表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ファンシー×ポップ×アポカリプス  作者: ひなた友紀
第2章:廃墟のファンシーランド
6/41

【エピソード2:襲いくる“かわいくない”可愛いモンスター】

 廃墟の街をしばらく進むうちに、妙な静寂が気になってくる。さっきは広場に倒れ込んだうさぎを見つけたし、あたりにモンスターがいてもおかしくないのに、やけに音が少ないのだ。風で舞う砂埃のシャリシャリした響きと、自分とハルさんが瓦礫を踏むときのガサガサ音、それくらいしか耳に入らない。


「……やっぱり、怖いですね、ここ」


 つい口をついて出た言葉は、ほとんど独り言に近かった。ハルさんは「まぁな」と短く応じるだけで、特に深い感想は述べない。彼はきっと今の状況に慣れているわけじゃないけど、“そういうものだ”と割り切っているんだろう。私はまだそこまで達観できない。


 道路の亀裂を一つ越えた先に、比較的背の高い建物が斜めに傾いているのが目に入った。パステルカラーの塗装が剥がれかけで、ところどころ穴が空いている。もともとはマンションかオフィスビルか、とにかく複数階建てらしい。上のほうは半壊してるみたいで、今にも崩れそうだ。


「こっちから先は、大通りに面するエリアだな。モンスターの巡回が多いって噂してたプレイヤーもいた。……とはいえ、そいつとも連絡取れなくなって久しいが」


 ハルさんが建物の上部を睨むように見ながら言う。私は思わず「プレイヤー」とか「連絡」とかいう単語に反応して、続けざまに質問した。


「プレイヤーさんって、他にもまだけっこういるんですか?」


「最初は何人か見かけたよ。とはいえ、各々が必死で生き延びるのに精いっぱいで、まともに合流する暇もなかった。しばらく経つと、会えなくなったり、住処を移したりして消息不明になったり。今どれくらい残ってるかは正直わからない」


「そう……なんですね」


 ほんの少し肩を落としてしまう。私だって、できれば他の人とも協力したいと思っている。ハルさんばかりに頼るのも申し訳ないし、仲間が増えればそれだけ行動範囲も広がるんじゃないかって期待してた。でも現実はそううまくいかないみたいだ。みんな生きるだけで手いっぱい。そりゃそうだよね……。


「ともかく、危険を承知で奥まで行くか。あるいは、ここらで引き返して別の場所を探すか」


 ハルさんがその建物を指さしつつ私に問う。私が即答をためらっていると、彼は「おまえがどこまで行けるかだ。きついなら無理をさせる気はない」と補足した。たぶん、私の足取りがまた鈍くなってきたのを気遣ってくれているのだろう。


「大丈夫です。行けます。行きましょう。……何か見つかるかもしれないし」


 正直、体力的にはだいぶしんどい。でも、収穫ゼロのまま帰るのはそれこそ辛いし、何より「こわいからやめとこう」と言ってたら、この世界では何も得られないと思う。私だって役に立ちたいし、もうちょっと踏ん張らないと──そう気合を入れてみるものの、内心では不安が渦巻く。でもここで諦めたら、食料問題はいつまで経っても解決しないだろうし……。


 ハルさんは軽く頷くと、ビルに寄り添うようにして進み始めた。私はその後ろをついていく。足元の瓦礫を踏まないよう、音を立てないように気をつける。少し歩くと、建物の壁に穴が開いている部分があった。ちょうど人が出入りできそうな大きさだ。もしかして入り口として使えそうだけど、暗そうだし崩落の危険もある。ハルさんは「遠回りだが表から回るか、ここから入るか……」と小声で呟き、私の反応をうかがう。


 私は穴の中を覗こうとして、闇が深く続いているのを見てゾッとした。懐中電灯もないし、足を滑らせたら命の保証がない。やっぱり大きな通りに面した正規の入口を探したほうが安心だろうか。どこが安全かわからないけど、少なくとも穴よりは扉のほうがマシだと思う。


「……正面入口を探します。怖いし。すみません」


「ああ、いい。それが妥当だ」


 ハルさんはすんなり同意して、二人で建物の角を回り込んだ。すると、通りに面した部分はガラス張りだったらしく、残骸で散々に割れたガラスの破片が散乱している。かなり大きなロビーがありそうだ。入口には回転扉のようなものがあったが、歪んで止まっていて、そこからでも中に入れなくはなさそう。


 気をつけながらガラスの破片を踏まないように進む。トゲトゲした破片が一面に落ちていて、踏むとジャリッという嫌な音がする。モンスターに聞こえなきゃいいけど……そんな不安を抱えながらも、私たちはロビーらしき空間に足を踏み入れた。


 中は天井が高く、パステル色の壁紙やキラキラした装飾が見え隠れしていて、一見「おしゃれビルだね!」と言えそうな雰囲気──のはずが、今は埃っぽい空気が淀んでいて、床のタイルはひび割れまくり。受付カウンターと思しき場所は崩れて斜めに倒れ、天井照明がぶら下がったままスイングしている。うわ、これいつ落ちてきてもおかしくないんじゃないか。


「ファンシー×ポップというか、こういうステンドグラスっぽい飾りや、カラフルな壁はそのまま残ってますね……」


 私が周囲を見回しながら呟く。壁にはキャラクターのイラストが描かれたパネルが埋め込まれているのも見える。パネルには、お花を抱えた小鳥や、チョコレートを運ぶリスみたいなキャラクターがデフォルメで描かれていて、本来なら「きゃー可愛い!」と喜ぶようなデザインだ。だけど、今はそのパネルがひび割れ、色もくすんでいて、もはや悲壮感しかない。


「ここ、なんだろうね。オフィスビルって感じでもないし……ショッピングモールの一部だったのかな?」


 ハルさんに尋ねても「さあな」としか返事はない。とりあえず奥へ進んでみないとわからないので、私たちは慎重に歩を進める。ガラスの残骸を踏まないように気をつけつつ、吹き抜けになっているらしいロビーを横切り、壁伝いに進んだ。幸い大きなモンスターの気配はないが、気を緩めるわけにはいかない。


 広いロビーを抜けた先は、長い廊下に繋がっていた。天井の一部が崩落していて、そこから上階に行けそうな穴が開いているが、流石に危険すぎる。非常口があればいいけど、案内看板がほとんど読めなくなっているので、勘に頼って進むしかない。やがて廊下の先に、レストランの入り口みたいなアーチが見えてきた。


「レストラン……?」


 一瞬、胸が躍る。もし食料庫がまだ無事だったりして、何か缶詰や備蓄が残ってたら……。そんな甘い想像が浮かんでしまう。「期待しすぎると痛い目を見そうだが、見てみる価値はあるかもな」とハルさんも同意してくれて、二人でその扉を押して中へ入る。扉の上には“SweetDream Cafe”みたいな文字が半壊しながらも残っている。可愛らしいフォントが、ここがファンシーな雰囲気だった名残を伝えてくる。もし正常に稼働してたら、ケーキとかパフェとか置いてあったんだろうなぁと想像するだけで、唾が出てきそうになる。


 しかし、中の光景は現実を容赦なく突きつけてきた。テーブルや椅子が倒れ、ガラスのショーケースは割れ、棚は崩れ落ち、床には乾いた液体のシミが無数に広がっている。おそらく飲み物かもしくは調味料か……腐った匂いはしないけど、時間が経って完全に蒸発してしまったのかもしれない。厨房らしきスペースが奥にあったので、そこを重点的に探ってみる。


 狭い調理場のシンクに積まれた食器はどれも埃まみれ。冷蔵庫やオーブンらしき機器も見るも無残な形で壊れている。引き出しを開けてみると、まがった包丁やヘラ、錆びた缶切りなどがゴロゴロ出てきた。道具としては使えるかもしれないけど、衛生面がかなり心配。こんなに錆びてたら怪我したとき感染症になりそうで怖い。


「何か食べられそうなものは……うう、無理そうですね」


 私はシンク下の戸棚を開けてみるけど、そこには砕けたビンの破片と腐りかけの紙パッケージが詰まっているだけ。ハルさんも別の棚を調べているが、顔色は芳しくない。やっぱりカフェだっただけあって、生鮮食品や日持ちしない材料が多かったんだろう。とっくに腐敗して跡形もないか、虫の死骸すら見つからないほど時が経ったのか……。


「くそ……甘い匂いでも残っていればまだ救いがあったんだが」


 ハルさんが低くぼやく。私も小さく首を振るしかない。ここに来るまでの道のりで体力を消耗し、収穫がまったくないと心が折れそうになる。だけど、何か探してない場所はないかと、厨房の隅々まで目を凝らしてみる。そしたら奥まったところに、ロッカーみたいな扉を発見した。スタッフ用の休憩室か倉庫かもしれない。鍵が壊れてかろうじて開きそうだ。


「ハルさん、これ……開けてみましょうか」


「おお、そうだな。やってみろ」


 私は恐る恐る取っ手を掴む。鍵穴は歪んでるけど、力を入れれば開きそう。ぐっと引くとバキバキと嫌な音がしたあと、扉が少しだけ隙間を開いた。そこに手を差し込み、横にスライドさせると、意外にすんなりと開く。中は暗いが、人が一人立てるくらいのスペースはある。棚がいくつか設置されており、小箱や紙袋が並んでいる。埃が何層にも積もってるようで、鼻がムズムズする。私は腕で口元を覆いながら、棚をひとつずつ点検していく。


「……これは使えない、これは腐ってる……わぁ」


 紙袋の中からはカビた粉末、箱の中からは虫食いの袋が出てきて、希望がどんどん萎えていく。そんなとき、棚の最上段にプラスチックの保存容器がいくつも並んでいるのを見つけた。背伸びをして手を伸ばすが、ちょっと届かない。「ハルさん、あれ取ってもらえます?」と頼むと、彼はすぐに来て棚の上の容器を下ろしてくれた。


「なんだこれ……粉か?」


「開けてみましょう」


 白っぽい粉のように見える。もしかしたら砂糖かもしれない。カフェだし、砂糖ならけっこう置いてある可能性が高い。砂糖って腐りにくいとも聞くし、もし無事なら貴重なエネルギー源になる。ただ、水分を吸って固まってないか、それが問題だ。意を決して蓋を少しずつ開け、鼻を近づけてみる。特に嫌な匂いはしない。指先でちょんと触ると、さらさらしていて変色もなさそう。これ、いけるかもしれない……!


「ハルさん! 多分砂糖ですよ、これ! いけるかも!」


 思わず興奮気味に声が大きくなる。ハルさんは「おい、声を抑えろ」と眉を寄せつつも、その目にはわずかに安堵が見えた。こういう非常事態では、砂糖は立派なエネルギー源だし、保存性も高い。多少埃が混ざってたとしても、精製された砂糖なら熱湯か何かで殺菌して溶かして飲めば栄養補給になるかもしれない。もっとも、今すぐ湯を沸かす環境がないのが痛いが、どんな形にせよ“食べられるかもしれないもの”が見つかったのは大きな前進だ。


「全部で三つあるな。……おまえ、半分抱えて帰れるか?」


「はい、もちろん。頑張ります!」


 棚の上には保存容器があと二つ乗っていて、それらも同じ砂糖らしきものだった。1つ1つが2kgくらいありそうで、全部持つとかなり重いが、ハルさんはなんとか持てそうだと言う。私も1個だけでも持てば負担が分散する。こんなところで見つけた砂糖が腐ってる可能性もゼロじゃないけど、見た感じ大丈夫そうだし、少なくともここまでの探索で一番の当たりを引いた気分。たとえ味気ない砂糖だけの生活でも、空腹を凌げる可能性があるなら嬉しい。


「やった……! ほんのちょっとだけど、なんか希望が湧いてきますね」


 浮かれすぎないように自分を戒めつつ、心底ほっとした気持ちだった。廃墟の空気がこれほどまでに息苦しく感じない瞬間があるとは思わなかった。私が思わず笑みをこぼすと、ハルさんは「大事に使おう」と小さく相槌を打つ。相変わらず無表情だけど、少し和らいだ雰囲気になっているように見えるのは気のせいじゃないだろう。


 そんな安堵の空気が流れたとき、不意に廊下のほうでガシャンという音が鳴った。ドキリと胸が高鳴る。何かが落ちた? あるいはモンスターがドアを壊した? このカフェ以外にも部屋があるし、モンスターが徘徊していてもおかしくはない。私たちはアイコンタクトで「気をつけろ」と示し合い、そっと保存容器をロッカーに置いて武器を握った。私はバールを、ハルさんは金属パイプを。いやだな、せっかく砂糖を見つけて喜んでたのに、すぐこういう不穏な展開が来るのか……


「足音が聞こえるか?」


「わかりません……静かに」


 息を潜めて耳を研ぎ澄ます。何か、かすかな擦れるような音がする。人間の靴が床を引きずる音のようにも感じられるし、別のモンスターが歩いているのかもしれない。私の心臓がバックンバックンうるさくなってきた。頼むからこっちに来ないでほしい。


 だけど、運命はそんなに甘くないらしい。さっきの音はだんだん近づいてくるようで、廊下の外れからぬらりと人影が見え──あれ、人影? モンスターじゃない? 私は目を凝らしながら息を止める。ハルさんも「……!」と微かに身構えた。


 廊下から現れたのは、私たちと同じような人間のシルエット。けれど、その体の動きはどこかよろよろしていて、顔半分があまり見えない。服もボロボロだし、片腕に血のようなシミが広がっている。モンスター化したプレイヤー……いや、それは考えすぎか? まさか人間が凶暴化してる?


「……誰、か?」


 その人が声をかけてきた。声は男性っぽいが、力が籠もっていない。私はハルさんと視線を交わすが、戸惑いで何も言えない。相手は片足を引きずるようにゆっくりと近づいてきて、「くっ……助けて、くれ……」と言葉を絞り出した。片腕を押さえてよろめく姿は、見ているだけで痛々しい。やはり怪我をしているのだろうか。


「テスターか? 俺たちと同じ……?」


 ハルさんが低い声で訊ねると、相手は頷こうとしてバランスを崩し、廊下の壁にもたれかかった。よほど弱っているらしい。私も思わずバールを置いて、「大丈夫ですか!?」と声を張り上げそうになるのを堪え、駆け寄ろうか迷う。相手は敵かもしれないし、罠かもしれない。だけど、放っておくのもあまりに酷い。短い沈黙が流れる中、ハルさんが小さく息を吐く。


「とりあえず、そいつをここに連れてこい。外は危険だろう」


「はい……」


 私は咄嗟に返事して、そっと相手の腕を取ろうと近づく。相手はガクガクしており、一見私より体格が良いが、今は衰弱しきっているせいか抵抗の気配はない。ただ「助けて……くれ」と繰り返すばかり。どうしたらいい? このまま倒れられても応急処置すら満足にできないし、水も不足している。だけど、少なくともこんな廊下に放置するよりは安全な場所に座らせたほうがいい。私はハルさんに目で合図を送り、相手を厨房へ連れて入った。


 厨房の隅にスペースを作り、相手を座らせる。距離を取りながら「大丈夫ですか? 怪我してますよね、何があったんですか?」と訊ねても、最初はうまく答えられないようだった。荒い息を整えたあと、かすれた声で「モンスターに……襲われて……」と繰り返すばかり。腕の怪我からはまだ血がにじんでおり、服も泥と埃で汚れている。


「ハルさん……水、少しだけありますか?」


「ああ、少しだけな。これ以上減ると俺たちも困るが……仕方ない」


 ハルさんはペットボトルを取り出し、ほんのわずかだけ水を分けてやる。相手はそれをゴクゴク飲み、一瞬咳き込んだけれど、だいぶ落ち着いたみたいで「ありがとう……」と呟いた。


「よかった……。あの、あなたはテスターさんですよね? ログアウトできなくて困ってるって感じですか?」


 私が尋ねると、相手は弱々しく頷く。そして短く自己紹介しようとしたが、名前を言いかけて喉が詰まったのか、うまく出ない。とりあえず仮に“彼”と呼ぶしかない。彼は息を整えつつ、「仲間と一緒にいたんだけど、ばらばらになった……助けを呼ぶにも通信ができないし、メニューも開けなくて……」と断片的に語った。


 ハルさんは腕組みしたまま黙って話を聞いている。私もそっと相槌を打ちながら、どうすればこの人を安全に保てるかを考える。でも、私たちだって食料も水も乏しく、余裕があるわけじゃない。助けたい気持ちはあるけど、一人増えたらそのぶん物資のやり繰りが厳しくなる。ハルさんの困ったような顔が目に浮かぶ。


 とはいえ、これを見捨てるなんていう選択肢は私にはできない。そんな酷いことしたら、一晩中後悔しそうだ。ハルさんも、少なくともすぐ追い出すようなことはしないだろう。だが、この状態で拠点まで連れて行くには大変な道のりになりそう……。私は砂糖の容器を見やりながら、心の中でもう必死にシミュレーションする。どれくらいの負担なら背負えるのか。どれくらいの距離なら歩けるのか。


「すまない……少し休ませて、くれないか。動けるようになったら、俺も手伝うから……」


 彼はうわごとのように口にする。どうにか意識ははっきりしているらしい。左腕には噛み跡のような痕が見え、そこから血が少しずつ滲んでいるのが痛々しい。モンスターにやられたって言うのは本当らしい。応急処置しなきゃ。私が帯状の布を出そうとするや否や、ハルさんが軽く腕で制止するような仕草をした。


「陽菜、待て。こいつが感染してる可能性もある。怪我の具合がわからない以上、軽々しく触るな。……モンスター化することはないだろうが、念のためな」


「え、そんなことあるんですか?」


「わからないけど、何でも起きそうな世界だしな」


 そう言われれば確かに……。でも、さっきのうさぎと同じで、放っておくわけにもいかないじゃないか。複雑な思いを抱えながらも、私は相手の腕の傷を観察する。ガーゼも消毒液もないけど、少なくとも血を止めるための固定はできるはずだ。モンスターの涎や毒が混じってたら……考えたくないけど、そっと拭き取るしかない。


「私、やります。そんな難しいことはできないけど、血が出てるのは止めないと」


「……自己責任だぞ」


 ハルさんはそれだけ言って、距離を保ったまま周囲の警戒に戻る。私は自分のマスク代わりにしてる布を二重にして、相手の腕を軽く拭ってみた。グッと力が入ると相手は「ぐっ……」と息をつまらせる。痛いに決まってるよね。それでも噛み跡の周りに汚れがこびりついているなら、拭くしかない。水をほんの少しだけ染み込ませて、できる限りきれいにしていく。


「ごめんなさい、痛いですよね……もうちょっとだけ我慢してください」


 声をかけると、彼は苦しそうに頷く。視線が合うと、まだ不安げな光がにじんでいる。私が彼の立場だったらきっと怖くてたまらないだろう。モンスターに襲われて、仲間と離れ離れになって、助けを乞う相手が本当に自分を助けてくれる保証もないんだから。


 幾分きれいになったところで、少し布を巻いて圧迫止血し、外側をテープで固定する。応急処置だけど、ないよりはマシなはず。彼は相変わらず呼吸が荒いけど、「ありがとう」とかすれ声で礼を言った。私も「いえ、何もできないですけど……」と肩をすくめるしかない。


 ひと段落したところで、ハルさんが「そろそろ移動だ」と口を開く。いつまでもここに留まっていてはモンスターに襲われる可能性が高まるし、目の前の廊下の騒動が他の敵を呼ぶかもしれない。砂糖を見つけたのは大きいが、怪我人を連れて出るとなると抱えきれない可能性もある。どうする?


「……俺が砂糖二つを持つから、おまえは一つとそいつを支えろ。行けるか?」


「た、多分、頑張ります」


 私が力強く返事する。厳しいには違いないが、やるしかない。彼をここに置いていくことはできないし、砂糖を捨てるのも得策じゃない。ハルさんは無言でうなずき、容器を一つ私に渡した。私は抱えるようにそれを腕に抱きつつ、座り込む彼を見やる。


「……歩けますか? ゆっくりでいいので、私が支えますから」


 彼は痛みをこらえながらコクンと頷き、やっとの思いで立ち上がる。私は彼の右側に回って肩を貸す形に。ふらつきがひどく、正直私が支えきれるか不安だけど、なんとか一歩ずつ前へ足を運んでいく。ハルさんが先導する形で、私たちはカフェの厨房を出て廊下に戻る。ここから拠点まで戻る道のりは長いけど、無事に帰れるように祈るしかない。


「陽菜、気を引き締めろよ。敵が出てくるかもしれんし、こっちも荷物が増えて動きづらい。最悪の場合は……」


「わ、わかってます。危なくなったら逃げるしかないですよね」


 そう、完全に守ってあげる余裕もない。いざ襲撃されたらどうなるか、考えるだけで憂鬱になる。それでも見捨てたくない。せめて、全員でどうにか生き延びる道を探したい。


 こうして私たちは、砂糖の容器三つと怪我人一人を抱えて、再び廃墟のビルを後にするため歩き出す。視界は暗く淀み、いつモンスターが飛び出すかわからない。けれど、私たちは足を止めない。ここで諦めたら、何も進まない。廃墟の空気は相変わらず息苦しいけれど、ほんの少しだけでも未来を信じて──そう思いながら、一歩ずつ廊下を進んだ。


 この世界がいつか、本来のファンシー×ポップな可愛さを取り戻す日が来るのだろうか。痛む足と肩に耐えながら、私はそう願わずにはいられないのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ