湯気の向こう側にあるもの
母によると、姉はとても面倒見の良い子供だったらしい。
弟の僕と離れたくなくて、小学校に行くのを嫌がり、困らせたことも多かったという。
なんだかんだで、私よりお母さんだったと、母は笑う。
そんな姉も、僕も、少しずつ大人になる。
姉さんは……弟の僕が言うのもなんだが、美人だ。
その辺のアイドルには負けない。
むしろ整い過ぎている分、アイドルらしくない。
そんな姉は、平気で言う。
「お風呂入るよ。早くおいでねー」
そして僕は、頑なに拒否する。
「何言ってるんだよ、何歳になったと思ってる?」
「えー、もう私の歳、追い越したー?早いねー。大人じゃん」
「なにバカなこと言ってるんだよ。そんな歳じゃないって言ってるの!」
毎回、同じやりとりだ。
姉は笑いながら、タオルを肩にかける。
「ほらほら、置いてくよー?」
わざとらしく足音を立てて、廊下を歩いていく。
その背中を見ながら、僕はため息をつく。
――昔は、あの後ろを当たり前みたいに追いかけていた。
曖昧なはずの記憶の中で、姉の背中だけはやけに鮮明だ。
転べば最初に駆け寄ってくるのも、
手を引くのも、
いつだって姉だった。
風呂場の扉が開く音がする。
「早くしないと、先に入っちゃうよー?」
「入ればいいだろ……」
言い返しながらも、声は弱い。
姉はこういうとき、絶対に待つ。
無理やり連れていくことはしない。
ただ、置いていくふりをして、待っている。
「……先に入れよ」
「んー、やだ」
「なんでだよ」
「一緒がいいから」
当たり前みたいに言う。
昔と同じ調子で。
「……子供じゃないんだぞ」
姉は一瞬だけ黙った。
「そうだね」
少しだけ静かな声。
風呂場の明かりに照らされて、姉の横顔が浮かぶ。
「でもさ」
「子供のままでいてほしいな、って思うこともあるよ」
「……は?」
「置いてかれるの、ちょっと寂しいじゃん」
冗談みたいな声。
でも、少しだけ本気が混じっていた。
僕は何も言えなくなる。
「ほら、どうするの?」
しばらく迷ってから、僕は立ち上がった。
「素直じゃないなぁ」
「うるさい」
姉の横を通り過ぎると、ふわりと同じ匂いがした。
昔から変わらない、落ち着く匂い。
「ねえ」
「なんだよ」
「大きくなったね」
「……今さらかよ」
「うん。今さら」
くすっと笑う。
その声を背中で聞きながら、僕は風呂場の扉に手をかけた。
***
今日が一緒にお風呂に入るのは最後と決めて――
気付けば、一ヶ月が経とうとしていた。
毎回拒否して、毎回押し切られて、
結局同じことを繰り返している。
そして、ある日気付いた。
僕がお風呂を先に終わらせておけばいいんだ。
「……天才か」
自分で言って、少しだけ笑う。
先に入ってしまえばいい。
それだけのことだ。
姉が帰ってくる前に、全部済ませる。
完璧な作戦だった。
僕は学校から帰ると、率先して風呂掃除を始めた。
「あらあら、お風呂掃除してくれるの?助かるわー」
母の声。
「たまにはね」
浴槽をすすぐ。
水の音だけが響く。
妙に気分がいい。
これで終わる。
あのやりとりも、今日で終わりだ。
自動給湯のメロディーと共に、湯船にお湯が注がれていく。
静かなはずの音が、妙に耳につく。
「完璧だろ……」
やがて、給湯が止まる。
『お風呂が沸きました』
僕は、少しのあいだ、そのまま立ち尽くしていた。
立ち上る湯気の向こうを、ぼんやりと見つめながら。
何を考えていた?
湯気の先に、何を見ていた?
わからないまま、僕は首を振った。
「さてと……」
誰もいない風呂場に入る。
当たり前の光景のはずなのに、
どこか拍子抜けする。
シャワーの音が広がる。
これでいい。
これで終わり。
そう思った、その時だった。
ガチャ。
「ただいまー」
「は!?」
早すぎる。
今日に限って、なんでだよ。
「ん?誰か、お風呂使ってる?」
「それがね、急にお風呂洗うって言い出して」
「ほんと?珍しいこともあるのねー」
「ちょ、待っ――」
ガラッ。
「あ、ほんとだ。入ってる」
「閉めろ!!」
「なに慌ててるの」
「当たり前だろ!!」
「先に入るなんて珍しいね」
「……別に」
姉はじっとこちらを見る。
「ねえ」
「……なに」
「もしかして、避けてる?」
「は?」
心臓が一瞬だけ跳ねる。
「ここ最近、ずっとそうだよね」
「別に……」
「そっか。ならよかった」
あっさりと引く。
「じゃあ、今日はやめとくね」
静かな声。
「でもさ……先に入るとか、ずるいなぁ」
扉が閉まる。
水音だけが残る。
「……なんだよ、それ」
成功のはずだった。
ちゃんと避けられたはずだった。
なのに――
胸の奥に、妙なものが残る。
コンコン、と扉が叩かれる。
「タオル、替えといたよ」
「……ああ」
「上がる時、ちゃんと拭きなよ」
「子供じゃないっての」
「知ってるよ」
少しの間。
「……知ってる」
足音が遠ざかる。
僕は湯に沈みながら、ぽつりと呟いた。
「……つまんねぇな」
***
しばらくして、また足音が近づいてきた。
「ねぇ」
扉の向こうから、姉の声。
「もう今日で最後だからさ」
少しだけ、間がある。
「あと一回だけ、一緒に入らない?」
声色が、いつもと違った。
軽さの中に、わずかに沈むものがある。
僕は湯の中で目を閉じる。
――なんだよ、それ。
気になってしまった時点で、もう負けている。
「……しょうがないな」
小さく答える。
衣擦れの音がする。
すりガラス越しに、ぼんやりとした影が動く。
やがて扉が開いた。
姉は、きっちりとバスタオルを巻いていた。
「なんだよ……いつもより、お淑やかじゃん」
「ふふ、ありがとう」
少しだけ寂しそうに笑う。
二人で入るには、もう狭い浴槽。
自然と身体を縮めるしかない。
腕が触れる。
その距離が、妙に意識される。
「そうかー、そんな歳になったんだね。ありがとう」
「ありがとう?」
意味がわからず、聞き返す。
姉は少しだけ視線を落とした。
「あんたね、小さい頃、五歳まで生きられるかわからないって言われてたのよ」
「……え」
なんとなく聞いたことはあった。
でも、“五歳”という言葉は初めてだった。
「とーっても心配だったんだからね」
軽く言う。
でも、その時間の重さは、軽くない。
僕は顔を湯に沈め、泡を立てた。
姉は、それを止めない。
ただ、静かに続ける。
「私ね、そのとき」
少し間を置いて。
「代われるなら、代わりたいって思った」
言葉が出ない。
「だからさ」
姉は、ゆっくりとこちらを見る。
「こうやって一緒にいられるの、すごいことなんだよ」
「……大げさだろ」
「そう?」
少し寂しげに笑う。
「私はそう思ってる」
静かな声だった。
僕は視線を逸らす。
「……だからってさ」
絞り出すように言う。
「いつまでも一緒ってわけじゃないだろ」
「うん」
あっさりと頷く。
「だから、最後って言ったじゃん」
その言葉が、やけに重く響く。
「でもね」
姉は少しだけ身を寄せる。
「最後って決めるの、そっちだからね」
「は?」
「私は、別にいつでもいいよ」
少しだけ上目遣いで、こちらを見る。
「だって、あんたが生きてるだけで」
そして目を伏せた。
「もう十分だし」
言い切る。
僕は、言葉を失った。
湯気の中で、拳を握る。
「……ずるいだろ、それ」
「なにが?」
「そういう言い方」
少しだけ顔を上げる。
「それじゃ、こっちが離れようとしてるみたいになるじゃん」
姉は一瞬驚いた顔をして、それから笑った。
「実際、そうでしょ?」
言い返せない。
「でもいいよ」
姉は肩の力を抜く。
「離れたくなるよね。大人だもん」
その言葉に、少しだけ棘があった。
僕は視線を落とす。
触れている腕が、やけに熱い。
「……違う」
小さく呟く。
「ん?」
「離れたいわけじゃない」
自分でも驚くくらい、素直な声だった。
姉は何も言わない。
ただ、少しだけこちらを見る。
「……どうしたらいいか、わかんないだけだ」
沈黙。
湯気の中で、時間がゆっくり流れる。
「そっか」
やわらかい声。
「じゃあさ」
少しだけ近づく。
「わかるまで、そのままでいればいいじゃん」
指先が、わずかに触れる。
「無理に“最後”にしなくてもさ」
逃げるほどでもなく、受け入れるほどでもない距離。
「ね?」
僕は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ほんと、ずるいよな」
「知ってる」
くすっと笑う。
その笑い方は、さっきより少しだけ軽かった。
僕は目を閉じる。
湯の温度が、じんわりと広がる。
――最後じゃなくてもいい。
そう思ったのは、
たぶん、初めてだった。
湯気の向こう側にあるものは、
まだ、はっきりとは見えないままだった。




