後編:凍てついた扉の向こう側と、溢れだした光の奇跡
――――――――――――――――――――――――
7日前、再び湧き始めたエレナの「光」が、エレナ自身も自覚せぬうちに、辺りへと漂い始める。
料理の際、裏庭に捨てられた野菜のゆで汁は、ゆっくりと大地へ深く浸透していく。
共に捨てられた野菜くずは、鳥や小さな獣が口に咥え、エレナの知らぬ何処かへと運び去っていった。
そしてバターの芳醇な香りが、厨房の窓から抜け出て、天空へと昇って行くのだった。
――――――――――――――――――――――――
レティと一緒に厨房へ料理を取りに行き、クスクス笑いあう。
レティが朗らかな表情で、小窓から差し込む陽光に目を細める。
「奥様、今日は何だか暖かいですねえ」
「そうかしら?、春はまだまだ先でしょう?」
「ですよねえ、何だか不思議です」
*
私たちの穏やかな時間は、そうして静かに積み重なっていく。
けれど――
夜になれば、私は相変わらず独りきりで食事を摂っていた。
広すぎるダイニングルームに、ぽつんと座る私。
しんと静まり返った部屋の中。
冷ややかに磨き上げられたカトラリーが、皿に当たるかすかな音だけが響く。
本当なら夜も自分の部屋で、レティと一緒に気兼ねなく食べたい。
けれど、それは許されないことだった。
奥様である私が、毎晩のように自分の部屋に引き籠もってしまえば、お屋敷の料理長に「私の料理が不味いのか」と、余計な懸念を抱かせてしまう。
せっかく今の生活に馴染んできたのに、そんな理由で新しい軋轢を生むわけにはいかなかった。
だから私は夜に一人。
この足冷えのする席に座り続けている。
食事を終えて部屋に戻っても、私の心は晴れなかった。
寝椅子に身を預け、悶々とした思いが胸の中をぐるぐると駆け巡る。
なんで……? なんて夜は一緒に食べてくれないの?
やっぱり私は、避けられているのだろうか。
私はいったい、あと何をすればいいの?
「ねえ、レティ。あなたはどう思う?」
耐えきれず、悶々としたものを吐き出して尋ねた。
すると、傍らで控えていたレティの様子が、明らかにおかしくなった。
「あ」
ピンときた。
レティは、抱えている言葉を口に出していいものか迷うとき、決まって手元がせわしなく「もじもじ」と動き出す。
「レティ……私に何か隠してる?」
「い、いえそんなっ。ただ……その、聞かれなかっただけで……」
「聞かれなかった?」
「うう……」
「あれでしょう? 私たちが知らないだけで、このお屋敷では公然の秘密になっているような」
「はあ、まあ……」
私の問いに、レティがぽつり、ぽつりと重い口を開き始めた。
その内容に私は衝撃を受ける。
「これは……お屋敷の者しか知らぬことでして。その、世間一般には決して……」
「分かっているわ誰にも言わない。……約束する」
私が真剣な眼差しで頷くと、レティは一度深く息を吐いてから、声を絞り出すように続けた。
「前にもお話ししましたが、旦那様は魔族とのハーフでいらっしゃいます。
……その、魔族の血が夜になると、強く昂ぶってしまうようなのです」
「夜になると?」
「個人差があるようなのですが、旦那様は代々の方々よりも、その血が色濃く出ているようで……
夜が来ると、その……魔物の姿に変わってしまうというのです」
「ええっ!?」
「私共も、直接そのお姿を拝見したことはございません。
旦那様は夜になると、ご自分の部屋に頑丈な鍵をかけて、夜が明けるまで一人きりで引き籠もるのです」
「……なんてこと!」
何よそれ、どうしてそんなことになっているの!?
信じられなかった。
けれど、レティが嘘を言っているようには思えない。
思えば私は、本当になにも知らないまま、ここに嫁いできたんだな。
正直なところ、当初の私は、お母さんを助けることができなかったショックで、もう自分の人生なんてどうでもいいと思っていた。
流されるまま、ここへ嫁がされた。
ああ……この方が、王都から押し付けられた「厄介払い」を引き受けることになった、運の悪い人なのね。
と、他人事のようにそう思うだけだった。
けれど、今は違う。
『魔氷竜』の呪いのことを聞かされて、放っておけるはずがない。
フロスト様はそんな境遇にありながら、今まで誰かに、愚痴の一つでもこぼしたことがあったのだろうか。
どうして、たった一人で抱え込んでいるの?
そんなの、あんまりだわ。
私は勢いよく立ち上がり、部屋を飛び出した。
廊下を夢中で駆ける。
けれどふと足が止まり、私は振り返った。
自分でも、情けなくて泣きそうな顔をしているのが分かった。
急に立ち止まった私を見て、後ろから付いてきたレティが、怪訝そうに足を止める。
「……奥様?」
「知らないの……」
「え?」
「私、フロスト様の部屋がどこにあるのか、知らないのよ」
それが、たまらなく悔しかった。
私は本当に、フロスト様の事をなにも知らないんだな。
*
「奥様、こちらです」
「フロスト様っ」
レティに導かれ、廊下を何度か折れ、階段を上り、私は重厚な樫の扉の前に立った。
一度大きく息を吸い込み、真鍮のドアノブに手を掛ける。
――その瞬間、あまりの冷たさに、私は思わず手を引っ込めてしまった。
手の体温がまたたく間に吸い取られ、指がうまく動かない。
「……これはっ」
「旦那様の冷気です」
「これが……!?」
私は改めて、目の前の扉を見つめた。
一見したところ、冷気が漏れ出ている様子もなければ、霜が降りているわけでもない。
私の戸惑いを察したのか、レティが消え入りそうな声で教えてくれた。
「最初から冷たいわけではないのです。
触れたものの熱を、根こそぎ奪って凍らせてしまう……
旦那様が抑えきれない力が、この扉にまで満ちているのです」
「これが、フロスト様の……」
私は凍りかけた右手を見つめた。
感覚を失い、白くかじかんだ指先を無理やり握りしめる。
「ふう……ふう……」
私はもう聖女じゃない。
力の消えた抜け殻だ。
けれどまだ、消し炭のような微かな熱が残っていた。
それは何も救えない役立たずだけど、この残りカスのような熱を集めれば、まだドアノブくらいは握りしめられる。
私は再び、ドアノブに手を伸ばした。
指先が触れたのは、金属の冷たさではなかった。
こちらの命を吸い取るような、凍える寒さ。
「奥様、いけません!」
「……大丈夫よ」
私はしっかりとドアノブを握り込んだ。
鍵が掛かっていて、扉はびくともしない。
私は左手も扉に押し当て、その重厚な木肌に体温を吸われ続ける。
「フロスト様。私です、エレナです……! お願い、ここを開けてください!」
返事はない。部屋はしんと静まり返っていた。
私は扉を叩く。
いくら声を掛けても、彼は答えてくれない。
駄目だ、ただ声を掛けただけじゃ届かない。
どうすればいいの……
私はドアノブを握る手に力を込め、冷気に震える声で語りかける。
「聞いてください、フロスト様。 私がこの北国に来て、どんなにその温かさに救われたのかを」
何から話すべきか。
「……私は聖女の公務中に、母を亡くしました。
馬車にひかれて、重体だったそうです。
私が10日後に王都へ戻ったときには、母はもう死んで埋葬されていました。
私は呆然としました。
もし私がすぐそばに居れば、そんな怪我なんてすぐに治せたのに。
母を救えたのに。
それなのに私は、その場にいなかったんです」
私の残りカスのような聖女の力では、フロスト様の冷気に対抗できない。
じわじわと体温が奪われていった。
「一番大切な人を救えなかったんですよ。
そんな聖女なんて……必要なんですか?
私はその日から、急速に聖女の力を失っていきました」
みしりと扉の向こうから音がした。
気配で分かる。
フロスト様が、すぐ扉のそばに立っている。
言葉を絶やしてはいけない。
「聖女は本来、死ぬまでその役目を全うするものなんです。
けれど私は、たった七年で枯れ果ててしまいました。
力を失った私は、王都にとって邪魔者でしかなかった。
私が居座り続ければ、新しい聖女が降臨する妨げになる……そう言われました。
だから私は、遠くへ厄介払いされたんです」
扉に体温を奪われていく。
私は必死で内側の「残りカス」の力をかき集め、踏ん張った。
――――――――――――――――――――――――
この時、エレナは自覚しない。
復活した聖女の力が、己の身から大量に溢れ出ていることを。
しかし、その力のほとんどは別次元へと作用する。
かつて彼女が捨てた「ゆで汁」。
それが、地下深く凍土のさらに下。
地の底で永き眠りについていた、「大精霊」の揺り籠へと到達した。
休眠期の大精霊が、ゆで汁の温かな慈愛に触れ、微かにその瞼を震わせる。
――――――――――――――――――――――――
私は、震える唇を噛み締めて続けた。
「その際、王都は私の恨みを買うのを恐れたそうですよ。
変ですよね、力を失った私に何ができるっていうんでしょう。
けれど聖女として前例のない、ポンコツの扱いに困り果てた王都は、私をあなたに押し付けたんです」
みしり、とまた音がした。
すぐ側だ。
扉一枚を隔てたすぐ向こうに、彼の息遣いが聞こえてきそうなほど近くに感じる。
「フロスト様……なぜ、私を引き取ったのですか?
あなたなら、断ることだってできたはずでしょう?
なぜなんですか。
こんな、王都から疎まれた役立たずな――」
『扉カラ離レロ』
私はその声にゾクリとした。
人のものとは思えない。
それはいつもの、理知的で落ち着いたフロスト様の声とは、まるで違っていた。
まるで地獄の底から、無理やり絞り出しているような、低くおぞましい響きだった。
「フロスト様、お願いだから、ここを開けてください!」
『私ニ構ウナ』
「嫌です、構います! あなたが先に構ってくれたんでしょう!?
私に、こんなに温かな居場所を与えてくれた。
そんなあなたが……どうしてこんなに冷たい場所に、一人で閉じこもっているんですか!」
『死ヌゾ』
「どうして、一人で全部背負い込むんですか!」
『離レロト言ッテイル』
「レティから聞きました、あなたの家系のことを。
その重荷を、私にも背負わせてください!」
『気休メヲ言ウナ。力ヲ失ッタ御前ニ、何ガ出来ルト言ウノダ』
その言葉に、胸の奥がチリりと痛む。けれど私は言葉を止めない。
「何もできないかもしれません。でも、私はあなたの妻です!」
『形ダケノ、契約ダロウ』
「形だけに、しなきゃいいじゃないですか!」
『何ヲ言ッテ?』
「私に触れるのが怖いんですか?
私はもう、高貴な聖女でも何でもないんですよ!
大事にしようとしてくれるのは嬉しいけれど、そんなの、ほどほどにして下さい!」
『別ニ大事ニナド』
「してます! されてます! 私が、そう感じているんです! だから私も――!」
『同情ナド、イラヌ』
「強がらないでください!」
『ナンダト』
「私に聖女の力はなくなりました。
けれど私はこの七年間、王都で弱り果てた人たちの話をずっと、ずっと聞き続けてきたんです。
分かりますよ。ええ、私には分かりますっ。
あなたは今、弱り切っている。一人で抱え込まないでください……!」
『…………』
私の叫びに応えはなく、重苦しい沈黙だけが廊下に流れた。
けれど、これは私を突き放す拒絶の沈黙じゃない。
扉の向こう側から、微かな、けれど激しい息遣いを感じる。
彼は今、この薄い扉一枚を隔てたすぐそこで、自分の中の魔性と、私への想いで激しく懊悩している。
私は指先の痺れも、肌を刺す冷気も気に留めず、額を扉に押し付けた。
分かってしまう。
彼が今、どれほど孤独で、どれほど私を欲しているのかが。
私は魂を込めて呟いた。
「お願いフロスト……一人で苦しまないで」
彼が扉にすがり付いているのが分かる。
彼の心が答えてくれる。
『似テイルト……思ッタ。……私ト君ハ、境遇ガ似テイルト……』
その掠れた声に、胸が震えた。
そう。私とフロストは似ている。
私とフロストは、どちらも「大いなる器」だった。
人々にとって大切なのは、器の中に注がれた力だけで、私やフロストの気持ちなんて関係ない。
私は役立たずとして捨てられたけれど、フロストは今も、器として孤独の檻の中にいる。
寿命を半分に削られ、魔物の姿に成り果てて、たった一人。
この凍てつく部屋で、夜を越している。
『君ヲ、ホットケナカッタ……
君ニ……ソバニ居テ欲シカッタ。
君ナラバ……私ヲ分カッテクレル。ノデハナイカト……』
「ええそうです、フロストっ。
分かりますっ、分からせて下さいっ。だからお願い、ここを開けてっ」
『駄目ダ』
「なぜですかフロストっ」
『扉ヲ開ケタラ、私ハ君ヲ、食イ殺シテシマウ』
「え?」
『今ノ私ハ、自分ヲ抑エキレナイ。
モシ扉ヲ開ケタラ、私ハ、エレナヲ欲スルアマリ、食イ殺シテシマウ』
「そんなことはっ」
『コレハ、抑エキレナイ、魔ノ性ナノダ。頼ム、帰ッテクレ。
エレナヲ殺シタクナイ。頼ム……頼ム……』
「フロストっ」
私は扉にすがりつきながら、己の無力さを痛感していた。
もし私が聖女のままだったなら、こんな扉など打ち破って、とっくに彼を抱きしめていただろう。
けれど、今の私にはそれができない。
力のない、空っぽの器になった私には、何一つできない。
扉一枚隔てたすぐそこに、フロストが凍えながら助けを求めているというのにっ。
「ああ、フロストっ……!」
『頼ム……頼ム……』
「私はあなたに、何も……できない」
「そんなこと、ありません!!」
崩れ落ちる私を、後ろから強く抱きしめ、支える者がいた。
扉に体温を奪われていた私の背中に、血の通った、人の温もりが伝わってくる。
「レティ……?」
「奥様、何を言っているんですか、しっかりしてください!
奥様は今まで、聖女の力なんて使わずに、旦那様の心を溶かしてきたじゃないですか!」
「レティ、それは……」
「そうですよ、料理です! ずっと料理の力で、旦那様を温めてきたんです!」
「でも……」
「でもも何もありません! 私はすぐそばで、ずっと見ていたんです。
見てきました。これからも見せてください。
だから、お願いです、しっかりしてください……っ!」
「レティ……」
私はレティに支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
レティは屈んで、私の膝についた埃を優しくはたいてくれる。
顔を上げたレティは、顔を真っ赤にしながら、何度も頷いていた。
私の冷え切った体に、彼女の諦めない勇気が、熱く沁み込んでくる。
私も力強く頷き返し、もう一度、扉を見据えた。
いいえ、扉の向こうにいるフロストを見た。
――たとえ見えなくとも、私にははっきりと見えた。
「フロスト、約束してください。
明日も、絶対に私の部屋に来てくださいね。
お昼、絶対に待っていますから。美味しいご飯を、たくさん作って」
私は扉に掌を当てる。
分かる。
フロストもまた、扉の向こう側から私の掌に、自分の掌を重ね合わせている。
――分かるったら、分かるのだ。
「約束ですよ、フロスト」
『……エレナ』
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この時、約束を交わしたエレナは、自覚していない。
復活した聖女の力が、己の身から大量に噴き出ていることを。
しかし、その力のほとんどは別次元へと作用する。
かつて彼女が捨てた「野菜くず」。
それが鳥や小さき獣たちに運ばれて、北国の各地へ蒔かれた。
野菜くずは大地に根を張り、地下深くへ亀裂を走らせる。
更に、かつて彼女の料理にたっぷり使われた、「こっくりとしたバター」。
その芳醇な香りが成層圏まで達し、超高速の風で、遠く「王都の地」まで漂うのであった。
――――――――――――――――――――――――
*
翌日のお昼どき。
私は自室の、狭い厨房に立っていた。
昨夜は、まったく眠れなかった。
日付が変わり、朝日が昇り、そして約束の昼どきを迎えるまでが長い。
気が遠くなるほど、長く感じられて仕方がなかった。
コチコチと時を刻む柱時計を、昨晩から二分おきに睨みつけていたような気がする。
隣で一緒にお昼の支度をしているレティを見ると、彼女の目も赤く充血していた。
レティもきっと、寝れなかったんだろう。
コチコチ、コチコチ……
レティがちらりと時計に目をやり、手にしていた布巾をフックに掛けた。
昨夜は気丈に私を励ましてくれた彼女だったけれど、その顔に疲れが滲んでいる。
「奥様……それでは、旦那様をお迎えに参ります」
「えっとあの……お願いっ」
お昼が来るのを、あんなに待ちわびていたはずなのに。
いざその時間が訪れると、私はあまりの緊張に胃がきゅっとなった。
部屋に残された私は、一人テーブルの椅子に座り、思わず頭を抱える。
昨晩、あんなことがあったのだ。
今日、彼は本当に来てくれるだろうか。
静まり返った室内で、暖炉の薪がぱちりと弾けた。
そっと目を閉じれば、いつも向かいの席に座る、フロスト様の眼差しが浮かんでくる。
淡い灰色の瞳は一見冷ややかに見えるけれど、実際はとても穏やかな光を宿している。
その理知的な微笑みに、昨晩聞いた、あのしわがれた獣のような声が重なった。
私ははっとして顔を上げる。
嫌な想像を打ち消すように、首をぶんぶんと横に振った。
「落ち着きなさい私っ。
いつものように、そう、いつものように振る舞えばいいの。
何事もなかったかのように、いつも通りに笑って……
ええと、いつもって、どうしていたかしら!?」
ええい、落ち着いてっ。
とにかく座りなさい私っ。
いいえ、もう座っていたわ私っ。
私はテーブルに並べられた皿やカトラリーを、何度も何度も、指先で確かめる。
「なんてことないわ。
この程度の緊張、大聖堂で新年の挨拶をさせられた時に比べれば、ずっと冷静でいられるはず。
私はフロスト様の妻なのよ。
顔を合わせて挨拶をするなんて、当然のことでしょう?
とにかく座って、ゆったりと構えて待っていればいいのっ」
けれど気がついたときには、 自室前の廊下に立っていた。
いやダメでしょ。
仮にも私は、アイゼンガルド家の主母なのよ?
廊下でぼうっと突っ立っているなんて、あまりに締まりがないわ。
レティに見られたらまた怒られる。
私はくるりと背を向けて、自室のドアノブを握りしめた。
その瞬間、昨晩のあの凍えるようなドアノブの感触が、脳裏をよぎる。
あの扉の向こうで、フロスト様は眠れたのだろうか。
あのとき、扉越しに合わせた掌に感じた微かな温もりは、気のせいだったのだろうか。
そういえば私。
まだ一度も、フロスト様と手を握ったことがなかったな。
「き……今日、握ってみようかしら。
いえ私からだなんて、そんなはしたないこと……
でも握るんじゃなくて、ほんの少し触れるだけなら」
私はどうにかして、不自然にならずフロスト様に触れられないかと、小声でぶつぶつと呟き始める。
「よろけてみる? いえ、あまりにわざとらしいわ。
黒パンを手渡すときに、指先を触れ合わせられないかしら。
えっと、人差し指をこう伸ばして……」
「奥様」
「なにレティ?」
自分の指先を見つめたまま、生返事で振り返る。
するとそこには、フロスト様が立っていた。
(ひゃああああああああああああっ!)
声にならない絶叫が、心の中で木霊した。
心の絶叫から、どうやっていつもの笑顔を取り繕えばいいのか。
あまりの動揺に、私の思考は完全に停止してしまった。
頭の中が真っ白になっていると、 不意にフロスト様が私の手を握りしめた。
(ええええええええええええええっ!)
本日二度目の絶叫が、心の中で木霊する。
先ほどまで苦心していた作戦が、もう成功してしまった。
どうして!?
「……痛みはないのか?」
「え……?」
予想外の問いかけに、私は呆然と声を漏らす。
フロスト様は、私の右手を自分の大きな掌の中に包み込み、確かめるように優しく揉み解していた。
「昨晩……この手で、あのドアノブを握り続けていただろう」
それは、私の身を案じる、低く穏やかな声だった。
昨夜、冷気に体温を奪われ、芯まで凍えた私の手を、彼は心配してくれていたのだった。
私の手を揉み続けるフロスト様に、どう反応していいのか分からず、顔が火がつくように熱くなる。
私は揉まれ続ける、自分の手を凝視した。
いいえ、正確には、私の手を包み込んでいるフロスト様の「手」を。
なんて大きな手なのだろう。
フロスト様は、立ち姿こそ細身で涼やかだけれど、その手はがっしりとしていた。
そして何より、驚くほど熱い。
これが北国の男の人の手なのだろう。
ほかほかと温まる心で、私はゆっくりと顔を上げた。
すると、フロスト様の淡い灰色の瞳と視線があった。
その途端、私の心臓はさらに激しく跳ね上がる。
まるで見えない魔法に掛かったように、どうしても瞳を逸らすことができなかった。
フロスト様の、形の良い薄い唇が動く。
「本当に、どこも痛まないのか?」
「ぜっ……全然、大丈夫です!
私、少しは力が残っていたみたいで、本当に、これっぽっちも!」
「そうなのか」
「そうなんですっ」
私の必死な返答を一度飲み込み、彼は静かに、けれど深く私の名を呼んだ。
「エレナ」
「はい……」
「私も……エレナとの関係を、形だけのものにしたくはない。心からそう思っている」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
フロスト様の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
「まだ何も始まってはいなかったが……私と、一からやり直してはくれないだろうか」
「フロスト様っ」
歓喜する私の声に応えるように、ぐいと腕を引かれた。
気づいたときには、私はフロスト様の腕の中にいた。
彼の大きな体躯に、私の体はすっぽりと収まってしまう。
「エレナ……『様』は付けないでくれ。『フロスト』と」
「フロスト……っ」
ぐすんっ、ぐすんっ。
彼の胸に抱かれていたら、誰かがすすり泣いている。
顔を上げて見ると、レティが目を真っ赤にして、鼻を噛んでいた。
「レティ……」
「ああ、奥様、旦那様。本当によかったあ!」ちーん
いけない私ったら、レティの前でフロストの胸に、これでもかと頬を擦りつけてしまった。
彼から離れようとしたら、レティが慌てて制止する。
「いえ、お構いなくお続けください、最後までっ」
「な、何を言っているのよ」最後ってどこまで!?
私は顔を真っ赤にしながら、ササッと乱れた前髪を整え、自室の扉を開けた。
厨房の方から、食欲をそそるバターの香りがふわりと漂ってくる。
私の部屋、私の居場所へ、私の大切な人を招き入れる。
「さあ、フロストお昼にしましょう」
今日はレティと頑張って色々と作ったんだけど、まずはこれっ。
私はテーブルの真ん中へ、大皿に盛り付けられたマッシュポテトを置いた。
潰したジャガイモと、バターを混ぜただけの素朴なものだけれど。
今日のお昼、フロストにはこれを食べて欲しかった。
それは私の変わらない思い。
私、フロスト、そしてレティの三人で食卓を囲み、私はフロストのお皿へ、まだ湯気の立つ黄金色のマッシュポテトをこんもりと盛り付けた。
「それでは、いただきましょう!」
*
北国の片隅で始まった、じんわりと温かなお昼ごはん。
そのささやかな幸せは、芳醇なバターの香りをまとっていた。
こっくりとしたバターの香りは、三人が囲む食卓から立ち昇り、部屋の天井を軽やかにすり抜けていく。 それは屋敷の屋根をも越えて、さらに空高く、高くへと昇っていった。
渡り鳥の羽ばたきを追い越し、白い雲を突き抜け、さらに上空。
その香りは、真っ青な成層圏に浮かぶ「大精霊」にまで漂った。
大精霊は香りを通して、3人の囲む食卓を覗き込む。
覗き込むといっても、大精霊に人間のような目があるわけではない。
もし鳥の目ほど視力があり、気づく者がいたならば、大精霊は虹色に輝く雲に見えただろう。
大精霊は、天に昇ってきたバターの香りを深く、大きく吸い込んだ。
『ふむ……あの娘が、わしを「ゆで汁」で叩き起こした張本人か。
わしの休眠期は、あと五百年は残っていたはずなのだが、たいした女じゃのう。
おい、そこの娘、おーい……。
なんと、わしを叩き起こしておいて、当の本人はこれっぽっちも気づいておらぬのか?
変わった聖女もいたものじゃて、まったく』
大精霊はやれやれと、無い首を振って苦笑する。
そして、その視線をふいと傍らへ向けた。
そこには、空を凍てつかせるようなフローズンブルーの鱗を煌めかせた、巨大な竜が羽ばたいていた。
『目覚めて地表に出てみれば、やけに寒々としておった。
ここは確かに北国じゃが、わしが眠りに就く前は、もっと過ごしやすい豊かな地であったはず。
はて、何ゆえかと思えば。おぬしの仕業であったか魔氷竜よ』
『……GURURURURU』
『ここはわしの庭じゃ。わしが寝ておる間とて、勝手な真似は許さぬぞ。
今回ばかりは見逃してやる。さあ、さっさといね』
『……GORURU』
格上の神霊である大精霊に鋭く睨みつけられ、さしもの魔氷竜も、すごすごと背を向けた。
その巨大な背中に向かって、大精霊がさらりと声をかける。
『去り際、あの男の呪いを解いてゆけ。
あの男の先祖である勇者とは、ちと顔見知りでな。
共に魔王を倒した、古き仲なのじゃ』
『GU〜』
魔氷竜は観念したように短く鳴くと、フロストにかけられた呪縛を解き、今度こそ羽ばたき去っていった。
『ふむ、わしは二度寝としゃれこむか。じゃがその前に……』
大精霊は、改めて地表の様子をじっと見つめる。
『ほう、野菜くずが大地に根を張り、分厚い凍土を割っておるわい。
そしてその亀裂からは、至るところでこんこんと湯が湧き出しておる。
これもあの娘の仕業か?
これほどの湯量。
これでは、ここは随分と豊かな温泉地となるじゃろうて。
本来ならば、わしを叩き起こした罰を与えるところじゃが……
この湯に免じて、咎めなしとしてやろう』
実のところ、大精霊は大の温泉好きであった。
成層圏からいそいそと降りて、一匹の白い小熊の姿となる。
そして、すでに湯に浸かっていた鹿や猿、猪たちの輪に混じり、肩までざぶりと浸かった。
『はふ〜、極楽じゃて!』
さて、住処から追い出されてしまった魔氷竜は、次なる安住の地を求めて思案に耽っていた。
するとどうだろう。
高く澄み渡った青空に、またしてもあの芳醇なバターの香りが漂ってくるではないか。
魔氷竜はその抗いがたい香りに、導かれるまま大空を羽ばたき、ついに王都の上空へとたどり着いた。
見下ろせば、そこには人間が密集し、熱気が溢れんばかりに満ちている。
これならば、なかなかに「食いで」がありそうだ。
魔氷竜は満足げに喉を鳴らすと、そこを己の新たな巣と定めた。
『GU〜RARA!』
*
春が来た。
北国の冬を知らない私には分からないけれど、今年は随分と早く春が来たみたい。
レティが喜んでいる。
「いいお天気ですね、奥様っ」
「本当に暖かくて、なんて気持ちがいいのかしら。レティこれはどう?」
「はい、そのくらいの蕾が一番の食べごろですよ」
今、私は小川の土手に出て、お昼の料理に使う春の野草を摘んでいる。
フロストが、それをカラリと揚げて食べるのが好きらしいから、頑張って摘んでいた。
彼の喜ぶ顔が見たくて、ついつい夢中で摘んでしまう。
そう言えば最近、フロストが夜に魔物にならなくなったので、晩ごはんも一緒に食べていたりする。
フロストは「エレナ、君の料理のおかげだ」なんて言ってくれたけれど、本当にそうだったら嬉しいな。
「ねえレティ、聞いた? 山に湧いた温泉に、白い小熊が住み着いているんですって」
「ああ、私も聞きました。ず~っと浸かっていて、ず~っとウトウトしてるって」
「可愛いわね。一度見に行ってみたいわ」
私たちの会話は、春風に乗ってのんびりと流れていく。
するとレティが、ふと思い出したように声を潜めて続けた。
「それから、聞きましたか奥様?
王都の方はちっとも気温が上がらず、いまだに春が来なくて大変なことになっているらしいですよ」
「へ~」
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
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