6. ビクトリア・ジェラール(2)
「そんなこと、もちろん、信じませんわ」
(……えっ?)
一瞬、耳を疑った。
“信じない”? この謝罪を?
思わず顔を上げ、ビクトリアの顔を二度見する。
――ちょ、ちょっと待って!?
あれだけ丁寧に、低姿勢で、納得しやすい謝罪ストーリーを全力で披露したのに?
ビクトリアさま、あなた、石の心ですか!?
私は言葉を返すこともできず――その場に呆然と立ち尽くしていた。
なにか言わなきゃ、と思っても、声にならない。
そんな私の様子を見て取ったビクトリアは、相変わらず穏やかな微笑を浮かべたまま、静かに言葉を継いだ。
「だって、あなたのこれまでの行動……『舞い上がってた』なんて、そんな生易しいものではありませんでしたもの」
その言葉に、私はぎくりと身をこわばらせる。
私の渾身の謝罪ストーリーは、全く彼女の心に響いていなかったのだ。
「公爵令嬢である婚約者の私を差し置いて、王太子殿下の隣に立とうとするなど――普通の感覚ではできませんわ。
周囲の目もはばからず、幾度となく殿下と接触を重ねて……忠告を無視したのも、一度や二度ではありませんでしたでしょう?」
過去の“見せつけイベント”が、フラッシュバックのように脳裏をよぎる。
ビクトリアの出現タイミングを見計らったルークとの談笑、勉強会、さりげないボディタッチ――
すべて“攻略”のために計算した行動だった。
(うっ……もしかして、確信犯だったの、バレてた!?)
背筋にひやりと冷たいものが走る。
どくどくと心臓がうるさく鳴る。
「あ、あの、それは、その……!」
弁明しようとしても、うまく言葉が出ない。
なにしろ――反論の余地が、どこにもない。
ビクトリアは、そんな私の狼狽を静かに見つめていた。
そして、ふう、と一つ、深く息を吐く。
「……わたくし、あなたのことは――高く評価しておりましたのよ」
「……え?」
一瞬、思いがけない言葉に目を見張る。
けれどそれは、決して称賛の意味ではなかった。
その声音には、淡い苦味と、静かな怒りがにじんでいた。
「ルークさまと、いつの間にか距離を縮めていらしたこと。
信頼を得て、気がつけば、あの方のやさしい眼差しすらその手にしていたこと……
まるで魔法のようでしたわ。
気づいたときには、もう、何もかもが手遅れで……」
ビクトリアは指先をぎゅっと組みしめる。
目線を逸らし、どこか遠くを見るように、そっと続けた。
「まるで、蜘蛛の巣に絡め取られるようでしたの。
もがけばもがくほど、わたくしの想いは空回りして……
やがて、身動きすら取れなくなっていく――そんな感覚でしたわ」
「そ、それは……」
その告白に、私は思わず言葉を詰まらせた。
私が“プレイヤー”として積み上げた数々の行動は、彼女の心を、じわじわと、確実に追い詰めていたのだ。
その事実を、今さらながら思い知らされる。
だが、彼女の告白は、それだけでは終わらなかった。
ビクトリアはゆっくりと息を吸い、再び私の方へ視線を戻す。
その瞳が、深く私を射抜いてくる。
「……そのうえ、ルークさまだけではなく――
彼のご友人方と、そのご婚約者たちにまで、あなたは“同じようなアプローチ”をしていらしたでしょう?」
「……ッ!」
全身が一瞬にして冷たくなった。
血の気が引き、指先がかすかに震えるのが、自分でもわかった。
(まずいわ、まずいわ……! 完全に……バレてる!?)
これまでの行動、すべて――
学園のハイスペック男子たち、ルークを含む四人全員への接近。
そして彼らをそれぞれの婚約者たちから、意図的に引き離すように仕掛けたその“策略”が――
まるっと、全部……!
(まさか……全て見抜かれていた……!?)
私は震える唇をなんとか引き結びながら、無理やり思考を巡らせる。
言い逃れできる余地は?
まだ、言い訳できるポイントは?
でも――何一つ、出てこない。
ビクトリアの視線は、容赦なく私に突き刺さった。
その微笑みは、優雅さをまといながらも――一片の情けもない、明確な威圧だった。
その視線を受けながら、私はふと――転生前、自分が“プレイヤー”として彼女に対して行ってきたことを思い出す。
イベントのフラグは一つ残らず完璧に管理し、選択肢は常に最適解を選び続けた。
ビクトリアの好感度は、システムが許す限り、最低レベルまで叩き落とした。
彼女がどれだけ努力しても、どんな選択をしても――その先には、プレイヤーである私が用意した“敗北”しか待っていなかった。
だって、それが“攻略”だったのだから。
その、“ゲーム的所業”の代償が、今ここに、現実となって私の前に立ちはだかっているのだ。
「ふふふ……ですから、わたくし、今日のことはもう、覚悟しておりましたのよ」
ビクトリアは、静かに――そして少しだけ寂しげに微笑んだ。
それは、理不尽を受け止め、それでも矜持を守り抜いた者が見せる――わずかな自嘲と、痛みのにじむ笑みだった。
「ルークさまがあなたに傾倒し、わたくしに背を向けていること……痛いほど、分かっておりました。
ですから……遅かれ早かれ、婚約破棄は避けられないと」
「……そ、そんな……」
思わず口をついて出た言葉は、あまりにも頼りなかった。
彼女は全て覚悟していたのだ。
予想外だったわけではないけれど、それを、本人の口から淡々と語られたことが、胸に深く突き刺さる。
ビクトリアは、静かにまばたきをした。
ほんのわずかに視線を伏せ、記憶を確かめるように口を開く。
「……ええ。最初は、認めたくなかったのですわ。
でも、日に日にルークさまの心が離れていくのを感じて……
この身が凍るような無力感を覚えたのは、生まれて初めてでした。
もし、あなたが本気でルークさまを奪いに来たなら……わたくしは勝てない。
そう確信するほどでしたのよ」
その瞳には、恐怖と、嫉妬と、敗北と――そして、深い諦めが宿っていた。
胸が痛い。息が苦しい。
私が手にしていた“勝利”の裏側では、こんなにも重い感情が積み重なっていたのだ。
ここまで彼女を追いこんでいたとは……
(ビクトリアとは……本当に、和解したかったのに)
でもその思いは、もはや遠く、届かないところへ行ってしまった。
「……でも、そんなあなたが。
私がルークさまに婚約破棄を告げられた“その直後”に――
その撤回を申し出るなんて」
くすりと小さく笑い、ビクトリアは私の顔を覗き込む。
その目は、まるで美しく装った刃物だった。
「……いったい、どういう心境の変化かしら?
詳しく――伺いたいものですわ」
「っ……!!」
ヤバイ。これは本格的にヤバイ。
ビクトリアは、いまや“本物の悪役令嬢”のように――
いや、それ以上に、揺るぎない“正義”の顔をして、ヒロイン・リナを責めてくる。
(どうする……どう答える……?)
この場面で、ルークに言ったように“二人の破滅を予見したから”などと弁明しても、意味がない。
彼女は私の“ゲーム的所業”そのものを断罪しようとしているのだから。
戯れに人の心を弄び、仲を裂き、婚約を壊そうとしてきた、その悪行を。
「ふふふ……答えてはいただけませんのね?」
ビクトリアの声は、まるで逃げ場のない獲物を見下ろす猛禽のよう。
優雅な微笑の奥に、静かな残酷さが光っていた。
「……えーと、その……あの……」
しどろもどろになりながら、口を開こうとしたが――何も出てこなかった。
どう取り繕っても、意味がない。
何を言っても空々しくなると、自分でも分かってしまったからだ。
そんな私を、ビクトリアはじっと見つめていた。
そのまま、何かを予告するかのように、淡々と語り始める。
「ふふふ……わたくし、あなた“だけ”は、絶対に許すつもりなどありませんのよ。
一人ではどうにもなりませんでしたけれど――
ルークさまのご友人方の婚約者たちとも、ずいぶんと話し合いまして。
それから……それぞれのお父様方にも、ご協力をお願いしましたの」
その声音は、あまりにも冷静で――逆に、ぞっとするほどだった。
「婚約破棄は――まあ、仕方のないこと。
でも、あなただけは……必ず、破滅させます」
そして、微笑みを一層深くして――
「……ふふ。断頭台でね」
――その瞬間、私の心臓が止まりかけた。
(ま、まさか……)
あの“逆ハーレムエンド”の続き。
ゲームでは描かれなかった“その後の詳細”。
リナがどうして処刑されたのか、なぜ逆ハーレムが瓦解したのか。
――その裏には、敗者たちの痛切な怒りと、ビクトリアの冷徹な手回しがあったのだ。
(……ビクトリアが、全てを仕組んでいた……!)
背筋が凍る。血の気が引いていく。
冷たい汗が背中をつたって落ち、息がうまくできない。
世界が、音を失ったようだった。
「あなたがやってきたことは、もはや私情の域を超えていますもの。
王家の血筋に連なる殿下を弄び、貴族間の誓約を踏みにじり、婚約制度そのものを揺るがせた。
それは、“恋のさや当て”などという軽いものではありません。
――これは、国家の秩序を脅かす、重大な背信行為ですわ」
その声音には、一切の揺らぎがなかった。
それは、恨みでもなく、感情的な怒りでもなく――
ただ“正義の執行者”としての、冷静な断罪。
「わたくしがあなたを罰するのは、この王国の未来と秩序を守るため。
筆頭公爵家の長女として、しかるべき責任を果たすだけです。
あなたは――この国から、排除されなければならない!」
その言葉が、氷のように冷たく、ナイフのように突き刺さる。
一言一言が、私の築いてきた――虚構のすべてを、容赦なく切り裂いていく。
ビクトリアの瞳は、まっすぐに私を見据えていた。
そこにはもう、ルークを奪われた嫉妬も哀しみもない。
あるのは、確信。覚悟。そして、静かなる誇り。
(……ああ、そうか)
このとき、私ははっきりと悟った。
――ヒロインと悪役令嬢は、今まさに、完全に入れ替わったのだ。
ずっと、ゲームの中では、私――リナ・アルデーヌが“ヒロイン”で。
ビクトリアが“悪役令嬢”だった。
でも、それはただの“設定”にすぎなかった。
その皮を一枚剥げば、現れたのは――
本物の悪女。
恋を装い、王国の将来を担う俊英たちを私物化し、秩序を壊そうとした、リナ・アルデール。
そして本物のヒロインは――
踏みにじられながらも立ち上がり、誇りと正義で悪に向き合う、この世界の秩序を――未来を――守ろうとする、ビクトリア・ジェラール。
ビクトリアの言葉のひとつひとつが、私の立場を塗り替えていった。
ヒロインだったはずの私が、いまや“王国の敵”として名指しされている。
もう、誤魔化しも、言い訳も、通じない。
足元が崩れていくような感覚。
視界が遠のき、空気が薄くなる。
息を吸っても、呼吸がうまくできない。
――私の世界が、音もなく崩れていった。