非常階段の扉は、だいたい逃げ道だ
北山瑠々、三十歳。
独身、平社員、商品企画部所属。
肩書きだけ並べると、
それなりに「ちゃんとしている大人」に見えるらしい。
実際は、
企画は通らないし、
評価もされないし、
同期はいつの間にか先輩になっていた。
「悪くはないんだけどね」
上司のその一言が、
何度も、何度も、胸に刺さる。
悪くない。
でも、足りない。
尖っていない。
誰の記憶にも残らない。
今日もまた企画書を差し戻され、
瑠々は終電ギリギリのオフィスで、
ひとりパソコンを閉じた。
エレベーターに乗る気になれなくて、
無意識に非常階段へ向かう。
非常階段は、
会社で唯一、誰にも評価されない場所だ。
成果も、数字も、
頑張りも置いていける。
瑠々は、
重たい鉄の扉に手をかけた。
――その向こうが、
北欧神話の世界だなんて、
このときは、まだ知らなかった。
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企画書を差し戻された日の帰り道は、
決まって歩く速度が少しだけ遅くなる。
駅前の通りは、
仕事終わりのカップルで溢れていた。
笑い声、寄り添う肩、
当たり前みたいに並んで歩く二人組。
視界に入らないように、
瑠々はスマートフォンを眺めるふりをする。
誰かと帰る予定はない。
連絡を取る相手も、特にいない。
ただ家に帰るだけだ。
コンビニで買うのは、
いつも似たような食材。
安くて、失敗しにくくて、
一人分を作りやすいもの。
帰宅すると、
靴を脱いで、電気をつけて、
誰もいない部屋に「ただいま」と心の中で言う。
返事は、もちろんない。
簡単な自炊を済ませ、
洗い物をして、
とりあえずテレビをつける。
内容は、ほとんど見ていない。
音がないと、
部屋が広すぎる気がするからだ。
瑠々はソファーに寝転がり、
天井を見つめる。
今日も一日、
ちゃんと働いたはずなのに。
ちゃんとやったはずなのに。
気づけば、
まぶたが重くなっていた。
テレビの音だけが流れる部屋で、
瑠々はそのまま眠りに落ちる。
――そして、朝。
画面には、
夜のままの番組が映っていた。
体を起こし、
時計を確認して、
「またやってしまった」と小さく息を吐く。
いつも通りの朝。
いつも通りの生活。
この先も、
何も変わらないと思っていた。
少なくとも、
会社の非常階段の扉を開けるまでは。




