5. ビクトリア・ジェラール(1)
うなだれるルークを前に、私はぼんやりと感傷に浸っていた。
――愚かだった、私。
でも、それでも。これが、今の私の答えなのだ。
――その時だった。
「あの……リナ、さま?」
不意にかけられた声に、私は軽く目を見開いた。
ビクトリア・ジェラール公爵令嬢――
彼女は怪訝な表情を浮かべながらも、優雅に歩み寄ってきた。
「いまのお話……リナさまが、このわたくしとルークさまの幸せを祝福してくださる、と?
本当に、そうおっしゃったのかしら?」
――ああ、やっぱりこの人は、美しい。
小首を傾げ、目を細めるその仕草すら、まるで絵画から抜け出してきたお姫さまみたい。
婚約破棄を言い渡されたばかりとは思えないほど、その気高さも、美しさも、微塵も揺らいでいない。
その上、敵対していた私にすら、こうして丁寧な言葉で接してくれるのだ。
ゲームの中では、ヒロインを虐める“悪役令嬢”という役回りだったけれど――
実際の彼女は、ちょっと嫉妬深くて、恋に一途な、ただの年頃の女の子。
――なのに私は、この人から、すべてを奪った。
プレイヤーの私は、彼女の評価値を下げ、ヒロイン・リナの“踏み台”にした。
だって彼女は、単なる下剋上のターゲット、ルークの愛を得るための障害にすぎなかったから。
けれど今、私の目の前にいるのは――
私と同じように、この世界を必死に生きる、一人の人間だ。
今さらながら、ようやく気づいた。
私は、ビクトリアに向き合わなければならない。
贖罪――というほどのことはできないだろうけど、それでも。
これからは、できる限り誠実に――彼女と関わっていこう。
そう、心の奥で静かに誓った。
私はビクトリアに微笑みかけると、静かに頷いた。
「ええ、そのとおりです、ビクトリアさま」
そう言いながら、そっと目を伏せ、ゆっくりと頭を下げる。
まずは――謝ろう。すべては、そこからだ。
「……ごめんなさい、ビクトリアさま。
これまでの自分勝手で、誤解を招くような振る舞い……本当に、ご迷惑をおかけしました。
心より、お詫びします」
その瞬間、ビクトリアの瞳が大きく見開かれた。
驚きと戸惑いが、エメラルドのようなその瞳に浮かぶ。
「……まあ、まあっ。リナさまが……そんな殊勝なことをおっしゃるなんて。
何かの冗談ではありませんの?」
胸元で両手を組みながら、ビクトリアはまるで幽霊でも見たかのような表情で私を見つめた。
「これまでのご様子とは、まるで別人のようですわ。
あれほどルークさまに、ご執着だったはずではなくて?」
美しい眉をわずかにひそめる彼女の顔には、混乱の色がはっきりとにじんでいた。
疑念。不安。そして、かすかな恐れ――
それらが複雑に絡み合い、ビクトリアの横顔に影を落としていた。
「……何か、ご事情でもおありなのかしら?
それとも、もしや……また何か、企てごとでも?」
――思わず本音がこぼれたのだろう。
だけど、彼女が疑うのも無理はない。
私はそれだけのことを、彼女にしてきたのだから。
私の勝手な願いを言わせてもらえば――ビクトリアとは和解したい。
そして彼女を、ルークのもとへと送り出して、二人には元の鞘に戻ってもらいたい。
つまり私は、ルークとビクトリアの恋のキューピッドになるのだ。
それでこそ、ビクトリアへの贖罪となるし、逆ハーレムルートは永遠に封じられ、私はこの世界で安心して生きていける……!
でも――
これまでの私の振る舞いを思えば、それはあまりにも虫が良すぎる。
男爵令嬢の身で、堂々と婚約者に付きまとい、ビクトリアからの忠告にも耳を貸さなかった。
……今さら、それを“無かったこと”にはできない。
それでも。
私は心の中で思案を巡らせながら、静かに口を開いた。
「いいえ、何も、企てなどありませんわ」
小さく首を振り、そっと胸元に手を添える。
穏やかに、しかし真剣な眼差しで――私は、ビクトリアをまっすぐ見つめ返した。
「先ほど、ルーク殿下が……その、婚約破棄を告げられて……私、ようやく目が覚めたんです。
とんでもないことを、しでかしてしまったって……」
言いながら、どこまでが演技で、どこまでが本心なのか、自分でもわからない。
けれど、ビクトリアに伝えるべきは「私はもう、敵じゃない」という一点だ。
「本当に……ごめんなさい……っ!
わ、私は……ただ舞い上がっていただけなんです。
貧乏男爵家の娘の私が、ルーク殿下のような方に……一人の令嬢として接していただいて……
それが、あまりに嬉しくて……つい、ご厚意に甘えてしまって……!
ごめんなさいいっつ!」
私は深々と頭を下げ、ワナワナと震える声で懺悔する。
そう、これは私の持つ“謝罪スキル”――前世の社畜生活で、嫌というほど鍛えられたサバイバル術。
この世の終わりみたいな顔で、声を震わせながら、相手が納得しやすい“うっかり系やらかし”のストーリーを語るのだ。
まさか、「本当はあなたを貶めて、婚約破棄を誘導し、ルークを略奪して逆ハーレムを狙ってました☆」なんて、正直に言えるわけがない。
そんなことを口にした瞬間、ビクトリアと永遠に決別してしまう。
「……まあっ」
ビクトリアは目を丸くし、かすかに息を呑む。
驚きというより――戸惑い、というべきか。
感情の波に揺れる瞳が、私の姿をじっと見つめていた。
私は、ここぞとばかりに言葉を重ねる。
「殿下のことは……ずっと、憧れていて。
心から尊敬していたんです。
私みたいな底辺令嬢にも、優しくしてくださって……
だから私も、少しでもお役に立ちたくて。
それで……私の“秘密の力”で、何度か殿下をお助けしたこともあります」
――かなり脚色しているけど、嘘は言っていない。
予見の力でルークを助けたのは、事実だし。
「たぶん殿下は、それを理由に私を“友人”として扱ってくれたのかなと。
それで私……舞い上がってしまって。
なにしろ殿下は王子様で、あのお顔ですし、生徒会長で、剣術も抜群で、どこまでも優しくって……
あ、でもっ……それ以上の望みなどは、決して!」
必死に弁明を繰り返す私。
ここは全力で“ファン目線”を押し出すべきところ。
恋心じゃなくて、あくまで“憧れ”と“尊敬”だったことを強調し、ビクトリアの警戒を解くのだ。
ビクトリアは、黙って私の顔を見つめていた。
その瞳は、まるで心の奥底を覗き込むように、静かで――けれど鋭い。
私は思わず息をひそめる。
まるで、前世で上司に謝罪したときのような感覚だった。
頭を下げたあとに訪れる、あの息の詰まる沈黙。
赦しがもらえるのか、それとも――?
ただ、じっと待つしかない。
そんな祈りにも似た心境で沈黙を耐える私の前で――
ビクトリアの表情が、ふいに緩んだ。
「ふふ……そうでしたのね。
憧れのルークさまに親しくしていただいて、舞い上がってしまった――
ただ、それだけのことでしたのね?」
その声音には、柔らかい響きがあった。
口元にも、かすかな微笑が浮かんでいる。
一応は、受け入れられた。そんな雰囲気。
まだ、“完全な許し”ではないかもしれないけど。
――さあ、あと一押し!
私はそう確信し、勢い込んで口を開く。
「ええ、まさにその通りなんです!
私、“憧れの殿下のお側にいる自分”に酔いしれてしまって。
だから、ビクトリアさまの忠告も、ちゃんと耳に入らなくなってしまって……
本当に……本当に、ごめんなさいっ!」
私は、土下座する勢いで頭を深く下げた。
顔が床に着きそうなほど、深々と。
どうか、これで伝わってほしい。
この誠意――いや、あなたと和解したいという、私の必死の思い。
「うふふ……」
静かに、ビクトリアが笑った。
小さく、微かに。
顔を上げると、彼女の表情はさらに柔らかく、穏やかに見えた。
(え……これって、許された?)
そう思った――その直後。
「そんなこと、もちろん、信じませんわ」