幕が下りてから
幕が再び上がり、並んだ役者たちが頭を下げると、今度は建物が壊れそうなくらいの歓声まで上がり始める。
横のニコールも夢中で手を叩いている。
僕も手を上げて、重い手をなんとか打ち鳴らした。
下りた幕が大きな声に応えてまた上がり、というのを何度繰り返したかな。
ようやく完全に幕が下りて、興奮冷めやらぬ人たちが動き始めても、僕は椅子から立ち上がれなかった。
「……どうしたんですか?」
心配そうに僕を覗き込んでるのはニコールだ。
辺りにはいつの間にか明かりが灯っているし、ほかの人たちはもう出口へ向かってる。しまった。
僕はなんとか笑顔を作ってみせる。
「ごめん。いろんなことを考えて、ぼんやりしてただけ。その……劇に、感動しちゃってさ」
「まあ、そうだったのね」
ニコールはホッとしたように微笑む。
「このあとは屋敷の小ホールで立食パーティーがあるんです。そこには役者さんたちも来ますから、ぜひ直に感想を言って差し上げてください。きっと喜ばれると思います」
「……うん」
うなずいて僕は立ち上がる。
ニコールに続いて歩きながら、僕は心の中で「ごめん」て謝った。
僕がいろんなことを考えてたのは感動からじゃないんだ。
恋を成就させるため奮闘するムダル。
決意と共に差し出された花束。
涙をこぼして花を受け取るラジュワー。
幸せそうな二人と祝福する周囲。
その一つ一つに責められてる気がしたんだよ。
「どうしてこういう道が選べなかったの?」
ってさ。
もちろん僕にだって理由はあるんだよ。
家は借金まみれで没落は時間の問題。
互いの身内は反目してる。
『暁の王女』は枯れてしまった。
とかね。
……だけど、そんなのはぜんぶ、言い訳だ。
本当の理由は、僕が臆病だったから。
ムダルみたいな諦めない気持ちと勇気を持ってなかったから、僕はサラに会いに行くことができなかった。
だから僕たちは、ムダルとラジュワーみたいに、なれなかったんだ……。
うつむいて到着したパーティー会場では美味しそうな料理がほかほかと湯気をあげていた。どれもパートリッジ本邸の食卓では何年も見たことないものばかりだ。
だけど僕のお腹はちっとも空腹を訴えてこない。
それよりも、楽しそうに劇の感想を語り合う人たちが眩しく見えて居たたまれなくなったんだ。
ふと気がつくと、ニコールは使用人仲間と夢中で感想を言い合ってる。周りを見回して、僕は賑やかな会場をそっと抜け出した。
観劇が始まったのは午後の遅い時間だったから、今はもう夕暮れも近くなってる。冬が近いこともあって風はずいぶん冷たいんだけど、僕はそれが少し嬉しかった。
さっきまでの熱気は、僕にとって遠くの世界のように感じられるようなものだったからね。
「……何やってんだろうなあ」
僕は深く息を吐いてオレンジの空を見上げる。
僕が王都に来たのは情報が欲しかったからだ。
サラと、ルークと、姉上とを繋ぐ線が分かれば、みんなが幸せになれる道を見つけられるかもしれないと思った。……そこにこっそり、僕もまぜてもらう形でね。
だけど僕にできたことは今のところ『約束の花束をあなたに』を観て打ちのめされることくらいだ。
もう一度深くため息をついたときだった。
近くで急に賑やかな声がし始めたんだ。
「今日はいい演技ができたと思うの!」
「分かる! 観客席の雰囲気も最初から前のめりだったよね」
「ああ、俺もはやく大劇場の舞台に立ちたいなあ」
「だったらもっと小劇場のほうで経験をつまないとな!」
これ……もしかして、さっきの役者さんたち?
木の隙間から窺ってみると、近くにはさっきの劇場があった。しまった、わざわざ僕は劇場方面へ来ちゃったみたいだ。
気まずくて逃げようとしたけど、先頭にいた役者さんがこっちのほうを見る。彼は目を真ん丸にして「あれ?」って声を上げると、嬉しそうに叫んだんだ。
「ロナ様!」
屋敷中の使用人に届いたんじゃないかと思うくらい通る声だったのは、さすが役者さんだね。
でも、ここにいるのは僕だけだと思ったけど、ほかにも誰かいたのかな?
辺りを見回してると、役者さんたちがバタバタと僕の方へ走ってきた。
え? ええ?
「今回の劇はロナ様も観てくださっていたんですね!」
「この服の色が印象的だったから覚えてます!」
「ロナ様がいらしてるから俺、すっごく緊張しました!」
「また小劇場にもいらしてください!」
「わ、私、ロナ様にお会いするの初めてなんです、感激です!」
逃げる場所がなくなって僕は戸惑う。
だけどそれ以上に戸惑うのは、みんなが口々に僕を「ロナ様」って呼ぶことだ。
どういうこと?
ロナって『約束の花束をあなたに』の作者、ロナ・エグディだよね?
どうして僕をロナって呼ぶの?
混乱しながら役者さんたちに囲まれていると、
「何を騒いでいるのかね?」
不意に、役者さんの声にも負けない朗々とした響きがあった。
僕を取り囲んでいた人たちが一斉にそちらへ顔を向ける。
「あ、伯爵様!」
姿を見せたのは、ドネロン伯爵だった。
うわあ、伯爵って姉上と知り合いなんだよね?
ど、ど、どうしよう、どうやって誤魔化そうか?
「ご覧ください、伯爵様! ロナ様がいらしてたんですよ!」
「俺、本当に光栄で、嬉しくて!」
「ほう?」
円の一角が崩れて、ドネロン伯爵が僕の方へ歩み寄ってきた。
ごくりと唾を飲む僕だけど、落ち着いた眼差しのドネロン伯爵には役者たちのような熱気なんてない。
「このお嬢さんは、ロナではないよ」
微笑む伯爵のその一言だけで、辺りの空気はすっと落ち着く。
「えっ?」
「そうなんですか?」
「別人だったの?」
役者さんたちが口々に残念そうな、戸惑ったような表情をする。その中で一歩近づいたドネロン伯爵が胸に手を当てて、僕に軽く頭を下げた。
「皆の非礼を許してほしい。役者たちは舞台のあとで気分が高揚していたのだよ」
「素晴らしい劇のあとなのですから、お気持ちはお察しいたします。どうぞ私のことは気になさらないでください」
僕が応えると、何人かの役者さんが「本当だ」って囁くのが聞こえた。
「ありがとう。君の優しさに感謝する」
そう言って伯爵は辺りを見回した。
「さあ、パーティーの会場へ行こうか。観客の皆さんが待ちかねておられる頃だよ」
「は、はい!」
「間違えてごめんなさい」
「大変失礼しました!」
賑やかな声の中で、ドネロン伯爵が僕にもういちど頭を下げる。
「君も、良い夜を」
そうして役者さんたちと一緒に去って行く。
みんなの背中を見送っているうち、辺りは今の出来事が嘘だったみたいに静かになった。
しばらくぼんやりしていた僕は、ぽつりと呟く。
「ロナ……」
劇作家ロナ・エグディ。
もちろん僕はロナじゃない。グレアム・パートリッジだ。
じゃあ、ロナって誰?
女装した僕によく似てるらしいロナは何者?
僕の頭の中に現れた答えはひとつだ。
ロナっていうのは、もしかして……。
「……姉上、なの……?」




