髪飾りの理由
僕はさっさとドネロン伯爵邸へ向かいたかった。
今週は本来なら“エレノア”がサラのもとへ通う週だ。本来のエレノアである姉上は王都の別邸に、つまり、まさに僕の背後にあるこの建物の中にいるってわけ。
姉上は「その週は外へ出ずに暮らしますの」と言ってたけど、外に出ないだけなら何かのはずみで門を見るかもしれない。そうしたら僕がここにいることにも気がつくだろうし、そのあとの悶着だって……うわあ、考えるだけでぞっとするよ!
だけどニコールは目を細めてパートリッジの別邸を見上げる。
「私はここ数年、王都で暮らしておりますが、エレノア様にお目にかかる機会はなかなかございませんでした。特に最近のエレノア様はお忙しく、隔週ごとに王都を離れておられるとも伺っております。――ちょうど今週は移動の日だったと記憶しておりましたが、今日はグレアム様が女性の姿になるのをお手伝いをなさっていらしたんですよね。こちらのお屋敷にいらっしゃるのなら、ぜひご挨拶を申し上げたいのです」
うわあ、しまった。ニコールは姉上の事情を知っていたんだ!
でも、考えてみたら当然かもしれない。だってここは王都、貴族の屋敷も多いし、使用人たちだって情報に通じてる。パートリッジ本邸は周囲から孤立してるんでそこまで気が回らなかったよ。
とにかくなんとか誤魔化さなきゃ。どうしようかな。えーと。
「じ、実はさ、今週は予定が変わったけど、姉上は今から出かけるらしいんだ。それで今は仕度に追われてるから、また今度にした方がいいと思うよ」
僕が言うとニコールは怪訝そうな様子になったけど、さすがは人に仕える人物だけあるね。無理に情報を聞き出そうとすることも、取り下がることもなく、
「そうですか。では、ご挨拶はまたの機会にいたしますね」
って少し残念そうに答えてくれた。
罪悪感が湧くけど、姉上と会ってもらうわけにはいかないんだ、ごめん。
「ところでドネロン伯爵ってどんな人なの?」
歩き出したニコールについて行きながら僕は尋ねる。
ドネロン伯爵については僕も少しばかり知ってる。ただしそれは「政治的な立場は強いわけじゃないけど、古くから続く家柄なので王宮内での発言権はある」という、ドネロンという“家”に関することだけ。伯爵個人については、今年で四十九歳になる男性だっていう程度の知識しかないんだ。
僕の質問を受けて、ニコールは微笑む。
「理知的で静かなお方ですよ。ほかの貴族のように舞踏会や茶会を開かれることはないのですが、芸術や演劇をとても愛しておられるので、そういった方面での活躍をされてる方や、いずれ活躍したいと望む方を、自邸へお招きになることはよくあります。見込みのある方の後援もなさっておられるので、招かれたいと考える方は多いとも聞きますね」
「へえ……」
「ただ……旦那様は若いころに奥様を亡くされてからというもの、長くお一人でいらっしゃって」
……ん?
「さすがにお寂しいのではないかと、私どもは思っているのですよねえ」
続いての「後継ぎには甥御様を指名なさっておいでなので、伯爵家の今後に不安ないのですけれど」という次の言葉は僕の頭の上を通りすぎていく。
だって、僕にとって重要なのはそこじゃないから。
ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。
ニコールはいま、なんて言った?
ドネロン伯爵は奥様をなくされてお一人?
僕は必死で考える。
姉上が僕に送ってきた黄金の髪飾り、そしてそれを見て狼狽したルークの意味を。
もしかしてドネロン伯爵が髪飾りを姉上に贈ったのは、お礼とか社交の一環とかじゃなくて……。
……姉上を後妻に迎えたい、とか……?
うわああ!
そういうことかああああ!
なるほど、ルークが狼狽した意味も含めて、ここで全部が繋がったよ!
ドネロン伯爵と姉上は年齢差が三十一になる。
ちょっと離れすぎじゃないかとは思うけど「持参金がなくてもお嫁に来てもらいたい」って言えるのはこういう人になるのかもね。若い男性だと父親あたりが反対するだろうしさ。
幸いというか、僕がいま向かっているのは姉上の将来に関係するかもしれない家だ。姉上のためにもちゃんと視察はしておこう。
あと、今日の僕も姉上と似てるらしいから、ちゃんと顔は隠しておこう。貸衣装屋から帽子を借りてきたのは正解だったな。追加料金はかかったけど。
「ねえ、ニコール。姉上への挨拶は、意外とすぐできるかもしれないよ……」
「どうしたんですか、急に」
姉上の三年にわたる社交の努力が実りそうなんだ。とはまだ言えない。
嬉しさ半分、しんみり半分の気持ちを抱えつつ、僕はニコールと一緒にドネロン伯爵邸への道を進む。
***
ドネロン伯爵邸は、洒落た空気感を持つ屋敷だった。
蝶と花の意匠が刻まれた門の向こうには形よく刈り込まれた低木があって、奥にそびえる屋敷は灰白色の石でできた三階建てだ。壁には見事な彫刻が多くあって、どことなく劇場の姿を思い出すよ。
「こちらから入りますよ」
ニコールはそう言って裏手側に回り、通用門を通って中に入る。
石畳の細い通路を横切って裏庭を抜け、壁沿いを進むと、どこからともなく音楽が流れてきた。劇の曲かな? もう準備が始まってるみたいだね。
奥へ進むにつれて少しずつ人が多くなる。僕に向けられる視線も多くなる。……たぶん、服が派手なせいだろうね……。
できるだけ小さくなって進んでると、通路の突き当たりでニコールが足を止めた。
「ほら、ここが小ホールの入り口よ。今日の劇、楽しみね」
ニコールの物言いが砕けたものになってるのは、周りに人がいっぱいだからだ。僕はニコールの娘として来てるんだもんね、いつまでも「グレアム様」なんて呼ばれるわけにいかない。
了承した、という証拠に、僕はにっこり笑ってみせた。
今日の劇を演じるのは、ドネロン伯爵が所有する劇場の若手役者たち。
普段は小劇場にいる彼らが特別に伯爵邸まで来て、『約束の花束をあなたに』を通しで演じるってわけ。
「そのあとはお屋敷の広間で立食パーティもあるんですよ」
ドネロン伯爵邸へ来る道すがら、ニコールがそう教えてくれた。
立食パーティって、たくさん食べてもいいのかなあ。
いや、あんまりがっついたらニコールに恥をかかせちゃうかもしれないし、ほどほどにしよう。それに劇を観たあとは胸がいっぱいになって、意外と食べられないかもしれない。
……大丈夫、分かってる。今回のドネロン伯爵邸訪問は、僕にとってあくまで情報収集の一環だ。
でも観劇なんて子どものころ以来なんだよね。ああ、はやく中に入りたいなあ。うずうずして足が勝手に動いちゃうよ。
そんな僕の気持ちを察したかのように、ギィィ……と音を立てて重厚な扉が開く。
周りの人たちがしんと静まり返った。




