雪城いつき — エピソード3
【コンテンツ警告】
このエピソードでは、学校でのいじめや心理的な暴力、アイデンティティの違和感、そして心的外傷後ストレス障害(PTSD)など、繊細なメンタルヘルスの問題が描かれています。
これらのテーマに不安を感じる方は、無理をせず、読まずにおくことをおすすめします。 ご自身の心の安全を最優先にし、限界を尊重した上で、慎重にご判断ください。
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場所:いつきの部屋。朝。
部屋は静かだった。でも、沈黙ではなかった。 扇風機の音、木のきしむ音、外の世界はまだためらっているようだった。 いつきはゆっくりと目を開けた。驚きはなかった。 ただ、体が先に目覚めていた。思考よりも先に、耳を澄ませるように。
呼吸は浅かったが、切迫感はなかった。 心臓は静かに、急がずに鼓動を打っていた。 彼は数分間、天井を見つめて横になっていた。 天井は近く感じなかった。ただ、そこにあるだけだった。
床を起こさないように、そっと立ち上がった。 足が自然に床に触れる。 体にはまだ緊張が残っていたが、それは恐怖ではなく、記憶だった。
机へ向かう。引き出しを開ける。 紫のネイルがまだそこにあった。黒と、使ったことのない青も並んでいる。 指先でキャップをなぞる。質感を感じる。 引き出しを閉める。ためらいも、葛藤もなかった。
鏡の中の顔は、いつもと同じに見えた。 でも、目をそらさなかった。 輪郭、目、肌をじっと見つめる。 美しさを探しているわけじゃない。ただ、自分を確認しているだけ。
制服を静かに着る。シャツは少ししわが寄っていた。気にしなかった。 バッグを手に取る。 出かける前に、カーテンを見る。 今日は光が強く差し込んでいた。閉めなかった。
「これは勇気じゃない。習慣だ。痛みを抱えて歩くことを覚えたみたいに。」
部屋を出る。廊下は静かだった。家も同じ。 でも、体はもう一日が始まっていることを知っていた。
場所:学校。朝。
校門は昨日より高く感じなかった。ただ、同じだった。 いつきはしっかりとした足取りで通り抜ける。 制服はきれいだった。でも、それを気にすることはなかった。 体にはまだ重さが残っていた。それは脅威ではなく、記憶だった。
廊下には、いつもの音があった。 くぐもった笑い声、交差する会話、急ぎ足の音。 名前が呼ばれなくても、話題になっていることは体が知っていた。
「またノーメイクかよ。男になりたいのか?」 誰かが言った。冗談のふりをした声。
いつきは聞こえた。でも、反応しなかった。 歩みを止めず、肩もこわばらなかった。 顎も締めなかった。 ただ、指がバッグのストラップを強く握った。それだけ。
教室では、先生がペアを組むように言った。 他の生徒たちはすぐに動いた。いつものこと。 いつきは周囲を見渡す。誰も声をかけてこなかった。 でも、待たなかった。 すでに二人座っている机へ向かい、黙って座った。 話しかけなかった。彼らも何も言わなかった。
課題が始まる。 彼は自分の分をこなす。ノートの線はまっすぐ。文字も読みやすい。 周囲の静けさはまだあった。 でも、それは排除ではなかった。 それは、居場所だった。
先生は机の間を歩いていた。 いつきの近くで立ち止まり、ノートを覗き込む。 軽くうなずいた。 いつきは返事をしなかった。 でも、その仕草を感じ取った。
「これは受け入れじゃない。通過だ。許可を求めずに存在することを覚えたみたいに。」
チャイムが鳴った。 彼は静かに立ち上がる。 バッグを背負い、廊下を歩く。 体はまだ注意深い。 でも、警戒ではなかった。
場所:図書室。午前の中頃。
図書室は変わらない場所だった。 柔らかな光、低い声、古い紙の匂い。 いつきはゆっくりと入る。 隠れるためじゃない。 時間を探していた。
遠くの席を選ぶ。でも、一番奥ではなかった。 ノートを膝に置いて座る。 描く前に、本棚へ向かう。 指で背表紙をなぞる。 青い表紙の本を選ぶ。 著者は知らなかった。 それでもよかった。
席に戻り、ページを開く。 ゆっくりと読む。 「断片」という言葉が目に入る。 彼は手を止める。 息を整える。 指でその言葉をなぞる。 そして、読み進める。
ノートに線を引く。 目のある図。完全ではないが、確かに存在していた。 いくつかは棘を持ち、 いくつかは手を広げていた。 手首の痛みは少し和らいでいた。 線は以前よりも安定していた。
司書が近くを通る。 いつきは目を向ける。 彼女は軽くうなずく。 彼も同じように返す。 言葉はなかった。 ただ、認識だけがそこにあった。
笑いながら入ってきたグループがいた。 遠くの席に座る。 音は侵入してこなかった。 でも、体はまだそれを聞いていた。 彼は深く息を吸う。 守るためではなく、 ただ、ここにいるために。
「これは平穏じゃない。休止だ。世界を消さずに休むことを覚えたみたいに。」
本を閉じる。ノートをしまう。 ゆっくりと立ち上がる。 廊下は空っぽだった。 体にはまだ重さがあった。 でも、歩みは自分のものだった。
場所:中庭。午後の始まり。
中庭は少し空いていた。 木々の間から差し込む光。 いつきは影のあるベンチを選ぶ。 バッグを足元に置き、 ノートを膝に。 目線は地面に落ちていた。
体はまだすべてを聞いていた。 笑い声、足音、行き交う音。 でも、急いで反応することはなかった。 ただ、注意深く。
あやかが現れた。 音もなく。 隣に座る。 言葉はなかった。 視線も交わさなかった。 ただ、ベンチを分け合った。
いつきは動かなかった。 でも、彼女の存在を感じた。 騒音の中で、馴染みのある音を見つけたように。
彼女はポケットからスマホを取り出す。 画面を見せる。 指で描かれたシンプルな絵。 大きな目と小さな口の顔。 いつきはそれを見て、 少しだけ笑った。 何も言わなかった。
彼女はスマホをしまう。 二人はそのまま座っていた。 会話もなく、目的もなく。 ただ、共有された時間だけがそこにあった。
チャイムが鳴った。 二人は同時に立ち上がる。 廊下を歩く。 短い歩幅。 静かな歩調が重なる。
「これは友情じゃない。認識だ。痛みを知っている二つの体が、互いを感じ取るような。」
教室では、あやかは遠くに座った。 いつきも別の席へ。 でも、その仕草は残った。 触れなくても通じ合える、 見えない線のように。
場所:いつきの部屋。夜。
部屋は暗かった。 モニターの光だけが必要な部分を照らしていた。 いつきは電気をつけなかった。 冷たい光の方が好きだった。 親密さがなく、侵入してこないから。
彼はゆっくりと描いていた。 目のある図。 口を閉じたものもあれば、 手を差し伸べるものもあった。 線はしっかりしていた。 手首は痛んでいたが、止めなかった。
床には紙が散らばっていた。 破れたものも、折りたたまれたものも。 どれも捨てられていなかった。
日記を開く。 いつものペンで、静かに書く。 小さな文字。抑えた筆跡。
「今日は体が震えた。でも、倒れなかった。それだけで十分だ。」
日記を閉じる。 引き出しを見る。開ける。 青いネイルを取り出す。 使ったことのない色。 左手の中指だけに塗る。
その動作を見つめる。 控えめな輝き。新しい色。
「動作を選べば、道も選べるかもしれない。」
何も投稿しなかった。 何も消さなかった。 ただ、絵をしまった。 紙を丁寧に重ねる。 見せなくても価値があると、 自分で認めるように。
電気を消したまま、横になる。 沈黙はまだ重かった。 でも、敵ではなかった。 ただ、残されたものだった。
外では車が通り過ぎる。 乾いた音。 彼は反応しなかった。 ただ、深く息を吸った。
体はまだ覚えていた。 でも、今は進めることを知っていた。
いつきは模範として描かれたわけではない。 克服の物語でもない。 彼はただ、静かに、葛藤の中で、試みながら存在していた。
第1話から、彼の身体は言葉以上に多くを語っていた。 PTSDは名前として現れたのではなく、反応として現れた。 響きすぎる音。 繰り返される仕草は、雑音を抑えるためのものだった。
いつきは何かに打ち勝ったわけではない。 ただ、背負ったものと共に歩く術を学んだ。 それこそが、私にとって最も大切なことだ。
救済はなかった。 癒しもなかった。 ただ、続きがあった。
答えを急ぐ世界の中で、いつきはゆっくりと存在することを選んだ。 一本の爪に色を塗り、 力強い線を描き、 謝罪を求めない沈黙を纏って。
このキャラクターはここで終わる。 だが、彼が生きたものは続いていく。 彼に自分を重ねた読者の中に。 理解できなくても、敬意を持って見守る人の中に。 そして、身体がまだ記憶していても、それでも歩み続ける人の中に。
ここまで彼と共に歩んでくれて、ありがとう。




