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湯気の向こう側にあるもの

掲載日:2026/03/24

母によると、姉はとても面倒見の良い子供だったらしい。


弟の僕と離れたくなくて、小学校に行くのを嫌がり、困らせたことも多かったという。


なんだかんだで、私よりお母さんだったと、母は笑う。


そんな姉も、僕も、少しずつ大人になる。


姉さんは……弟の僕が言うのもなんだが、美人だ。

その辺のアイドルには負けない。

むしろ整い過ぎている分、アイドルらしくない。


そんな姉は、平気で言う。


「お風呂入るよ。早くおいでねー」


そして僕は、頑なに拒否する。


「何言ってるんだよ、何歳になったと思ってる?」


「えー、もう私の歳、追い越したー?早いねー。大人じゃん」


「なにバカなこと言ってるんだよ。そんな歳じゃないって言ってるの!」


毎回、同じやりとりだ。


姉は笑いながら、タオルを肩にかける。


「ほらほら、置いてくよー?」


わざとらしく足音を立てて、廊下を歩いていく。


その背中を見ながら、僕はため息をつく。


――昔は、あの後ろを当たり前みたいに追いかけていた。


曖昧なはずの記憶の中で、姉の背中だけはやけに鮮明だ。


転べば最初に駆け寄ってくるのも、

手を引くのも、

いつだって姉だった。


風呂場の扉が開く音がする。


「早くしないと、先に入っちゃうよー?」


「入ればいいだろ……」


言い返しながらも、声は弱い。


姉はこういうとき、絶対に待つ。


無理やり連れていくことはしない。

ただ、置いていくふりをして、待っている。


「……先に入れよ」


「んー、やだ」


「なんでだよ」


「一緒がいいから」


当たり前みたいに言う。


昔と同じ調子で。


「……子供じゃないんだぞ」


姉は一瞬だけ黙った。


「そうだね」


少しだけ静かな声。


風呂場の明かりに照らされて、姉の横顔が浮かぶ。


「でもさ」


「子供のままでいてほしいな、って思うこともあるよ」


「……は?」


「置いてかれるの、ちょっと寂しいじゃん」


冗談みたいな声。

でも、少しだけ本気が混じっていた。


僕は何も言えなくなる。


「ほら、どうするの?」


しばらく迷ってから、僕は立ち上がった。


「素直じゃないなぁ」


「うるさい」


姉の横を通り過ぎると、ふわりと同じ匂いがした。


昔から変わらない、落ち着く匂い。


「ねえ」


「なんだよ」


「大きくなったね」


「……今さらかよ」


「うん。今さら」


くすっと笑う。


その声を背中で聞きながら、僕は風呂場の扉に手をかけた。


***


今日が一緒にお風呂に入るのは最後と決めて――

気付けば、一ヶ月が経とうとしていた。


毎回拒否して、毎回押し切られて、

結局同じことを繰り返している。


そして、ある日気付いた。


僕がお風呂を先に終わらせておけばいいんだ。


「……天才か」


自分で言って、少しだけ笑う。


先に入ってしまえばいい。

それだけのことだ。


姉が帰ってくる前に、全部済ませる。


完璧な作戦だった。


僕は学校から帰ると、率先して風呂掃除を始めた。


「あらあら、お風呂掃除してくれるの?助かるわー」


母の声。


「たまにはね」


浴槽をすすぐ。


水の音だけが響く。


妙に気分がいい。


これで終わる。

あのやりとりも、今日で終わりだ。


自動給湯のメロディーと共に、湯船にお湯が注がれていく。


静かなはずの音が、妙に耳につく。


「完璧だろ……」


やがて、給湯が止まる。


『お風呂が沸きました』


僕は、少しのあいだ、そのまま立ち尽くしていた。


立ち上る湯気の向こうを、ぼんやりと見つめながら。


何を考えていた?


湯気の先に、何を見ていた?


わからないまま、僕は首を振った。


「さてと……」


誰もいない風呂場に入る。


当たり前の光景のはずなのに、

どこか拍子抜けする。


シャワーの音が広がる。


これでいい。


これで終わり。


そう思った、その時だった。


ガチャ。


「ただいまー」


「は!?」


早すぎる。


今日に限って、なんでだよ。


「ん?誰か、お風呂使ってる?」


「それがね、急にお風呂洗うって言い出して」


「ほんと?珍しいこともあるのねー」


「ちょ、待っ――」


ガラッ。


「あ、ほんとだ。入ってる」


「閉めろ!!」


「なに慌ててるの」


「当たり前だろ!!」


「先に入るなんて珍しいね」


「……別に」


姉はじっとこちらを見る。


「ねえ」


「……なに」


「もしかして、避けてる?」


「は?」


心臓が一瞬だけ跳ねる。


「ここ最近、ずっとそうだよね」


「別に……」


「そっか。ならよかった」


あっさりと引く。


「じゃあ、今日はやめとくね」


静かな声。


「でもさ……先に入るとか、ずるいなぁ」


扉が閉まる。


水音だけが残る。


「……なんだよ、それ」


成功のはずだった。


ちゃんと避けられたはずだった。


なのに――


胸の奥に、妙なものが残る。


コンコン、と扉が叩かれる。


「タオル、替えといたよ」


「……ああ」


「上がる時、ちゃんと拭きなよ」


「子供じゃないっての」


「知ってるよ」


少しの間。


「……知ってる」


足音が遠ざかる。


僕は湯に沈みながら、ぽつりと呟いた。


「……つまんねぇな」


***


しばらくして、また足音が近づいてきた。


「ねぇ」


扉の向こうから、姉の声。


「もう今日で最後だからさ」


少しだけ、間がある。


「あと一回だけ、一緒に入らない?」


声色が、いつもと違った。


軽さの中に、わずかに沈むものがある。


僕は湯の中で目を閉じる。


――なんだよ、それ。


気になってしまった時点で、もう負けている。


「……しょうがないな」


小さく答える。


衣擦れの音がする。


すりガラス越しに、ぼんやりとした影が動く。


やがて扉が開いた。


姉は、きっちりとバスタオルを巻いていた。


「なんだよ……いつもより、お淑やかじゃん」


「ふふ、ありがとう」


少しだけ寂しそうに笑う。


二人で入るには、もう狭い浴槽。


自然と身体を縮めるしかない。


腕が触れる。


その距離が、妙に意識される。


「そうかー、そんな歳になったんだね。ありがとう」


「ありがとう?」


意味がわからず、聞き返す。


姉は少しだけ視線を落とした。


「あんたね、小さい頃、五歳まで生きられるかわからないって言われてたのよ」


「……え」


なんとなく聞いたことはあった。


でも、“五歳”という言葉は初めてだった。


「とーっても心配だったんだからね」


軽く言う。


でも、その時間の重さは、軽くない。


僕は顔を湯に沈め、泡を立てた。


姉は、それを止めない。


ただ、静かに続ける。


「私ね、そのとき」


少し間を置いて。


「代われるなら、代わりたいって思った」


言葉が出ない。


「だからさ」


姉は、ゆっくりとこちらを見る。


「こうやって一緒にいられるの、すごいことなんだよ」


「……大げさだろ」


「そう?」


少し寂しげに笑う。


「私はそう思ってる」


静かな声だった。


僕は視線を逸らす。


「……だからってさ」


絞り出すように言う。


「いつまでも一緒ってわけじゃないだろ」


「うん」


あっさりと頷く。


「だから、最後って言ったじゃん」


その言葉が、やけに重く響く。


「でもね」


姉は少しだけ身を寄せる。


「最後って決めるの、そっちだからね」


「は?」


「私は、別にいつでもいいよ」


少しだけ上目遣いで、こちらを見る。


「だって、あんたが生きてるだけで」


そして目を伏せた。


「もう十分だし」


言い切る。


僕は、言葉を失った。

湯気の中で、拳を握る。


「……ずるいだろ、それ」


「なにが?」


「そういう言い方」


少しだけ顔を上げる。


「それじゃ、こっちが離れようとしてるみたいになるじゃん」


姉は一瞬驚いた顔をして、それから笑った。


「実際、そうでしょ?」


言い返せない。


「でもいいよ」


姉は肩の力を抜く。


「離れたくなるよね。大人だもん」


その言葉に、少しだけ棘があった。


僕は視線を落とす。


触れている腕が、やけに熱い。


「……違う」


小さく呟く。


「ん?」


「離れたいわけじゃない」


自分でも驚くくらい、素直な声だった。


姉は何も言わない。


ただ、少しだけこちらを見る。


「……どうしたらいいか、わかんないだけだ」


沈黙。


湯気の中で、時間がゆっくり流れる。


「そっか」


やわらかい声。


「じゃあさ」


少しだけ近づく。


「わかるまで、そのままでいればいいじゃん」


指先が、わずかに触れる。


「無理に“最後”にしなくてもさ」


逃げるほどでもなく、受け入れるほどでもない距離。


「ね?」


僕は、ゆっくりと息を吐いた。


「……ほんと、ずるいよな」


「知ってる」


くすっと笑う。


その笑い方は、さっきより少しだけ軽かった。


僕は目を閉じる。

湯の温度が、じんわりと広がる。


――最後じゃなくてもいい。


そう思ったのは、

たぶん、初めてだった。


湯気の向こう側にあるものは、

まだ、はっきりとは見えないままだった。

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