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岩田武 — エピソード1

【コンテンツ警告】

このエピソードでは、重度のうつ病など、メンタルヘルスに関する繊細なテーマが描かれています。

ご自身の心の状態に不安がある方は、無理をせず、読まずにおくことをおすすめします。

ご自身の限界を尊重し、慎重にご判断ください。





氏名:岩田いわた たけし

年齢:22歳

診断名:反復性うつ病エピソード(希死念慮あり)

現在の状態:深刻な社会的孤立、睡眠障害、持続的な空虚感

備考:17歳で発症。家族からの支援なし。軽度の自傷行為の既往あり。





目覚まし時計はもう鳴らない。壊れたわけではない。ただ、時間を守る必要がなくなっただけだ。 それでも彼は毎朝、同じ時刻に目を覚ます。まるで身体が、かつて意味を持っていた習慣を覚えているかのように。


薄いカーテンを通して、朝の光が部屋に差し込む。窓は少し開いている。新鮮な空気を求めたわけではない。ただの無意識。 寒い。けれど彼は感じない。あるいは感じていても、動かない。どちらでもいい。


ベッドの横に置かれたスマートフォンが、無視された通知で光っている。 大学のグループからのメッセージが二件。銀行からの自動請求。母親からの不在着信。 返事はない。反応もない。


岩田は起き上がる。だが、それは意思によるものではない。反射のようなものだ。 洗面所へ向かい、鏡を見つめる。何秒も、何十秒も。そこにいる理由を忘れるほどの時間。


歯を磨く。顔を洗う。部屋に戻る。服を着替えるが、外には出ない。 行く場所がないから。


外の音は、まるで別の惑星のようだ。 バスの通過音。廊下を急ぐ足音。苛立ったクラクション。 世界は動き続ける。彼を除いて。


朝食は、乾いたパンにマーガリンを塗ったものと、ぬるいコーヒーを一口。 いつも半分残す。いつも。


テレビをつけるが、見ない。 パソコンを起動するが、使わない。 ソファに座るが、落ち着かない。 ただ、そこにいるだけ。


鋭い痛みも、涙も、叫びもない。 あるのは、生まれた時から背負っているような疲労感。 叫ばない重さ。ただ、静かに息を奪っていく。


岩田は家を出る。バス停までの道は、いつも通り。 一歩一歩が、まるでプログラムされたように。 街は変わらない。車の音も、パン屋の匂いも、急ぎ足の顔も。 だが、彼の内側では、すべてが引きずられている。


バスに乗り、いつもの席に座る。 窓の外には、ビル、人々、動き。 だが、何も届かない。 まるで水槽の中にいるようだ。 ガラスの外で世界が動き、彼はその中で、ただ止まっている。


携帯が震える。彼は画面を見るが、内容は読まない。 通知はただの雑音になった。 バスの中で流れる音楽。知っている曲だ。だが、何も感じない。 懐かしさも、苛立ちもない。意味のない映画に流れる、ただのBGM。


誰かが話しかける。大学の同級生かもしれない。 「おはよう」と、機械的な挨拶。 彼も「おはよう」と返す。意味はない。 今、自分の姿とすれ違っても、きっと気づかないだろう。


目的地に着く。足は止まらない。 見慣れた壁。守衛への挨拶。軋む門。 すべてが同じ。すべてが無感覚。 世界は回り続ける。彼は、中心から遠ざかる内なる回転の中にいる。


時間の感覚はない。 彼は勉強か仕事の場にいる。机、声、課題、義務。 すべてがぼやけている。 簡単な作業が現れる。以前なら無意識にこなしていたもの。 今日は、できない。


入力ミス。ファイルの添付忘れ。説明の途中で言葉が途切れる。 誰かが軽く指摘する。


—「これ、忘れてるよ。」


岩田は見る。口が答える。


—「ああ、大丈夫っす。問題ないです。」


でも、大丈夫じゃない。何も、問題ないわけがない。


周囲は、何事もなかったかのように過ぎていく。 「最近、ちょっと違うよね」 そんな一言、二言で終わる。 語られないものに、誰も耳を傾けない。


岩田は集中しているふりをする。 だがすぐに席を立ち、部屋を出る。 トイレへ向かう。ドアを閉める。鍵はかけない。必要ない。 その空間だけが、世界から切り離されているように感じる。


数秒間、タイルを見つめる。深く息を吸う。 ポケットに手を入れる。携帯を取り出して、また戻す。 そこにあるのは、沈黙。そして、まだ立っている身体。


涙はない。崩れ落ちることもない。 あるのは、ただの「間」。


彼は戻る。何もなかったかのように。 机に向かい、作業を再開するふりをする。


そして、世界は動き続ける。


夜が来る。だが、安らぎは訪れない。


岩田は家にいる。薄暗い照明。 部屋は、広すぎるようで狭すぎるようにも感じる。 この状態では、正しい広さなど存在しない。


洗面所の鏡を見つめる。答えを待つように。 だが、問いはない。 あるのは、自分を認識できない感覚。 顔の輪郭は自分のものだ。だが、擦り減っているように見える。 まるで、時間だけが過ぎて、自分は生きていなかったかのように。


外に出ようかと考える。窓から通りを見る。 笑い合う若者たち。歩くカップル。遠くで吠える犬。 カーテンを閉める。 今日は、やめておこう。 もしかしたら、もう二度と。


携帯を手に取る。メッセージアプリを開く。 誰かの名前が目に入る——本当は、打ち明けたかった相手。 指がキーボードの上を漂う。 一文が生まれかける——だが、消す。 アプリを閉じる。画面をロックする。


ソファが身体の重みを受け止める。 テレビは何かの番組を流しているが、何も頭に入ってこない。 遠くから「こんばんは」という声。 彼は返事をしない。たとえ自分に向けられた言葉でも。


やがて、ベッドへ。 不眠は驚きではない。日常の一部だ。 沈黙は不快ではない——むしろ、空間を満たしている。 思考は回る。だが、速くはない。 ただ回る。 まるで、風を冷やさない低速の扇風機のように。


そのまま、彼は何かが積もっていくのを感じる。 だが、まだ爆発しない。 まだ叫ばない。 ただ、重くなる。


夜は終わらない。ただ、伸びていく。 岩田は横になっている——眠りたいからではない。 もう、他にすることがないから。 天井が、唯一の話し相手。 その染みも、ひび割れも、見慣れていて、どこか親密にさえ感じる。


携帯が震える。 忘れられた通知。 一枚の写真——昔の旅行か、友人との時間か、かつての笑顔。 今では、別人のように見える。 彼は数秒間それを見つめる。 画面を消す。 暗闇の中で、光は静かに死んでいく。


思考は叫ばない——ただ、響く。 大きな決断など、何もない。 あるのは、答えのない問い。


「なぜ、明日があるのか?」


生きることを諦めたいわけではない。 だが、生きたいとも思えない。 続けることと止まることの間——その空間が、今の居場所。


目を閉じる。 身体は休もうとする。 心は、静かに動き続ける。


その内側にある、唯一の確信。


「明日目覚めることは、始まりではない。ただの繰り返しだ。」

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