【エピソード1:さまよい始めた廃墟】
翌朝──と呼んでいいのかどうかも怪しいけど、少なくとも一睡して目を覚ましたのは、またしてもこの壊れかけの建物の中。拠点、とハルさんが呼んでいる場所だ。天井に開いた亀裂からこぼれる光の加減で、外が明るくなったとわかる。とにかく私は布団という名の薄い毛布に包まり、ゴロゴロと寝返りを打ってみた。身体のあちこちがまだ痛い。いや、痛いなんてもんじゃない。全部がぎしぎし文句を言ってる感じ。
「……うう、筋肉痛って、次の日にくるもんじゃなかったっけ?」
私は誰に向かうでもなくぼやき声を漏らす。昨日、あれだけ荒れ地を歩き回ったり、モンスターと遭遇したりしたんだから無理もない。学校の体育ですらちょっと走るとへろへろになるっていうのに、あんなサバイバルみたいなことをやらされたら、そりゃ悲鳴も上げるだろう。
そっと上体を起こすと、いつものように、というか、たった一日しか経験してないはずなのに少し慣れかけている見慣れぬ光景が目に入った。がれきや廃材を避けてつくった簡易の壁、天井からぶら下がってる配線、床に転がる工具。どれも可愛げなんて一切なくて、中学二年生の少女が憧れる部屋とは真逆。私は大きく息を吐きながら膝を抱え、空っぽの胃がキュルルルと音を立てるのを感じた。
「よく眠れたか?」
不意に背後から声がして、ドキリと振り返る。そこにはハルさんが壁際に腰かけて、荷物らしきものを整理している姿があった。黒っぽいジャケットは埃まみれだけど、本人は意外と平然としているように見える。不思議だ。私だったらこんな場所で寝泊まりしてたら絶対メンタルがもたないのに。
「あ、はい……たぶん、おかげさまで……」
言葉が引っかかる。おかげさまでって言っても、昨日はいろいろあったし、寝る前は一生のうちで一番怖かったくらい。でもハルさんには感謝しかない。もし一人だったら、あのモンスターに襲われた時点でアウトだったと思うし、今頃どうなってたか想像したくもない。
「身体、まだ痛いだろ。少しでも慣れていくしかないが、あまり無茶はするな。今日はゆっくり探索しながら、使えるものを探す。食い物もな」
ハルさんがそんなふうに言葉をかけてくれるのはありがたい。というか、既にこの世界で数日をサバイバルしてる彼の“慣れ”があるからこそ、私の世話まで見てくれてるわけだ。少しぶっきらぼうだけど、優しさが伝わる。ああ、早く普通のVRゲームみたいに「クエストをクリアするとお菓子がもらえる」とか、そういう平和な話に戻ってほしいなぁとしみじみ思う。
「私も何か手伝います。食料をちょっとでも探さないと……お腹鳴っちゃいそうで」
そう言った瞬間、本当にグギュルルと嫌な音がして、顔が赤くなる。ハルさんはチラリと私を見てから荷物を持ち上げ、「わかった」と短く返事した。彼はどこからか調達したらしい水入りのペットボトルを取り出してくれたけど、中身は昨日と同じく少し変な匂いがするやつ。それでも飲みたいと思わせるくらい、喉はカラカラだ。
「ありがとう……」
蓋を開けて一口飲む。ああ、やっぱり微妙に鉄っぽい匂いがするけど、口に含むと生き返る気がする。これがなかったらもう朝の時点でバテてたかもしれない。現実だと自販機でジュースを買うとか、おうちで普通にお茶を飲むとか当たり前だったのに。こんなところでそういう当たり前を失うって本当にきつい。そこはゲームなんだからもうちょっと何とかなってよと嘆きたくなるけど、この世界の“運営”が全然機能してないんだろうな。
「じゃあ、準備ができたら行こう。昨日の探索で使えそうなルートを見つけた。そっちはまだ俺も全部は見てないから、うまくすれば少しは収穫があるかもしれない」
「はい。……ところで、ハルさんは、朝ごはんとかどうしてるんですか?」
恐る恐る聞いてみると、ハルさんは声を潜めて「ろくに食ってない。俺も腹減ってるぞ」と肩をすくめた。そりゃそうだよね。ここに来てからもう何日だって言ってたっけ。すごい精神力だよ。私が暗い気持ちになって黙り込むと、「そんな顔するな。せめて少しずつでも探すしかないだろう」とハルさんは落ち着いた声で答える。悲観してもどうにもならない、と私に教えてくれてるようだ。
外に出ると、相変わらずの廃墟が広がっていた。ビルの倒壊とがれきだらけの街並みを、赤茶けた光が照らしている。これが日の光なのか、異常な空なのかわからないけど、一応昼間っぽい明るさがあるから動けるだけマシかもしれない。夜になったらモンスターの活動が激しいって昨日ハルさんが言ってたし、なるべく日中に探索を済ませないと。
ハルさんは私よりも一回り背が高いから、歩幅が大きい。私は必死で遅れないようについていくけど、さすがに筋肉痛がつらくて、ときどき「あたた……」とうめいてしまう。そのたびにハルさんが「一歩ずつでいい」とか「焦るな」とか、あれこれ声をかけてくれるので助かる。思ってたよりずっと面倒見がいい人だ。
「陽菜、昨日みたいに瓦礫をなるべく踏まないようにな。音が大きくなるとモンスターに気づかれる可能性がある」
「わかってはいるんですけど、足がもつれて……えっと、その、気をつけます」
私は恥ずかしくなりながらも、慎重に瓦礫を避けて歩く。どうやらハルさんは、今朝早くに一度近くを見回りしてきたらしく、「あっちの通りは危険そうだ」とか「こっちから回ったほうがいい」とか先導してくれる。すごいな、私より長い時間ここで過ごしてるだけあって地形を把握してるんだろう。もっとも、地形がいつ崩れるかもわからないけど……。
しばらく進むと、視界に大きめの公園のようなスペースが入ってきた。ベンチがいくつか横倒しになって、遊具っぽいものも残骸しかないけど、確かにそこはちょっと開けた場所になっている。周囲はまだ建物が密集していて、どこからモンスターが出てくるかわからないが、とりあえず見晴らしは悪くないから、一度ここで周囲を見渡すことにした。
「静かだな……嫌な予感もするが、物資があるならこういう広場の端に集まっていることもある」
ハルさんがぽつりとつぶやく。私はなるほどと思いつつ、辺りを見回す。ここの植え込みはすっかり枯れてて、土もむき出しの状態だ。人がいた形跡どころか、動物の足跡すらよく分からない。ぽっかり空いた広場の真ん中には、壊れた噴水らしきものがあり、水なんて一滴も残ってない。期待したら負けかなと思いつつ、ため息が出そうになる。
「この噴水とか、使えたら水が汲めたかもしれないのに……やっぱり無理かな」
「分からないぞ。地中でパイプが生きてる可能性もある。いずれ試す価値はあるが、今は道具が足りない。採掘用のシャベルか何かが必要になる。まあ、急いでやることでもないな」
ハルさんはそんなふうに淡々と言う。確かに工具でも見つからない限り、下手に掘っても瓦礫が崩れて大けがするリスクがあるだけかもしれない。
私たちは公園の端のほうへ回り、倒れかけた売店っぽい建物を発見した。「ファンシーフードスタンド」とかいう看板が半分朽ちて読めなくなってるけど、なんとなくパステルカラーの飾りがついているから、かつては可愛い外観だったんだろうと思う。今は見る影もないがれきの山だ。脇のほうに回ると、シャッターが曲がって開きっぱなしになっている。中を覗いてみると、カウンター台みたいなものがかろうじて残ってるけど、中に何があるかは分からない。ハルさんが「行くか」と軽くうなずくので、私も一緒に中へ足を踏み入れた。
──薄暗いし、床板も抜けていてめちゃくちゃ怖い。だけど慣れていくしかない。奥には調理器具の残骸らしきものが散乱している。フライパンの取っ手だけ転がってたり、ボウルがひしゃげていたり。食べ物の気配は皆無だけど、もしかしたら缶詰とかが落ちてるかもって淡い期待を抱いてかき分けていく。
埃が積もってる棚をどかしてみたり、下の隙間を覗き込んだりしていると、手が何か硬い金属に触れた。ビクッとして引っ張り出してみると、包装された未使用っぽいスプーンとフォークが数本まとまった袋に入っていた。こんなところに生活感が残るとは……。
「ハルさん、スプーンとかフォークがありました。食べ物じゃないけど、使えそうだと思います?」
「スプーンやフォークか……悪くないな。料理をするにしても道具が必要だし。何にせよ手ぶらよりはマシだ」
確かに一理ある。今は素手で何でも対処してるけど、もうちょっと衛生的に食べられる環境が整えば嬉しいし。袋を大事に抱え、さらに奥を探す。すると、床下に大きな穴が開いていて、そこから妙に湿った空気が漂ってくるのに気づいた。嫌な予感がして顔をしかめつつ、ちょっとだけ身を乗り出して覗き込む。真っ暗で何も見えないが、水が溜まってるような匂いがする気がする。
思わず後ずさろうとしたそのとき、ズルッと足が滑り、私はバランスを崩した。やばい! 穴のほうに片足が落ちかける。叫び声を上げる間もなく、身体がよろけて奈落へ──と思いきや、ガシッと腕をつかまれた。
「おい、危ない!」
ハルさんが私の腕を引っ張り、ぎりぎりで穴に落ちるのを回避してくれた。私は肘をぶつけて「いたた……」と呻きながら、なんとか床に踏みとどまる。心臓が爆速だ。今ので落ちてたらどうなってたか想像もしたくない。真っ暗な空洞の底で大怪我とか、そのまま水没とか、ろくな未来が浮かばない。
「ご、ごめんなさい、ボーッとしてました……」
真っ青な顔で謝る私に、ハルさんは少し苦い顔で首を振る。「謝るな。足場が悪いから、仕方ない。とにかく気をつけろ」とだけ言って、私を立ち上がらせてくれた。震える足で立つと、また足元がぐらつく気がして情けなくなる。でも今はそれでも進まないといけないんだ。こんなの普通の中学生じゃ荷が重すぎるけど、弱音を吐いたところで状況が好転するわけでもない。
わずかに青ざめた私を見て、ハルさんは「もうここを探すのはやめよう」と判断してくれた。私も助かる気持ちで外に出る。心臓がバクバクで汗がにじむ。呼吸を整えようと軽く深呼吸してから、広場に出ると、風がちょっとだけ冷たく感じる。天気は曇ってるのか空がどんよりしていて、廃墟の雰囲気を余計に増幅させる。
「収穫はフォークとスプーンだけか。まあ、ないよりいいさ」
そう言って、ハルさんはまた足早に歩き出す。私もそれに倣って広場をさらに奥へと進んだ。舗装されたコンクリートが波打っていて、足を取られそうになるたびにヒヤヒヤする。が、少し向こうに見えるのは数台の自動販売機らしきものが並んでいるエリア。もちろん電源は入ってないだろうけど、何か残骸がないかと思うと期待せずにはいられない。運が良ければ、まだ中身が腐らずに残ってる缶ジュースとか……いや、そんな都合のいい話があるわけないか。
近づいてみると、その自販機は派手なパステルカラーでデコレーションされていて、“SWEET DRINK”とか可愛い文字が印刷されている。正面の扉は大きくひしゃげて、内部がむき出しに見えた。缶やペットボトルは残骸すら見当たらない。カラッポだ。ただ、1台だけかろうじて扉が閉まってるやつがあったから、ハルさんと二人がかりで無理やりこじ開けてみることにする。内側からの錆でガチガチに固まっていて、力を込めるとミシミシと嫌な音がするが、なんとか歪んでいる隙間を広げていく。
「せーの……!」
バキッという音とともに、扉が外れかけて真横に倒れた。つんとした金属臭と、ホコリの舞う空気が喉を突く。中を覗くと……何本かボトルや缶が並んだレールが見える。ほぼ空っぽだけど、一つだけ奥に残っている気がする! 私は「本当にあるの?」と自分の目を疑いながら、手を伸ばしてそれを取ろうとした。ところがどっこい、缶は変色したラベルで、中身も怪しそうなオーラを放っている。しかも底が膨れている。よく見ると賞味期限なんてどこにも書いてない。というか、こんな世界でまだ飲めるものなんてあるはずが……。
「これ、飲めなさそうですね……見た目ヤバい」
「触るな。下手すると爆発する」
ハルさんは私が缶を手に取るのを制止して、そっとそれを置き直した。確かに、ガスが溜まってパンパンになってる缶飲料って、開けた瞬間に噴き出すことがあるって聞いたことがある。何より腐敗してるかもしれないし、そもそも飲めるわけがない。がっくりと肩を落とす私を見て、ハルさんは小さく息を吐いた。
「まあ、こんなもんだろう。ここもダメか。もう少し探してみて、成果がなければ戻るか?」
「そうですね。スプーンとフォークだけでもありがたいですけど、お腹が……」
グゥルル、と再び鳴る腹の音が虚しく響く。情けなくて俯きかけたとき、「バサッ」という音が耳に飛び込んできた。私は思わずハルさんを見て、目で「今の音、聞こえました?」と問いかける。彼も気づいたらしく、音のした方へ視線をやる。どうやら裏手のほうからだ。
気をつけて歩いていくと、広場の端に大きな木が倒れてるのが見える。そこに何か丸い影が動いたような気がする。小動物? うさぎっぽいもの? いや、以前私が路地裏や屋上で見かけた謎の“ふわふわ系動物”かもしれない。もしかしたら、凶暴化したモンスターではなく、逃げ回ってるだけの存在かもしれない……。
私は足音を立てないように気を配りながら、ハルさんとそーっと近づく。すると、その生き物は朽ちた木の隙間に潜り込もうとしているのが見えた。ふさふさのしっぽがひょこっと見えていて、何だか心くすぐられる可愛さがあるんだけど、こんな世界だから油断はできない。
「……襲ってくるタイプか?」
ハルさんが小声で尋ねる。私も息をひそめながら首を横に振る。何となく、あの毛並みは以前見たモンスターと違う気がする。赤い目でもないし、唸り声も聞こえない。動きも弱々しいというか、どことなく怯えているように見える。
「もしかして、普通に生き残った動物、なんでしょうか?」
そう呟くと、ハルさんは慎重に一歩進んで、その倒れた木の根元を覗き込む。私は怖いけど好奇心が勝って、彼の肩越しに視線を送る。そしたら、そこにいたのはやっぱり丸っこいうさぎのような生き物……でも、よく見ると耳の形が不揃いで、パステルグリーンの毛色がところどころ抜けている。まさに「ファンシーな世界の動物キャラ」が、そのまま衰弱したような姿。
「ぐるる……?」
一瞬、身構える。けれど、そいつは凶暴化してる風には見えなかった。むしろ、こちらを見てビクッと後ずさりしたあと、尻尾を震わせている。怖がってるのはどっちかっていえば向こうのほうかもしれない。ハルさんも攻撃態勢はとらず、そっと腕を伸ばす。
「……大丈夫だ、襲わない」
まるで動物をあやすときの声色だ。私が見守る中、ハルさんはさらにゆっくり近づこうとするが、うさぎはピクッと身体を強張らせ、わずかに唸り声を漏らした。大きなケガでもしているのか、片足を引きずってるようにも見える。そこに傷口みたいな赤黒い痕跡があって、血が乾いたような跡がこびりついていた。
(もしかして……痛いのかな?)
思わず胸が苦しくなる。私はファンシーな動物キャラが好きで、この世界でも可愛い動物たちと遊べると思ってたんだ。その子がこんなにボロボロの姿で怯えてるなんて、どうしよう。手当てとかできないかな。でも、近づいて引っ掻かれたら大変だし。
「うーん、放っておくのも後味が悪いが、こっちがケガするかもしれないぞ。どうする?」
ハルさんが困ったようにつぶやく。私は迷ったけど、ここで何もしないのも嫌だなと思った。だって、昨日モンスター化した動物を倒すしかなかったのもショックだったし、せめて“凶暴化してない”子がいるなら、少しでも助けてあげたい。怪我してるなら回復すれば再び私を襲うっていう可能性は否定できないけど……なんだか見捨てられないんだ。
「あの……傷の手当て、できませんか? もし包帯か布を巻く程度なら、何とか……」
私がそう提案すると、ハルさんは「本気か?」と言いたげに眉をひそめた。そして小さく息を吐いて、奥歯で何かを噛むような表情になったあと、鞄からちょっとした布切れとテープを取り出してくれた。昨日、建物からかき集めた残布やツールの一部だ。
「やるなら慎重にな。俺が横から見てる。こいつが急に襲いかかるかもしれないから、逃げ道を確認しとけ」
「はい……」
私はバールを足元に置き、布とテープを持って、ゆっくりとそのうさぎに近づく。心臓がドキドキする。もし嫌がって暴れられたらどうしよう。大怪我させてしまったらどうしよう。だけど、このまま放っておくのはもっと嫌だ。そっと手を差し出してみると、うさぎは小さく鼻をひくつかせ、そのまま後ろに倒れ込みそうになる。足に力が入らないのかもしれない。そんな痛々しい姿を見てると、涙が出そうになるけど、こらえて静かに声をかけた。
「だ、大丈夫……怖くないから。……ほら、痛いところ、ちょっと見せて?」
まるで小動物に話しかけるときの口調になってる自分に驚きつつ、でもここは気持ちを伝えないと。すると、うさぎはまだ警戒してるのか、かすかに唸り声を上げるものの、私の手を必死で拒絶するほどの力はもう残っていないみたいだ。恐怖と痛みで動けないのかもしれない。
私はそっと後ろ足を見てみる。膝というか、関節の部分から血が乾いて、皮が剥がれかけてる。うわ……痛そう。これをきれいに洗えればいいけど、水もないし消毒もない。とりあえず布で血と汚れを拭き取りつつ、テープで簡易的に固定するだけでも違うはずだ。ぎこちない手つきでふきふき、巻き巻き。うさぎは時々「ぐっ……」と苦しそうな声を出すけど、耐えてくれている。
「もうちょっと……もうちょっとだから……」
自分に言い聞かせるように繰り返す。手当てといっても本当に応急処置だけ。こんなんで本当に助かるのか。もっとちゃんとした消毒液や包帯があればいいのに……。でも、ないものはしょうがない。最低限の処置を終え、布で軽く固定し終えると、うさぎは力なく目を伏せた。でも、さっきより苦しげな息遣いは和らいだ気がする。
「できた……ごめんね、痛かったよね……」
手を離すと、うさぎはかすかに頭を動かし、まばたきをするみたいに目を開いた。こちらをじっと見る表情が、どこか人間くさいというか、何か言いたげに見えるのは私の気のせいかな。もともと“ファンシーキャラ”なわけだから、ある程度の知性があったっておかしくない。でも今は、やっぱり言葉をしゃべるわけでもなく、ただ静かに肩(?)を上下させているだけだ。
後ろで見守っていたハルさんが、そっと近づいてきた。「大丈夫か?」という問いに、私は小さく頷く。するとハルさんは地面に片膝をついて、うさぎをちらりと見下ろした。もしこれが凶暴化していたらこの場で襲われていたんだろうけど、そんな気配はない。むしろ怯えきった生き物といった感じだ。
「……放っておくわけにもいかないが、連れて行くにはリスクが大きいな」
「そう、ですよね……」
私もわかってる。連れて行ったところで私たちに世話をする余裕があるかといえば、甚だ疑問だ。食料もままならないし、安全確保も難しい。けど、見捨てたらこのまま死んでしまうかもしれない。それが嫌で応急処置したのに、結局はここに置いていくしかないのか。
「……まあとにかく、動けるまで少し待つか。それから様子を見よう。あまり時間はかけられないが」
ハルさんがそう言って、私は内心ほっとする。多少なりとも、このうさぎにチャンスを与えられるかもしれないからだ。何ともいえない沈黙が広場の隅に漂う。私はうさぎの頭を撫でてやりたいけど、まだ怖がっているから無理はしない。
ふと、うさぎの尻尾のあたりに何か引っかかっているのを見つけた。紙切れのようにも見えるし、布の破片のようにも見える。慌てて確認すると、小さなリボンの切れ端だった。可愛らしいハート柄がついているが、泥まみれで汚れている。元々は首輪かアクセサリーだったのかも……そう考えると、やっぱりこの子は“ファンシー×ポップ”の世界で人間と触れ合ってた存在なのかもしれない。
「うさぎちゃん……大丈夫だよ。私たち、敵じゃないから……」
決して明るい声ではないけど、できるだけ優しく話しかける。すると、うさぎは何とか上体を起こそうとしたのか、前足をじたばたさせる。可哀想に、まだ痛そうだ。だけど、さっきよりは落ち着いているように見える。まるで私たちを信頼してくれたみたいだ。自己満足かもしれないけど、少し嬉しい。
「陽菜、そろそろ移動したほうがいい。こんな開けた場所に長居すると危険だ」
ハルさんが低い声で促す。確かにそうだ。ここでモンスターがどこから出てきてもおかしくない。私はうさぎを抱いて連れていくかどうか迷うけど、歩けなさそうな状況で無理に抱えたら、かえって暴れて傷口が開くかもしれない。ううん、でも置き去りにすると死んじゃいそうだし……。
私が葛藤していると、うさぎは前足を踏ん張ってぐっと立ち上がろうとした。足を引きずりながら一歩、また一歩。よろけながらだけど、なんとか歩けそう? 方向的には私たちのほうには来ず、木の陰を回り込むようにしてコソコソと移動を始めた。きっと、安全そうな場所を探してるのかもしれない。大丈夫かな……。
「陽菜、行くぞ。追わなくていい」
ハルさんが首を横に振る。「そいつが何者なのか、本当に安全かわからん。怪我をしているうちに看病してやれば味方になる、なんて甘い期待は捨てろ。それに、食料もないしな」と言われて、私は言葉を失う。残酷なようだけど、ハルさんの言うことは事実だ。私だってそう思いながらも、この子を見捨てるのが辛いから勝手な感情を抱いているだけ。今ここで深追いして、私やハルさんが怪我しても本末転倒だ。
「……わかりました。でも、あの子が少しでも生き延びてくれたらいいな……」
わずかに泣きそうになるのをこらえながら、うさぎの姿が木の裏に消えていくのを見届ける。せめて血は止まってるっぽいし、自力でどこかへ隠れてくれれば、ワンチャンあるかもしれない。少なくとも、今の私たちではどうしようもないことだ。
そんなやり取りのあと、私たちはまた移動を再開した。広場を抜けて別のエリアを探索する途中、ハルさんは「気を落とすな」と短く声をかけてくれた。私は「あ、はい……」と返すくらいしかできない。ほんの少しの慰めかもしれないけど、それで気が楽になるなら十分だ。
「さて、そろそろ建物の多い地区に戻るぞ。大通りに出てしまうとモンスターと出くわしやすいし、物資も荒らされている可能性が高い。この辺りの裏手を中心に探そう」
ハルさんの言葉に「わかりました」と返事をしつつ、私はまだ、さっきのうさぎのことが頭から離れない。ファンシーでポップな世界が、本来ならみんなを笑顔にしてくれるはずだったのに……。どうしてこんな悲しい姿になってしまったんだろう。──そんな想いを抱えながらも、私は足を動かす。今は一歩ずつ進むしかない。弱音を吐いて止まってしまえば、ここでは本当に生きていけないのだ。
こうして私たちの、廃墟での「二日目の探索」は始まった──。まだ朝だというのに、胸の中に重苦しい気配は拭えない。だけど、それでも前に進まないと、何も変わらない。いつかこの世界の謎を解き明かし、ログアウトする方法を見つけると信じて。私はハルさんの背中を追いかけながら、ぎゅっとバールを握りしめるのだった。