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「なにやってるんだ。俺……」
新宿から夜行バス乗り、真夏の炎天下の中、朝から自転車をこぎ続ければさすがに疲れ果てる。
俺はなんだか気だるい足取りで上賀茂神社を後にした。
さすがにもう自転車を漕ぐ気力はなかった。特定の場所ならどこでも返却可能なレンタルサイクルだったので、俺は近場で自転車を返却した。
汗でびしょ濡れに、昨晩から風呂に入っていない。
――さすがに臭い。
悩んで歩いていると、幸運なことに銭湯があった。
それも隣にコインランドリーに【貸タオルあり〼】と張り紙が張ってある。
俺は暖簾をくぐり、入浴料とタオル代を払った。
汗くさい服を全部脱いで腰にタオルを巻き、汚れ物を抱えて隣のコインランドリーに全部ぶっこんだ。
「これでゆっくり風呂に入れるぜ」
のんびり湯につかってくつろぎ、綺麗になった服に着替えると、身も心をスッキリしたのか、気分がだいぶ落ち着いた。
「いい湯だった……」
時間は午後二時過ぎ、帰るには早い。かと言って神社仏閣めぐりは興味が無い。
どうするもんだと思っていた時、「ニャー」と鳴き声が聞こえた。
濃いグレー色の毛並のキジ猫で、足先が靴下でも履いているみたいに白かった。目の色が琥珀色で大きな瞳がきれいだった。
(顔つきからいって、こいつはメスだな)
キジ猫はスッと細い路地へと入って行った、その足元に気づきにくい看板が見えた。
隠れるように置いてあった小さい建て看板にはbarと書かれており、薄い明かりが灯っていた。
俺はその薄暗い路地を覗いてみた。人一人通れるくらいの細い路地だ。黒い小石の路地に打ち水がまかれ、艶やかに黒光りしている。
キジ猫はその路地の真ん中辺りで、こっちを振り向き「ニァー」と、一声鳴き奥へと行ってしまった。
風呂あがりのビールも悪くない。俺はキジ猫の後をついていった。
路地の奥ばった所に、京町屋のバーが見えた。入口らしきドアにはopen掛けられている。若干入りにくそうに感じるが俺はそういうことに気にしなタチだ。俺は古いガラス戸を引いた。
店内は思ったよりも広く天井が高かった。木造の造りにカウンターの席のみだ。カウンターの奥の棚にはズラリと酒の瓶が並べており、バーテンダーらしき男が一人何かしら作業していた。
俺に気づくと俺の足元みて「いらっしゃいませ」と言った。
さっきのキジ猫も俺と一緒に来店した。キジ猫は何事もなく店の奥に入っていき、バーテンダーの男もキジ猫をとくに気にしない様子だった。
「お好きな席にお座りください」
男に言われ俺はカウンターの端の席に座った。
とりあえずビールだなと思ったが、目の前にずらりと並べてある瓶の中でなぜかジャックダニエルに目が留まった。
(久しく飲んでないな、ウィスキー……)
おしぼりを差し出したバーテンダーに「ジャックコーク」と、注文した。
ウィスキーって普段あまり飲まないが、ジャックコークは好きだ。
短く髭が整った、細身のバーテンダーは氷を砕き始めた。うすはりのトールグラスに氷を入れかき混ぜ、グラスを冷やすところから始めた。
(ずいぶん丁寧作るな)
なんか嬉しい。
氷が溶けた水を捨てるとシガーカッブでジャックダニエルを注ぐ。マドラーでウィスキーを冷やすと瓶のコカコーラの栓を開け、ゆっくりと注いだ。
トールグラスの中に弾けるようにコカコーラが満たされると、バーテンはマドラーで炭酸が抜けないように優しくかき混ぜ、コースターの上に置いた。
グラスの中の小さな泡がはじけた。
ジャックコークなんて、アメリカのど田舎で、地元の奴しかいない汚いバーで、ごつい奴らが賭けビリーヤードやりながら飲む酒のイメージだが、京都の町中こんな風に丁寧に作ってもらうと、小じゃれた酒に見えるから不思議だ。
一口飲むと一日中、自転車で走りぬいた体にコカコーラが沁みる。後からやってくるジャックダニエルのバニラような甘い香りに、俺の体は酔いしれた。
「うめぇーー」
(ジャックコークは、他のウィスキーじゃダメなんだよな。コカ・コーラが引き立たない)
これを思いついたヤツはきっと乾いた大地に、住んでいたと思う。じゃなければこんな組み合わせ思いつかない。ウィスキーにコーラに合わせるなんて日本人には到底思いつかない。
のどが潤うと、小腹が空く。俺は小さなメニューを手に取った。
乾き物しかないと思ったが、意外にもメニューが充実していた。
ミックスナッツ塩味・メイプル味に本日のチーズ・四種盛り合わせから始まり、丹波シメジと加茂なすのアヒージョ、京野菜のステック、京丹波の夏野菜ピザに万願寺とうがらしとちりめんじゃこのオイルパスタ。
――野菜ばっかりだ。
俺はコーラを飲みながら飯を食える奴だから、つまみにこだわりがない。だけど子どものころから酷い偏食で、野菜は一切食べなかった。野菜はウサギと虫が食べる物だと思っていた。
昼飯の時間。凜太郎は俺の肉と米しか入っていない弁当を覗き込んで
「野菜を食べないなんて、人生損してるよ」と、言った。
――意味が解らなかった。
ウサギと虫の食べ物を食べないだけでなぜ俺が損するんだと。凜太郎は自分の弁当に入っている肉巻きを箸でつまむと
「食べてみなよ」
「いやだ。俺、野菜嫌いなんだ!」
嫌がる俺に凜太郎は
「目つぶって、口あけて」
俺はドキっとした。
「早く、口開けてってば!」
俺はドキドキしながら目をつむり、口を開けた。
凜太郎は肉巻きを俺の口の中にそっと入れた。俺はゆっくり肉巻きを噛みしめ目を開いた。
「うまいでしょ? この野菜、僕が育てて、肉巻きも僕が作ったんだ!」
笑顔で得意げに言う凜太郎を目の前に俺はただ、コクリと頷くだけだった。
「お飲物どうなされますか?」
バーテンダーの不意打ちな注文に
「同じヤツをダブルで、それと……」
俺は、大原のステック野菜と本日のおすすめの鱧のマリネを頼んだ。
今はこうやって、野菜を注文し、生の野菜が食えるのだ。
運ばれてきた品に、俺は、少し驚いた。
よく冷えた洒落たガラスの皿に、鱧とオリーブや玉ねぎ、赤ピーマンなどのみじん切りの野菜がのっている。
(おしゃれなツマミだ)
一口食べるとプリっとした鱧と香味野菜に酸味の効いたタレが合う。
「鱧のお味はどうですか?」
「鱧なんて初めて食べたが、結構いけます」
俺のしょうもない感想を訊いて、バーテンダーはニコリした。
「祇園祭のことを鱧祭りっていうぐらい、京都の人はこの時期に鱧を食べるんです」
「へえー」
「それと、祇園祭の時期は胡瓜食べないんですよ。胡瓜を輪切りにすると、切り口が八坂神社の紋に似ているからだそうです。イイとこのお店では紋に似ている中心部をくり抜いてお出ししているそうですが……」
バーテンダーは、グラスに盛られた野菜ステックを置いて
「うちはそのまま出しますケド。胡瓜」
またニコリと笑い、大原のステック野菜を出した。
大原のステック野菜にはろうそくで温められているソースがついていた。
「こちらの、白みそが入った特製のバーニャカウダソースをつけてお召し上がりください」
俺はみずみずしいきゅうりを温かいソースをつけて食べた。
(なかなかいける)
正直、あの時食べた肉巻きの味は、よく憶えていなかった。凜太郎は何も考えず、友達に自分の作った料理食わせたぐらいしか、思っていないが、俺にとって好きな人から食べさせてもらったのだ。
この違いは天と地の差だ。
とにかく、初めての野菜の味は緊張して味どころでなかった。だが、意外に野菜は食えるものだと思った。
その日から少しづつ野菜を食べるようになって、一番驚いたのは俺のおふくろだった。
「鉾はどうでしたか?」
バーテンダーがおかわりのジャックコークをコースタの上に置きながら訊いてきたが、俺は何のことだか分らなかった。
「あ、すいません。てっきり観光だと思いまして……」
ジャックコークを一口飲んで「ほ、こ? ってなんですか?」と、俺が訊くと
バーテンダーは一瞬、何言っているんですかって顔になったが、すぐに元に戻り
「祇園祭の鉾です。山鉾に船鉾。確か明後日が宵山だったかな? 二・三日前から組み立てが始まって、あちらこちらとお目見えですよ」
「祇園祭って、あの祇園祭ですか?」俺が訊くと
バーテンダーは首をかしげ
「たぶん、あの祇園祭ですよ」 と、言うとクククと静かに笑った。
「すみません。ちょっと面白くて……」
バーテンダーは息を整えると
「失礼しました。この時期に観光に来られたのなら、祇園祭を観にいらっしゃったのかなと思ったので……。あそこにある檜扇の隣にあるのが山鉾です」
バーテンダ―が指差した所は、この店の奥にあった小さな和室の床の間た。
そこに掛け軸と黄色い花と小さな模型が置いてあった。
「京都駅でコンコンチキチン、コンチキチンって、祇園囃子の鉦の音が鳴っていませんでした? 京都では祭と言えば、葵祭なのですが、外からでは祇園祭の方が有名ですね。——もし、まだご覧になっていないのなら是非、一度は見てみたらいいと思います。年に一度のお祭りですから」
夜行バスを下りて出迎えてくれたのはクマゼミだったと、俺がいうと。
バーテンダーはまた、クククと笑い
「あの蝉は祇園祭のはじまりの合図みたいなもんですから……」と、言った。
♢♢♢
地下鉄を乗り、烏丸四条で降りて地上へ上がると、コンコンチキチン、コンチキチンと音が聞こえてきた。
祇園囃子の音とともに、むせかえる夏の風が流れる。日が暮れて、あちらこちらに灯篭が掲げられ、町全体が京の夏祭り一色だ。
明後日の宵山が一番賑やかだとバーテンダーが言っていたが、観光客も多く結構にぎやかだった。
街灯があるとはいえ、路地を入ると結構暗い。遠くに提灯の明かりが浮かんで見えた。
「こんなにでかいのかよ。山鉾……」
実際に自分の目で見てみると迫力が違う。
(昼間、遠くに見えたヤツはこれか)
不思議な光景だ。柔らかい提灯の明かりで浮かび上がる、巨大な建造物。
風の匂いが違うのか、この異国の飾りのせいなのか、日本の古い祭なのに、どこか遠くの国に居るみたいだ。
(なんで、西洋の絵の布地を張っつけてあるんだ?)
よくわからいけど、不思議と違和感なく馴染んでいた。
冷めた熱気が山鉾に漂っている。
「これを、人が組み立てて、こんな細い路地から大通りへ引っ張って行くのかよ……」
本番は熱気にと興奮でごった返すだろうな。
参加しない俺でも考えただけでなぜか胸が高まる。祭の独特の雰囲気。
—―京都の弾丸旅行も悪くないな。
蒸し暑い夏の京都の夜風が、なんだか心地よかった。
本当は幼馴染のヤツが働いているホテルにでも泊まってやろうと思ったがやめた。
「何しに来たの?」なんて言われるのがめんどくさいし。
夜行バスまでまだ時間がある。
「もう一度、銭湯でひとっぷろ浴びて、餃子でも食って東京に帰るとするか」
朝が来たらまたあのクマゼミの鳴き声が聞こえてくると思うと汗がにじみでてきた。
読みにくいところが数多くある中、最後まで読んでいたたきありがとうございます。