜。
◇
それから、一年が経った。
私はエルフォード領で、領地経営に携わっている。
といっても、以前のような根の詰め方はしない。朝はゆっくり起きて、午前中だけ執務。午後は乗馬をしたり、領内の孤児院で子どもたちに読み書きを教えたり。
王妃教育で叩き込まれた知識は、領地でこそ輝いた。特産の葡萄酒の販路をガルダニアに開き、街道を整備し、領内の学校を三つに増やした。領民たちは私を「働き者のお嬢様」と呼ぶ。人形、とは誰も言わない。
王都の噂も、風に乗って届く。
アルベルト殿下は、あの夜以来、人が変わったように執務に打ち込んでいるらしい。三十人の文官を新たに登用し、自らも夜遅くまで机に向かい、失敗しては頭を下げて回っているとか。議会での評判は「昔より頼りないが、昔より信用できる」。
……そう。あの方は、悪い方ではなかったのだ。ただ、与えられるものを当たり前だと思う、愚かな子どもだっただけ。
高い授業料でしたわね、殿下。
私はもう、怒っていない。ただ、二度とお隣に立つことはないけれど。
「――ユリアーナ様、お客様がお見えです」
マーサの声に顔を上げると、応接間の入口に、栗色の髪の青年が立っていた。
「セドリック様。今日はまた、ずいぶん早いお着きですこと」
「一刻も早くお会いしたくて、馬を飛ばしました」
彼は悪びれもせずそう言って、抱えていた包みを差し出した。
「約束の本です。我が国で今一番人気の恋愛小説。……それと、故郷の葡萄畑の絵を。以前、見てみたいと仰っていたので」
あの書店での再会から、彼は何かと理由をつけてはエルフォード領を訪れるようになった。通商交渉のため、視察のため、本を届けるため。
外交官のくせに、口実がだんだん雑になっていくのが、おかしくて。
「ユリアーナ様」
その日の夕暮れ、葡萄畑を望む丘で、セドリック様は不意に立ち止まった。
「今日は、口実なしで参りました」
夕陽が、彼の真剣な横顔を染めていた。
「私は、あなたの手腕に敗れ続けた男です。ですが、この一年で敗因が増えました。……本を読んで泣くあなたに。子どもたちと笑うあなたに。焼き菓子を、いまだに失敗するあなたに」
「ま、まあ。最後のは余計ですわ」
「完全に、敗北したのです。――ユリアーナ様。あなたが王妃の座を惜しいと思ったことは、一度もありません。ですが、あなたの隣を歩く権利だけは、世界中の誰よりも惜しい」
彼は、私の前に跪いた。
「どうか私に、あなたのための時間を、あなたと共に生きる栄誉をください。あなたに何かをさせるためではなく――あなたが笑っているのを、一番近くで見ていたいのです」
風が、葡萄の葉を揺らした。
十年間、私は「役に立つから」求められてきた。
そして役に立たなくなる前に、捨てられる予定だった。
でも、この人は。
何もしなくていい、と言う。
ただ笑っていてくれればいい、と言う。
……ずるい人。そんなことを言われたら、答えなんて、決まっているのに。
「ひとつだけ、条件がありますわ」
「何なりと」
「朝は、ゆっくり起きること。私、もう二度と、朝五時起きの人生には戻りませんの」
セドリック様は、一瞬きょとんとして――それから、声を上げて笑った。
「誓います。何なら昼まで寝ましょう」
「まあ、それは怠惰が過ぎますわ」
差し出された手に、私は自分の手を重ねた。
夕陽が、丘を金色に染めていく。
ねえ、ご存じかしら。
誰かのために頑張るのをやめた日から、私の人生は始まったの。
そして今――誰かのためじゃなく、この人と一緒にいたいから、私はまた、少しだけ頑張ってみようと思うのです。
今度は、私の幸せのために。




