前編:形だけの結婚と、黄金色のマッシュポテト
本日、前編・後編を一挙投稿しました。 最後まで一気に完結しております。 バターの香りと共に、どうぞ最後までお付き合いください!
「今日からあなたは、私の妻だ。
ただし形だけの婚姻。この屋敷で好きに過ごしてくれたらいい」
辺境の地、極寒の地を治める「フロスト伯爵」は、淡い灰色の瞳で冷淡に告げた。
聖女としての力を使い果たし、王都から「厄介払い」として嫁がされた、奇跡の人エレナ。
それが私。
私に与えられた豪華な寝室からは、白い雪が舞い散るのが見える。
初夜を共にせず、夫婦の実態がない婚姻。
けれど私は絶望しなかった。
もともと出自は、庶民出の田舎娘だ。
それが7年間、聖女としてもてはやされていただけ。
昔の隙間風だらけの家での暮らしと比べれば、何の文句も言う気が無い。
私は手に息を吐き、隣室に備え付けられた小さな厨房で、料理を始める。
お茶を沸かすための厨房だから、魔導コンロがひとつしかないけれど、それで色々な料理ができるわ。
夫が私に付けてくれた、侍女のレティが慌てた。
「まあ奥様、そんなことはなさらず、私に任せておいて下さい」
「私を奥様と無理に呼ばなくていいわ。形だけの結婚ですもの。あなたも知っているでしょう?」
「いえ私は……都会のことなどさっぱり分からず、世間知らずで」
「ありがとう、優しいのね。では一緒に作りましょう。それなら良いでしょう?」
「はあ、まあ……」
「さて、何を作ろうかしら。食材は……ああ戸棚にはお茶しかないのね。それではこれから1階の厨房へ行って食材を――」
「奥様、それは止めて下さい、私が怒られてしまいます」
「あらそう? そういうものなのね。じゃあ……」
私は紙にさらさらと書き手渡す。
「これを、持って来てくれるかしら?」
頼んで持って来てもらったのは、ジャガイモとバター。
持ってきたレティは、戸惑いながらもこれで何を作るのかと、ちょっと興味があるみたい。
では作りましょうと言うと、素直に手伝ってくれる。
ふたりでジャガイモを洗い、皮をむく。
魔導コンロに火を灯して、お湯が沸騰したら丸のまま茹でる。
白い湯気が、もうもうと立ち昇って温かい。
「ああ、やっぱり料理を作っていると落ち着く。聖女をやっていた頃は、何もさせてもらえなかったの」
「奥様……本当に聖女でいらして……」
「使い捨てだけれどね」
「いえ、そんな」
串を刺して確かめて茹で上がったら、ふたりで頑張って、木べらで潰していった。
「奥様……潰すだけでよろしいのですか? 裏ごし器を持ってまいりましょうか」
「いいの。こうして、ゴロゴロした塊が残っているくらいがいいのよ」
一通り潰し終えると、そこにバターをたっぷりと落とした。
黄金の塊が熱でとろりと溶け、ジャガイモのほっこりとした香りと混ざり合う。
溶けたバターとジャガイモを、木べらでよく混ぜたら出来上がり。
「さあ、食べましょう」
「え、これだけ?」
レティから素直な言葉が漏れる。
もっと、色々とすると思っていたのだろうな。
私とレティはふたりで食卓を囲む。
レティは恐れ多いと言ったけれど、いつも一人で食べるのは寂しいからと、無理やり座らせた。
たっぷり作ったから木べらでこんもりお皿に取り分けて、出来立てほくほくのマッシュポテトを頂く。
スプーンでさくりと掬って一口含む。
そうしたらバターの香りが鼻から抜けて、こっくりとしたジャガイモの旨味がじんわり来た。
ほど良いバターの塩気が混じり合い、口一杯に故郷の味が広がる。
「はああ、美味しい」
私は頬っぺたを手で支えて、至福の時に浸る。
そんな様子が珍しかったのか、レティはまじまじと見つめていた。
そんなに見つめられると、恥ずかしいんですが。
「なにか変かしら、私」
「あの……このようなジャガイモにバターを混ぜただけのモノを、すごく美味しそうに、召し上がっていらっしゃるので」
「美味しくないの?」
「いえいえ美味しいです、私も好きです。ただこんな庶民のモノを、奥様がそんなに喜ぶなんて」
「だって私、庶民の出だもの」
「そうなんですか?」
「たまたま、光の魔法の素質があったから、ちょっと7年間ちやほやされてただけなの」
「えっ、あのっ……はあ」
「子供の頃は、これがご馳走だったなあ。
南部の裏町に住んでいるとね、なかなか新鮮なバターが手に入らなくて。
でもたまにお母さんが買ってきてくれた日には、必ずジャガイモとバターをせがんでいたの。
当時は、こんなに沢山バターは使えなかったわ。
スプーンに一杯だけ」
「そうだったんですか」
「意外かしら?」
「あの……」
「ふふ、そんな困った顔しないで。ただこうして気軽にお喋りしたいだけなの。
聖女をしていた頃は、いつも一人で食べていたから、味気なかったわ」
「奥様……」
「ねえこれからは、一緒に食べない? どうせこの部屋には誰もこないのだし」
「え、あのっ、それは……!」
「ねえそうしましょうよ、ねっ、お願い」
「はあ……まあ」
こうして私は、お昼ごはんを侍女と一緒に作り、ふたりで食卓を囲むようになった。
北部の冬は手に入る食材が乏しかったかれど、そこをやりくりして作るのが楽しかった。
レティも案をだしてくれる。
北部だからか畜産がさかんで、バターだけはたっぷりあった。
『焼きカブのバター』
じっくり焼いたカブにバターを落とし、少しの塩と乾燥ハーブを散らしていただく。
カブとバターの相性は最高っ。
『硬くなったパンのバタークルトン・スープ』
カチカチになった古いパンを、バターで揚げ焼きにする。
それを干し肉とチカ豆のスープに、溶けたバターごとイン。
スープの上にバターの膜が張って、ずっと熱々のまま。体があったまる。
『干し肉と玉ねぎのバター蒸し』
旨味のぎゅっと詰まった干し肉を、時間をかけてバターの脂で柔らかく戻す。
そのあとスライスした玉ねぎを入れて、そのまま蒸し焼きに。
これは玉ねぎが主役。甘くて美味しい。
「後ろを通るわね」
「はい奥様」
ふたりで、湯気の立つ狭い厨房を行ったり来たりする。
「奥様、後ろ鍋が通ります」
「はいはい」
いつものように二人で食卓を囲み、他愛ない話をしていたら、レティが急にそわそわする。
「奥様、あの……差し出がましいことを申し上げますが」
「なあに? 改まって」
私バターソースに、パンを浸しながら顔を上げた。
レティは、少しもじもじしながら切り出す。
「王都のお母様を、こちらへお呼びになってはいかがでしょうか」
「……え?」
「奥様がこうして楽しそうに料理をされるのを見ていると、きっとお母様もご一緒なら、もっと賑やかで楽しくなるのではないかと思いまして」
なんと返そうかと思って言葉に詰まる。
レティが私そんな私を見て、怪訝な表情をした。
私はつとめて軽く言おうとしたけれど、声が掠れたかもしれない。
「母は、もう死んじゃったの。馬車にひかれて」
「えっ……」
レティの手から、スプーンが落ちた。
私は薄く微笑む。
「……その場に私がいたら、聖女の力ですぐに助けられたんだろうな。と思う。
でも、私はずっと遠い場所で、知らない誰かのために祈っていたの。
母が死んだと聞かされたのは、一週間後だったわ。
直ぐ知らせると公務が滞るから。
私が帰った時は、もう埋葬された後だった。
母が一番私を必要としていた時に、私は傍にいてあげられなかったのよ」
お母さんが死んで、もう3ヶ月。
守りたい者を守れない聖女なんて、何の意味があるのだろう。
私はその日から、急速に聖女の力を失っていった。
力を失った聖女は厄介者でしかない。
次の聖女が王都で出現するために、王都から出来るだけ遠い所に追いやられる。
そういう事は、あまり庶民に知られていないんじゃかな。
私も厄介払いされるまで知らなかった。
一言で終わらすつもりだったのに、言葉が止められなかった。
レティが立ち上がり、深々と頭を下げる。
「申し訳ありません奥様、私何も知らずにっ」
「いいの気にしないで。さあ座って食事を楽しみましょう」
レティは硬い表情で席に着く。
私はレティの手をそっと両手で包んだ。
「レティありがとう。あなたのその気持ちが、本当に嬉しいわ」
嘘偽りのない気持ちだった。
「本当に、母も一緒にごはんを食べられたら……
でもレティ、あなたが居るわ。
こうしてレティと一緒に、ご飯を食べるのが楽しいの。
七年ぶりに、温かなものを食べているような気がする。
私と一緒に食べるのが、あなたの負担になっていなければいいのだけれど。
迷惑かもしれないけれど、これからも、私と一緒に食べてくれるかしら」
「奥様、迷惑だなんてとんでもありません。
私の方こそ、ご一緒できて嬉しいんです。
こんなに優しい方にお仕えできて、本当に幸せなんですから」
「ありがとう……本当に、ありがとう」
私は胸がいっぱいになって、レティの手を強く握りしめた。
レティも困ったように笑いながら、同じように握り返してくれる。
なんて、いい子なのだろう。
「こんなにいい子を付けてくれたのだから、フロスト様には感謝しなくてはいけないわね。
それに、私のような厄介者を引き受けてくださって……申し訳ないくらいだわ」
「奥様……」
レティが下唇を噛み、じっと私を見つめてくる。
何かを言いかけては躊躇い、けれど決心したように、もう一度口を開いた。
「奥様はご存知なのでしょう?
旦那様の……いえ、アイゼンガルド家のことを」
「アイゼンガルド家のこと?」
それは何か、意味を含んだ問いかけだった。
けれど、私には見当もつかない。
分からないからそのまま伝える。
「私、前にも言ったけれど、ただの庶民の娘なの。
何も知らないまま、ここに嫁いできたわ。
その……何か、知っておくべきことがあるのかしら?」
そう尋ねると、レティは目に見えて困惑した。
私が本当に何も知らないと察して、バツが悪そうに言葉を飲み込もうとしている。
私はレティの手をぎゅっと握りしめた。
「レティ、本当に何も知らないの。だから教えて……お願い」
しばらく逡巡していたレティだったけれど、やがて深く頷く。
「奥様……これは、この土地の者なら誰でも知っていることで。
決して、秘密にされているような話ではないのですが……」
「ええ」
「旦那様の一族は……『魔氷竜の心臓』と契約しているのです」
「まひょうりゅう」
聞き慣れない不穏な響きに、私は思わず言葉を失った。
「この北の地は、一年中吹き荒れる空っ風のせいで、まともに作物など育ちません。
ですが遥か昔、旦那様のご先祖が、北の山に棲まう魔獣と契約をなさったのです。
そのおかげで、この地でも辛うじて作物が実り、領民たちは生きていくことができています」
「そんなことが……」
「魔獣は、こう告げたそうです。
『貴様らを飢えから解放してやる。その代わり、古の勇者の血を引くお前の寿命を、半分差し出せ』と」
「寿命!?」
「それ以来……
代々、アイゼンガルド家に生まれる子らは、魂を半分魔獣に喰われた状態で生まれてくるようになりました。
喰われた部分を魔獣の魔力で補われて、生まれながらに人と魔族の半身を持つ……呪われた者となるのです」
「呪われた者っ」
「奥様。……奥様は、こう思っていらっしゃいませんか?旦那様は冷淡なお方だと。
結婚したきり顔も見せない、血も涙もない酷い人だと」
レティが私を真っ直ぐに見つめる。その瞳には、主を想う切実な色が宿っていた。
「けれど違うのです。旦那様はこう考えておいでなのです。
魔族の血を引き、呪われた身である自分が、清らかな聖女様のそばにいてはいけない。
自分のような汚れが、奥様を穢してはいけないのだと……」
「そんな穢すだなんて!」
私は叫んでいた。
それは悲しいすれ違い。
「私はもう、聖女なんかじゃないわ。
力を失って王都から厄介払いされた、ただの庶民の娘なのよ。
それなのに彼が自分を責めて、私から遠ざかるなんてっ」
「旦那様は……あの御方は、あまりにも不器用で真っ直ぐなお方なのです」
レティの言葉が、私の胸に深く突き刺さる。
私はじっとしていられない気持ちになった。
何とかしなければっ。
――――――――――――――――――――――――
エレナが拳を握りしめ、強い決意を瞳に宿したその時である。
人の目には見えず、ましてや語り合う二人の耳に届くこともない、静かな異変が起きた。
それはエレナの魂の深奥。
聖女としての役目を終え、枯れ果てたはずの魔力の源泉。
その 底に入った亀裂から「光」が滲みだし、再び湧き出てくる。
――――――――――――――――――――――――
「ねえレティ。次のお昼、フロスト様をここに招待しようと思うの。どうかしら?」
「奥様!」
私がにっこりと告げると、レティの顔がぱあっと明るくなった。
*
次の日のお昼。
レティに案内され、フロスト様が硬い表情で部屋にやってきた。
私はエプロン姿でお迎えする。
その姿を見た瞬間、フロスト様はあからさまに戸惑いの色を浮かべた。
きっと下の厨房で作られた料理を、一緒に囲むだけだと思っていたんだろうな。
私がいたずらっぽく微笑むと、フロスト様の後ろで、レティも目をキラキラさせてにっこりしてる。
フロストが戸惑いながら尋ねてくる。
「エレナ、君が料理を?」
「ええ、そうですよ。テーブルで待っていてくださいね。
今、出来立てをお持ちしますから」
私はいそいそと狭い厨房へ戻り、大皿に盛った料理を運んだ。
テーブルに置かれた料理を見て、フロスト様はまた戸惑っているようだった。
まあ、そうだよね。
私が置いたのは、潰したジャガイモにたっぷりのバターを混ぜ込んだだけの、素朴なマッシュポテトなのだから。
こんもりと盛られた白い山から、バターのこっくりとした香りが立ち昇ってくる。
「これは……」
「これが、私なんです」
「え?」
「これが、私の大好物なんです。よく母が作ってくれました。
これが食卓に出る日は、私は本当に嬉しくて、何度もおかわりをしていたんですよ。
……フロスト様には、私の本当の姿を見てほしいんです」
「本当の……」
「私は王都の貧しい裏街で育ちました。
聖女だなんて、もてはやされはしましたが、私はそんな柄じゃありません。
ジャガイモとバター。それが私なんです。
そんな私の『実家の味』を、フロスト様にも味わってほしいんです」
私は皿にマッシュポテトをよそい、フロスト様の前に置いた。
「どうぞ、召し上がってみてください」
フロスト様は少しの間マッシュポテトを見つめていたけれど、やがてスプーンを手に取り、さくりと掬って口に運んだ。
私は期待に胸を膨らませ、その口元をじっと見つめてしまう。
フロスト様がゆっくりと口を動かし、飲み込むのを、息を呑んで見守った。
ちらりとレティの方を見てみれば、彼女はフロスト様の後ろで、祈るように両手を合わせていた。
やがて、フロスト様がゆっくりと顔を上げる。
「……うまい」
フロスト様は、二口、三口と続けて口に運ぶ。
私はその様子を見ながら、心の中で小さく拳を握りしめた。
レティも感極まったように手で口元を覆い、肩を揺らしている。
もしフロスト様が見ていなかったら、きっと私とレティは手を取り合って、子供のように跳ね回っていただろう。
私はにっこにこで、フロスト様の正面の席に腰を下ろした。
そして、レティに手招きをする。
「さあ、レティも座って」
「えっ」
レティは顔を真っ赤にして、「い、いえ! 私はここで控えておりますから!」と必死に辞退した。
私は「そうはいかないわよ」とばかりに、もう一度立ち上がってレティの手を引いた。
レティはまるで海老のように腰を曲げて、後ろへ下がろうとする。
「だーめ。レティ、座って」
「けれど……!」
「レティ、あなたが一緒じゃないと嫌なの。
だって、これまでずっと一緒にご飯を食べてきたじゃない。
私はあなたとお喋りしながら食べたいの。
ねえフロスト様も、大勢で食べた方が美味しいと思われませんか?」
「……ああ、構わない」
「ほら、決まり」
「奥様ぁ……」
レティをなんとか座らせると、私は彼女が逃げ出さないように、自分の椅子をずらして彼女の横にぴたりとくっついた。
テーブルマナーなんてそっちのけだけれど、いいのだ。
この部屋の中だけは。
「奥様っ」
「ふふふ」
少しはしゃぎすぎたかしら。
フロスト様が手を止めて、不思議そうにこちらを見ている。
「……いつも、そんな感じなのかい?」
レティが怒られたと思って「申し訳ありません旦那様っ」と言い、立ち上がろうとするけれど、私はその手をぎゅっと握って離さない。
私はフロスト様の問いに、真っ直ぐに答えた。
「ええ、そうですよ。レティとはいつも一緒にご飯を食べているんです。
だって、一人で食べるより、皆で食べた方がずっと美味しいじゃないですか」
私は「皆で食べた方が」という言葉に、力を込めた。
とどけ私の気持ち。
フロスト様がスプーンで、マッシュポテトを口に運ぶ。
味わうように頷き、何か感じ入った表情で私を見つめた。
「不思議だ……ただのジャガイモとバターが、こんなに旨いとは。 これも皆で食べるからなのか」
「そうです。それともう一つ、私が心を込めて作りましたから」
大真面目に言うと、フロスト様の目が少しだけ見開かれたようだった。
そして、ほんの少し笑ってくれる。
私はそれが何よりも嬉しかった。
フロスト様は、取り分けたマッシュポテトをすっかり平らげてしまう。
そして凛々しい顔で私に言った。
「おかわりをもらえるだろうか」
そうだよね。大きな男の人が一皿で満腹になるわけないよね。
私は勢い良く立ち上がった。
「実はジャガイモとバター以外も、用意してあるんです。
レティと一緒に作ったんですよ。
召し上がってくれますか?」
「ああ、一緒にもらいたい」
「ふふ……」やった!
『キャベツとベーコンのバター蒸し焼き』
ざく切りにしたキャベツとベーコンを、少量の水とたっぷりのバターで蒸し煮にする。
これは、キャベツ芯のところが一番甘くて美味しい。
『オニオン・バター・グラタン(パンの耳入り)』
玉ねぎをバターで飴色になるまで炒め、そこに硬くなった黒パンを放り込む。
パンが玉ねぎの甘みとバターを全部吸い込んで、「もっちもち」になったところを頂く。
本当にもっちもち。
最後は『焼きリンゴのバターのせ』
コンロの隅でじっくり焼いたリンゴを割り、そこにバターをごろっと乗せる。
熱で溶け出すバターと、リンゴの香りが、私をわくわくさせる。
これを作ってもらえるのはお祭りの日だけ。今日はお祭りっ。
あまあま、もっちもち、わくわくの料理を、3人で、ほくほく、はふはふして食べた。
外は冷え冷えとして風が吹いているけれど、私たちのお腹は温かく、汗をかいてしまうほどだった。
「……旨かった」
そう言って部屋を立ち去ろうとする彼の背中に、私は声を掛ける。
自然に言ったつもりだけど、少しだけ声が強張ったかもしれない。
「また、来てくれますか?」
フロスト様は振り返り、逆に尋ねてきた。
彼のその淡い灰色の瞳に、戸惑いが見え隠れする。
「……来て、いいのか?」
少し前までの私なら、妻の部屋に来るのを迷うなんて冷たい人だと思っただろう。
けれど今は、彼がなぜ躊躇うのかを知っている。
だから私は、心を込めて誘った。
フロスト様の、心の壁の向こう側に声をかけた。
「はい。明日も、絶対にきてくださいね」
フロスト様の足音が、廊下の奥へ消えていく。
さっきまでの賑やかさが嘘のように静かだけれど、空気の中にはまだ、リンゴと焦げたバターの甘い匂いが濃く残っていた。
私とレティは、どちらからともなく「ふうっ……」と息を吐いて、空っぽになった皿を見つめる。
「……レティ。フロスト様、おかわりしてくれたね」
「はい奥様、それはもうがっつりと」
「ふふふ」
私は自分の手を見つめる。
聖女の力はもうないけれど、ジャガイモとバターで奇跡を起こしたような気持ちになった。
「ねえレティ。私、明日もって言っちゃった」
「最高でしたよ、奥様っ」
私たちは笑い合いながら、テーブルの片付けを始めた。
*
その日をきっかけに、私とフロスト様、そしてレティの三人で囲む、ささやかな昼食の時間が始まった。 私とレティが作るものだから、お屋敷の料理長が腕を振るった豪華な料理には、到底かなわない。
素朴な家庭の味。
そんな料理を、フロスト様はいつも「旨い」と言ってくださった。
私がレティと、昨日あった出来事をああでもない、こうでもないと話すのを、穏やかな表情で(私にはそう見えるっ)見守ってくれる。
こちらから話を振れば、言葉少なではあるけれど、話に耳を傾けぽつり、ぽつりと丁寧に返してくれた。
そんな時、私は確信する。
フロスト様もまた、この昼食の時間を楽しんで(私には絶対そう見えるっ)くださっているのだと。
お昼になると、いつもレティが彼をお迎えに行くのだけれど、ある日のこと――
「では、旦那様をお迎えに行ってまいりますね」
「私も一緒に行こうかしら」
「いえいえ、これは私の役目ですから。 奥様に使い走りのような真似をさせるわけにはいきませんって」
「そういうものかしら?」
「そういうものなんです」
「じゃあ、せめて途中までならいいでしょう?」
「んもう、奥様ったら……」
レティを困らせてはいけないと思いつつも、ついつい不満がでちゃう。
もちろん、分かっているんです。
レティはこの部屋の中であれば、私の不作法をかなり見逃してくれる。
けれど一歩部屋から出れば、そこには他のアイゼンガルド家の使用人たちの目がある。
もし私が不用意な振る舞いをすれば、「王都から来た奥様は、マナーの一つも知らない」と侮られてしまうと思う。
レティは、そんな視線から私を守ってくれていた。
ありがとう、レティ。
けれど迎えに行けるのが、少しだけ羨ましくなってしまうんだもの。
「途中まで行って、遠くからフロスト様のお姿を見るだけだから。
お顔が見えたら、すぐさま走って部屋に戻って待っているわ」
「んもう」
そんなやり取りをして二人で部屋をでたら、なぜか廊下でばったり、フロスト様と出くわしてしまった。 廊下というよりは、もう私の部屋の目の前と言ってもいい場所で。
一瞬、視線が合う。
けれど彼はすぐに気まずそうに目を逸らすと、落ち着かない様子で髪をかき上げた。
「……フロスト様?」
「いや……。このあたりの廊下が、妙に軋むようでな。床が腐っていないか点検をしていただけだ。
……では、点検の続きを行う」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼は背を向けて足早に去ろうとする。
点検? 本当に?
私は心の中で、もうニヤニヤとした笑いが止まらない。
けれど、ここでそれを指摘しては、フロスト様は拗ねちゃうかも。
私はすぐにニヤニヤを引っ込めると、パッと花が咲くような笑顔を作って、彼の背中に声をかけた。
「フロスト様、ちょうど良かったです。
今、お昼ご飯が仕上がるところだったんですよ。
せっかくここまで来てくださったんですもの、このままお部屋に寄りませんか?」
「……いやしかし」
「さあレティ、フロスト様をご案内して」
「はい、奥様!」
レティも心得たもので、どうぞこちらへと丁寧にお辞儀する。
「……分かった。寄らせてもらおう」
フロスト様はちょっと肩を落として。
けれどどこかホッとしたような足取りで、私の部屋へと向かう。
その後ろ姿を、私とレティは顔を見合わせ、口を押えて微笑み合った。
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7日前、再び湧き始めたエレナの「光」が、エレナ自身も自覚せぬうちに、辺りへと漂い始める。
料理の際、裏庭に捨てられた野菜のゆで汁は、ゆっくりと大地へ深く浸透していく。
共に捨てられた野菜くずは、鳥や小さな獣が口に咥え、エレナの知らぬ何処かへと運び去っていった。
そしてバターの芳醇な香りが、厨房の窓から抜け出て、天空へと昇って行くのだった。
――――――――――――――――――――――――
レティと一緒に厨房へ料理を取りに行き、クスクス笑いあう。
レティが朗らかな表情で、小窓から差し込む陽光に目を細める。
「奥様、今日は何だか暖かいですねえ」
「そうかしら?、春はまだまだ先でしょう?」
「ですよねえ、何だか不思議です」




