第一章
この世界には、とてつもない理不尽がそこかしこに待ち構えている――まるで落とし穴のように。
はまり込んだら最後、何人もそこから逃れることはできず、遅かれ早かれ、自らの運命を甘んじて受け入れざるをえなくなる。
だが、もしどうしても逃れようとするのであれば、それなりの報いを受けることになるだろう。
○
七月のある日、赤いワンピースを着た女の子が停留所でバスを待っていた。彼女はまだ小学生で、川遊びに行った帰り道だった。
人気のない街と、辺りを染めあげる赤い夕日――セピア色の世界の中で、彼女はたった一人きり。
道路脇のコンクリート壁にもたれかかり、上機嫌に口笛を吹いていると突然、ごう、と風が吹いてきた。
まだ湿った髪を揺らして振り向くと、彼女の視線の先には一台の古ぼけたバスが止まっていた。
時刻表を確認した彼女は訝しんだ。
「……おかしいな」
乗るつもりだったその日最後のバスは、まだこの時間には来ないはずであった。
でも、早く帰らないと、お母さんに叱られちゃう。
気が急いて、彼女はそのバスに乗りこんだ。足を踏み込むと、ギィ、と床がきしむ音が響く。
「あのー、すみません……」
車内に他の乗客はいないようだった。彼女はもう一度、今度はできるだけ大きな声で言った。
「このバス、駅の方に行きますか?」
運転手は無言だった。
「……」
彼女は怪しく思ったが、そうこうしている内に自動扉が閉まり、バスは発車した。
疲れていた彼女は一人で一番後ろの席に腰かけた。途端に眠気が襲ってきて、そのまま気を失うようにすうっ、と眠りに落ちてしまった。
ガタン、という大きな音と共に彼女は目を醒ました。
「うわぁっ!」
びっくりして、彼女はそんな情けない声を漏らした。気がつかぬ内に、ずいぶんと長い間寝てしまったようだ。
彼女は瞼をこすりながら、窓ガラス越しに外を見た。
辺りは真っ暗だった。どこかの田舎の山道を走っているらしいが、街灯も何もないせいで全く外の様子が見えない。
そして、何より重要なこと――
「……どこだろう、ここ」
そこは、明らかに彼女が目指していた場所ではなかった。周囲に駅はおろか町の灯すら見えず、彼女はひどく不安に駆られた。
道を間違えてしまった。
彼女は慌てて降車ボタンを鳴らした。
するとバスは道の脇にあった小さな停留所の前で乱暴に急停車した。おかげで彼女はつんのめって、前の席に頭をぶつけてしまった。
おでこを押さえつつ、運転席へと向かった彼女は降りる前に尋ねた。
「……あの、ここってどこですか」
その年配の男は帽子に顔をうずめたまま彼女に目もくれず、不愛想に答えた。
「『鬼』ざ。早ぁ降り(『鬼』だ。早く降りな)」
どこの訛りともつかぬ言葉だった。
彼女は何かを言いかけて躊躇い、しょぼくれた顔でそのまま口を噤んでしまった。
「……すみません」
何も悪いことをしていないのに謝って、彼女は言われるままバスを駆け足で降りてしまった。
この時になって、彼女はようやく気付いた。
そのぼろぼろの停留所の名前が漢字一文字の「鬼」である、と。
○
どことも知れぬ山道に一人取り残された彼女――
暗澹とした森の中、月明かりが頼りなく彼女の頭上を照らす。
「どうしよう……、どうしよう……」
ただ全てを黒く染めあげる深い闇が、圧倒的な孤独が、彼女の心を喰らっていた。
遠くからカラスかフクロウの類の声が聞こえるたび、彼女は恐れ戦いた。
小学生の女の子が歩いて移動できる距離などたかが知れている。
それでも、彼女はその細い山道をたった一人で進んでいった。
歩き始めて数十分経った頃――
視界の端に見えた僅かな灯りを目指して前進していくと、蝿の群がる電灯の下にポツン、と佇む人影があった。
子供なのかあまり背は高くなく、逆光のせいで表情が見えない。しかしその人影は、少女の方をじっと見つめているようだった。
そしてソレは、次第にそろり、そろり、とこちらへ向かって歩いてきた。
彼女の心臓が一気に早鐘を打った。
怖い。
まるで金縛りにでも遭ったかのように、彼女の体は自由に身動きする能力を失った。足の震えが止まらず、それでもソレから目が離せない。
もうだめだ。
彼女がそう覚悟を決めた時――
「――やい(おい)」
少年の声、だった。彼は優しく微笑みかけると、彼女に近寄ってきた。
「……」
彼女は警戒したまま言葉を発することができない。しかし、近づいてみたら何のことはない、彼は彼女と同い年ぐらいの男の子だった。
「きっちゃん、『スズキハル』ちゅうんけ?(君、『スズキハル』って言うのか?)」
探りを入れるように、彼はそう声を掛けた。
しかし――
「……そう、ですが」
まだ一言も言葉を交わしていないのにいきなり名前を言い当てられて、鈴木ハルは震える声で答えた。
すると、その紺色の着物を着た男の子はほっとしたように話し出した。
「やいやい、うったまげっけ。まっさ赤っけ服着ちゅるし、幽霊け思うてい(あーぁ、びっくりした。真っ赤な服着てるし、幽霊かと思ったよ)」
ハハ、と歯を見せて笑う彼――言葉に独特の訛りがあるせいでハルには少し聞き取りづらいものの、少なくとも悪意は感じられない。
「……ユウレイ?」
ハルは自分の方が幽霊だと思われていたことに驚いた。
「さーざ。『赤っけ服んわっ子』、山ぇ行っつ出るが。知らんけ?(そうだ、『赤い服の子』、山に行くと出るやつ。知らない?)」
彼は怪談話でもするようにおどろおどろしい声を出した。
しかしハルは、先ほどから気になっていた質問をした。
「なんで……、アタシの名前知ってるの?」
すると彼はきょとんとした顔で、ハルの持っていた水着入れを指さした。
「すりゃ、あすくに書いてあるげぇ(そりゃ、あそこに書いてあるから)」
そういえばそうだった。
ハルはひとまず胸をなでおろした。気が抜けたせいか、彼女はその場にへたり込んでしまった。
「大事け?(大丈夫か?)」
その男の子は心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「あの……、名前は?」
今までの緊張がとけてきて、ハルはその男の子に尋ねた。
「『冬明』ざ(冬明だ)」
「ふゆ……あき……?」
「フユアケざい。俺が『冬』で、きっちゃんが『春』。偶然ざな!(『フユアケ』だよ。俺が『冬』で、君が『春』。偶然だな)」
冬明はそう言って、もう一度にっこり笑って手を差し伸べた。ハルはその手をしっかりと握りしめて、再び立ち上がった。
「ざぜん、くったん山ん中ぇ、何す来てざ?(だけど、こんな山ん中へ、何しに来たんだ?)」
冬明は不思議そうに首を傾げた。
○
ハルと冬明との最初の出会いは、偶然というには出来過ぎていたのかもしれないし、必然だったとすれば残酷だった。
「づったすて? まぐれてけ?(どうしたの? 迷子になったか?)」
冬明はこれまた独特な言葉遣いでハルに尋ねた。
「……まぐれ?」
「道が分からんけ?(道が分からないの?)」
「うん……」
ハルはしおらしく俯いた。
「……家に、帰らなきゃ」
ハルは焦ったようにそう呟いた。しかし、帰り道について考えようとするとなぜか頭痛がした。
「きっちゃん、づっから来てざ?(君、どこから来たの?)」
黙り込む彼女に冬明はこんなことを尋ねた。
「……『きっちゃん』って誰?」
ハルは困惑したように聞き返した。
「ハハ、違違。『きっちゃん』言うがは、『御前』て意味ざ。『ハルちゃん』て、呼んでんええ?(ハハ、違う違う。『きっちゃん』って言うのは、『お前』って意味だ。『ハルちゃん』て、呼んでもいい?)」
冬明はもどかしそうな表情で続けた。
「……うん」
「ハルちゃんが家は何処に有るざ?(ハルちゃんの家はどこにあるの?)」
冬明が通じるように言い直してくれたおかげで、ハルはようやく質問の意味を理解した。
「アタシは……、東京の……」
そこまで言いかけて、彼女は自分の家を教えるか迷った。
しかし――
「『トウキョウ』? 何処ん外地ざ、すりゃ?(『トウキョウ』? どこの県外の町だ、そりゃ)」
冬明はてんで見当がつかない、という様子だった。
「え……? 本当に知らないの? 東京だよ?」
「うーん、聞いて時ねえな。西京なら知っちゅるぜん(うーん、聞いたことないな。西京なら知ってるけど)」
ハルは驚きを隠せなかった。
「そんな……。ちょっと待って、ここはどこなの?」
「此処ぁ奈津崎ざ(ここは奈津崎だ)」
それは、ハルにとって全く聞き覚えのない地名だった。
「ナツザキ、って何県?」
「……? 奈津崎は県ざい、奈津崎県(奈津崎は県だよ、奈津崎県)」
冬明としては、ただ何気なく返事をしただけだった。
「『ナツザキ、ケン』……?」
ハルはぞわり、と総毛立つのを感じた。
「鬼」という名前のバス停、バスの運転手や冬明の奇妙な訛り――
この時、彼女はようやく悟った――自分が異世界に迷い込んでしまったことに。
アタシ、一体どこに来ちゃったんだろう。
怖くなってきて、ハルはうっすら涙を浮かべた。
これに困ったのは冬明の方だった。
「……たんま、俺ん村ぇ来るけ? 後で停車場まで案内すちゃる(とりあえず、俺の村へ来るか? 後で駅まで案内してあげる)」
おろおろしてしまって、冬明はこんなことしか言えなかった。
「……アタシなんかが行ってもいいの?」
目尻を指でこすりながら、ハルは不安そうに尋ねた。
「支障なせ、て。今日は祭りざげぇ(大丈夫だって。今日は祭りだから」
あの時、冬明はなぜかハルから目を逸らした。
「祭り?」
「さーざ、早ぁ来(そうだ、早く来な)」
彼はそっけなくそう言って手招きすると、どこかへ向かって歩き出した。
「……ありがとう」
ハルは小さく頷いて、強張った表情で笑った。
〇
思えば、最初から冬明だけが頼りだった。
山道をしばらく歩いて行くと、川に細い吊り橋がかかっていた。
二人は老朽化して今にも落ちそうなその橋を渡って、反対側にあるという冬明の村を目指していた。
とっぷりと日が暮れ、暗やみの中聞こえるのは川のせせらぎと虫の声のみ。
時折吹く湿気を帯びた風が橋を揺らし、ハルは手すりの縄をつかんでしゃがみ込んだ。
「きゃぁっ!」
すると先へ行っていた冬明が戻って来て、先ほどのようにまた彼女に手を差し伸べた。
「歩かぁる?(歩ける?)」
冬明は微笑んだ。
「足気ぃつけな、ハルちゃん(足に気を付けてね、ハルちゃん)」
ハルは冬明の助けを借りて、ゆっくりと立ち上がった。
「……うん」
風が収まるのを待ちながら前方を見やると、遠くの山の中にぼうっ、と灯りが浮かび上がっているのが見えた。
どうやら山間に小さな集落があるようだ。
「……あれが、フユアケくんの村?」
「うん、椨中村ざ(うん、椨中村だ)」
二人が吊り橋を渡り切ろうという時、どこからかドン、ドン、というゆっくりした太鼓のリズムに合わせて何かの楽器の音が聞こえてきた。
木々の間を潜り抜け、雑草だらけの道を進んでいくと森が開けた場所に出た。
すると二人の目の前に、赤い柱に黄色い屋根瓦の乗った門が現れた。両脇には松明が置かれ、炎から火花がパチン、パチンと散っている。
「これって、お寺?」
ハルがそのお城のような門を指さすと、冬明は答えた。
「うん、天宮さんざ(うん、天宮さんだ)」
冬明に導かれるまま、ハルが境内に足を踏み入れると――
たくさんの見物人が、どこからかやって来る踊りの行列に声援を送っていた。
彼らの視線の先には、黒い刺青をした上半身裸の男たちと、仮面を纏った一人の老人がいた。
行列の入場とともに爆竹に火がつけられ、辺りに笛や太鼓の音が響く。男たちはそれに合わせて何かの歌を歌い始めた。
「冥途は五里霧中ぅ、
御霊は後生大事ぃ、
くれが無せりゃ一大事ぃ……
(あの世は五里霧中、
先祖の霊は後生大事、
これがなければ一大事……)」
揺れる炎に照らし出されて男たちの目は爛々と輝き、肌はてらてらと光沢を放っていた。やがて、彼らは先頭の仮面の老人に導かれ、お寺の本堂へと向かってゆっくりと歩いて行った。
ハルは今まで見たことのないその異様な光景に目を見張った。
「今日は何のお祭りなの?」
人混みの後ろで、ハルは隣にいた冬明に質問した。
「『御霊送り』ざ。毎年七月にやっちゅる(『御霊送り』だ。毎年七月にやってる)」
冬明は大して面白くもない、というふうに返事をした。
盆踊りなのかな。でも、まだ八月じゃない。
ハルが不思議に思っていると、冬明が急にきょろきょろと周囲を見回し出した。そして彼はたっ、と駆け出すと、後ろを振り向いてハルの方に目配せした。
ついて来い、ってことかな。
ハルはとりあえず一旦お寺を離れ、冬明の行く方へと向かった。
しばらく歩くと、ツタに覆われた一本の立派なタブノキがあった。この大きな木は村の中心にある霊木で、この日は根元に祭壇が設置され線香やお供え物が置いてあった。
冬明はその中からラムネの瓶を二つほどくすねると、その場で飲み始めた。
「……いいの、そんなことして」
ハルが咎めるも、冬明は特に悪びれる様子もない。
「ハルちゃんむ飲みや、うまさい(ハルちゃんも飲みな、おいしいよ)」
冬明はハルにその黄色いガラス瓶を手渡した。
なんだか悪い気がしたが、ハルはそれを受け取って口をつけた。
だがそのラムネを少し口に含んだ時、あることに気づいた。
「このラムネ、レモンの味がする」
ずっと歩き通しで疲れていたせいか、それはとても美味しく感じられた。
しかし、ハルの言葉に冬明はなぜか少し吹きだして、
「何言うちゅんざ、『レムン味ざらんラムネ』なんてラムネざらんぱ?(何言ってんだ、『レモン味じゃないラムネ』なんてラムネじゃないだろ?)」
と言いながらラムネをラッパ飲みした。これにはハルも当惑した。
しかし勢いよく飲んだせいか咽てしまい、冬明は激しくゲホゲホ、と咳き込んだ。
「……大丈夫?」
「支障なせ、支障なせ(大丈夫、大丈夫)」
彼はそう強がったが、再び咳き込んだ。その様子を見てハルはクスッ、と笑った。
「ハルちゃん、やっつく笑ぁてな!(ハルちゃん、やっと笑ったな!)」
彼女の笑顔を見て、冬明はとても嬉しそうだった。
互いに笑い合う二人――しばしの平和なひと時だった。
○
「フユアケ! 何処ぅてらぐらすちゅっててざ!(冬明、どこをぶらぶらしてたんだ!)」
二人の背後から、誰かが大声で呼ぶのが聞こえた。
咄嗟にハルは体をビクッ、と震わせた。
その男はひどくイラついた様子でつかつかと冬明の方へ歩いて来ると、彼の頭を軽く殴った。
冬明があいっ、と悲鳴を漏らして後ろを振り向くと、そこには黒い刺青の入った上半身裸の中年男がいた。
「御頂き食うな、くんだらすけが(お供え物を食うな、このバカタレが)」
その男は線香を片手に握りしめ、いかにも虫の居所が悪いというように冬明を見下ろしていた。
「父様(お父様)」
冬明はきまりが悪そうに父の顔を見た。眉間に皺が寄ったその顔はまるで般若の面のようだった。
「早ぁ集会所ぃ戻り、まだ終わっちゅらんづ(早く集会所へ戻れ、まだ終わってないぞ)」
冬明の父はまだ言い足りないようだったが、急いでいるのか説教を一旦切り上げた。
「……分かりゃすて(分かりました)」
冬明はしぶしぶ返事をした。
「……この人、誰?」
ハルはなるべく小さな声で聴いた。冬明は苦笑して、
「父っちゃん。あー、えっせ(父ちゃん。あー、怖い)」
と、耳打ちした。
「くんわっ子は誰ざ? 見かくん面ざな(この子供は誰だ? 見かけない顔だな)」
父はハルの方を一瞥すると、低い声で問いただした。
「俺ん連れざ、あれー……、学校ん(俺の友達だ、あのー……、学校の)」
冬明がその場の思いつきで取り繕うも、父はフン、と不機嫌そうに鼻息を漏らした。
「空言いな(嘘をつくな)」
ハルはできるだけ冬明が不利にならないようにあれこれ弁明した。
「……違うんです、さっき山で道に迷ってるところを助けてもらって」
すると父は、口を挟んできたハルを軽く睨んだ。
「御前、外地っ人け?(お前、よそ者か?)」
まるで、何か汚いものでも見るような目だった。
その冷たい視線に、ハルは何も言い返せなくなってしまった。
「……まぁ良せ。今日だきゃ(まあいい。今日だけは)」
父は諦めたようにそう言うと、二人について来るように言った。
ハルはとりあえず叱られなくてよかった、としか思わなかった。
天宮さんのお寺の本堂は椨中村の集会所でもあるらしく、この日は村人たちに開放されているようだった。
三人が到着した時、お座敷ではすでに何かの儀式が行われているようで盛り上がっていた。
「冥府は暗っれげぇ、冥途は黒っれげぇ……(冥府から暗いから、冥途は黒いから……)」
赤、青、黄色。南国風の色鮮やかな衣装を身に纏った女性たちが、音楽に合わせて歌いながら舞を披露している。村人たちはその周りに座って楽器を演奏したり、合いの手を入れたりしていた。
「このお祭りは何をする日なの?」
お座敷に上がりながら、ハルは冬明に聞いた。
「先祖ん霊った祀るざ。七月は鬼門が開くげぇ(先祖の霊を祀るんだ。七月は鬼門が開くから)」
「キムン、って?」
「あっちゃつくっちゃ繋ぐ場所ざい(あっちとこっちをつなぐ場所だよ)」
そんな話をしていると一旦踊りが中断し、先ほどの仮面を身に纏った老人が再び出てきた。今度は隣に一人の白髪の老女を引き連れている。
「道士様」
「イチナ様」
村人たちは口々にそう呼びかけて、その二人に対して恭しく頭を下げた。
偉い人なのかな。
ハルは何も分からないまま、皆と同じように頭を下げた。
お菓子や果物、卵などがお供えされた仏壇の前で、老人は手に取った線香を振り回してはその煙を全身に浴びていた。
そして――
「兄弟様、兄弟様、御迎ぇは今日でええざな?(兄弟様、兄弟様、お迎えは今日でいいのかな?)」
老人は隣にいた老女に呼びかけた。彼女は数珠を握りしめしばらくブツブツと祈りを捧げていたが、突然ガクン、と首を上に動かし、何かが憑依したように高い声で話を始めた。
「ええ人、悪っれ人、何が区別?(いい人、悪い人、何の区別?)」
すると老人は、歌うように朗々と声を張り上げてこれに応じた。
「区別ん無えがぁ、当然事。
一んむ二にんむ三位一体、四海兄弟、五神様、兄弟様、クリスツ様。
天地万有神様らに拝謝、拝謝。
(区別がないのは、当然のこと。
とにもかくにも三位一体、四海兄弟、五神様、兄弟様、キリスト様。
ありとあらゆる神様がたに感謝、感謝)」
歌うような節回しで老人がそう言い終わると同時に、再び踊りが始まった。
あっちとこっちって、あの世とこの世のことかな。
ハルは終始その何の宗教ともつかない奇妙な儀式に目を奪われ、ただただ場の雰囲気に飲まれていた。
○
儀式の後、村人たちは三々五々に自分の家へと帰って行った。行く当てのないハルだけは、いつまでも集会所に残っていた。
座敷にいた村人たちは彼女を取り囲み、一様に不思議がった。
「くん女な子ぁ、誰ん家んわっ子ざ?(この女の子は、誰の家の子だ?)」
「くったん赤っけ服、みったーなせな(こんな赤い服、みっともないな)」
「御前、屋号は?(お前、屋号は?)」
耳慣れぬ訛りと、降り注ぐ好奇の目。
ハルは答えに窮して黙り込んでいた。すると、冬明が代わりに話し出した。
「俺が連れて来っけ(俺が連れてきた)」
皆が注目する中、冬明は臆せず言い切った。
「停留所ん辺りでまぐれてみてぇで、困っちゅってげぇ(停留所の辺りで迷ったみたいで、困ってたから)」
これを聞いて、その場にいた一人が声を上げた。
「停留所、て……。北東ん方にあるアレけ?(停留所、って……。北東の方にあるアレか?)」
冬明は真顔で頷いた。
「さーざ(そうだ)」
その瞬間、その場にいた全員が眉を顰めた。一人の老婆が、ケガル、ケガルと言いながら、数珠を握って何やら拝み始め、辺りは不穏な空気に包まれた。
来ちゃいけないところに来ちゃったのかな。
明らかに歓迎されていないことを肌で感じて、ハルはますます委縮した。
すると冬明は彼らを睨みつけ、いらだちを滲ませながら叫んだ。
「今日ぐれえ、ええっぱ? 何時いき『人類皆兄弟』なづ言うちゅるがは、誰ざ?(今日ぐらいいいだろ? いつも『人類皆兄弟』とか言ってるのは誰だ?)」
これには冬明の父も我慢ならないというふうに口火を切った。
「フユアケ、大概にすんつ、くらっかすづ(フユアケ、いい加減にしないと殴るぞ)」
父は息子の首根っこを引っ掴もうとしたが、一人の老人が彼を制した。それは、先ほどまで仮面をつけて儀式を行っていた道士様だった。
彼はハルの方へ歩み寄ると、その場にしゃがんでハルの方をじっと見た。少し緊張して、ハルは思わず目を逸らした。
「貴さん、えらさってっぱ?(君、疲れただろう)」
彼はハルの肩に手を置いて、笑顔で穏やかに語りかけた。
「まぁ、今日はゆっくしねまり、旅っ人(まぁ、今日はゆっくり休んで、お客様)」
彼の鶴の一声で、部屋の中が水を打ったように静まり返った。
「……道士様が言うぜぁな(道士様が言うんじゃな)」
冬明の父はチッ、と舌打ちした。
「天宮さん家が預かるぜぁ、俺らは関係なせ(天宮さん家が預かるんじゃ、俺らは関係ない)」
他の村人たちもそれ以上追及しなかった。
この集会所は冬明の実家で、道士様はここの家主だった。
ハルが通されたのは、家の一番隅にある物置のような部屋だった。
窓から差し込む月明かりが、埃っぽい空気に一筋の光を投げかけた。
「……あの人たちって、フユアケくんの親戚?」
二人きりになってから、ハルは布団を持ってきてくれた冬明に尋ねた。
「うん。みぃんな親戚ざげぇ、屋号で呼んぢゅる(そうだ。皆親戚だから、屋号で呼んでる)」
「ヤガー?」
「くん村は陳内ばっかしざげぇな。俺む陳内冬明ざい(この村は陳内ばっかりだからね。俺も陳内冬明だよ)」
冬明は、村の人は彼の家のことを「天宮さん」と呼ぶ、とも語った。
「あのお爺さんは、フユアケくんのお爺さん?」
ハルはかび臭い布団を敷きながら、道士様のことについて尋ねた。
「あぁ、俺んぢっちゃんざ(ああ、俺のお爺さんだよ)」
冬明は床に散らばったゴミを片付けながらそう言って、ゲホ、と軽く咳き込んだ。
「偉い人なの?」
ハルのこの問いに、冬明は目を背けたまま返事をした。
「……まあな」
よほど先ほどお祭りのことが気になったのか、ハルは興奮気味にまくし立てた。
「さっきのアレ、何だったの?」
「アレ、て?」
「さっきやってた、何かの儀式、みたいな……」
「あぁ、『口寄せ』ざ(あぁ、『口寄せ』だ)」
「クチユセ……?」
ハルにとっては何もかもが分からないことだらけだった。
ここはどこなんだろう。
あのお祭りは何なんだろう。
しかし冬明はと言えば、ふぁあ、と大きく欠伸をした。
「はー寝るげぇ、また明日な(もう寝るから、また明日な)」
ハルはまだ聞き足りないことがたくさんあったが、冬明はそれ以上彼女の質問に答えず、話を切り上げてしまった。
部屋を出る間際、冬明は隣の部屋へとつながる襖を指さした。
「あぁ、奥ん間にゃ入るな。神様ん御座ざげぇ(あぁ、奥の間には入るな。神様の部屋だから)」
その黄ばんだ襖には、表面に何枚もお札が張られていた。
○
真夜中、しいんと静まり返った部屋の中。
神経が高ぶって、ハルは中々寝つけなかった。
ぼーん、ぼーん、と時計が鳴る音が響く。
一時間経っても、二時間経っても、彼女はそのままぼんやり天井の木目をぼんやりと見つめ続けた。
時刻は夜中の三時になろうとしていた。
ガタ、という物音に何かの気配を感じて、ハルは浅い眠りから目を醒ました。
何だろう。
彼女がそう思って布団から半身を起こし、何気なく部屋の中を見回した時――
奥の間の襖の前に、何かいる。
ハルは見てしまった――冬明に入るなと念を押されていたあの開かずの間から、まさに誰かが出てくる瞬間を。
彼の忠告を思い出して、彼女の体中からどっと冷や汗が吹きだした。
「どう、した、の……?」
彼女は恐怖を感じつつも、そう尋ねざるを得ない。
そこに座っていたのが、冬明だったからだった。
彼はなぜか、お爺さんが先ほどの儀式で使っていた木彫りの仮面をかぶっていた。
月明りが老爺の笑った面を照らし出し、凹凸が作り出す影が豊かな表情を作り出す。だが彼がその面の下で本当はどんな表情なのかは分からない。
「なぜ禁忌破ってざ、貴さん(なぜ禁忌を破った、君)」
喉を無理やり締め付けたような、ひどく気味の悪い声だった。
彼は言い終わると同時にゲホ、と咳き込んだ。
「……やめてよ、ふざけてるの?」
はじめハルは苦笑いして、とりなそうとした。
しかし――
「禁忌破る悪っれわっ子ぁ、此処に居ってけ(禁忌を破る悪い子は、ここにいたか)」
彼は仮面の下でカカ、と不気味に嗤う。
「キンキ……?」
ハルは彼が何の話をしているのか、全く見当がつかなかった。
「くったんいっぜぇ罰被りぜぁ、舌抜きぜぁすまんに(こんなすごく罰当たりじゃ、舌抜きでは済まないよ)」
いかにも何かに憑りつかれたような、年に似つかぬ喋り方――
どうしちゃったんだろう。
まるで人が変わってしまったような冬明にハルは動揺した。
「……アナタは、一体誰なの?」
この問に、彼は歌うように節をつけて答えた。
「俺ゃ名ぁん無ぇ、何ぁん無ぇ、ただん無縁鬼ざ(俺は名もない、何もない、ただの無縁鬼だ)」
そのダレカは「無縁鬼」と名乗った。
「ムエンキ……?」
ハルが聞き返すと、彼はキキ、と笑った。
「知らんけ? 浮浪霊ん類ざ(知らないか? 無縁仏の類だよ)」
ハルは血の気の引いたような真っ青な顔をした。
「……アナタは、フユアケくんに憑りついてるユーレイなの?」
すると彼は宥めるようにこう言った。
「支障なせ。明日になりゃ、冬明は目ぇ醒ます。まぁ、すりゃ良せ……(大丈夫だ。明日になれば、冬明は目を醒ます。まぁ、それはいい……)」
彼はすくっ、と立ち上がるとハルの方へと歩いてきた。
「他人に気ぃ使う前に、自身に気ぃ使い(他人の心配をする前に、自分の心配をしろ)」
意味深長な言葉だった。
不吉な予感がして、ハルは言葉を発することができない。
「まだ分からんけ? 可哀想に(まだ分からないか? 可哀想に)」
怯えるハルの顔を覗き込んで、彼は大きくため息をついた。
「御前は、はー死んでざ(お前はもう死んだんだ)」
彼はさも面白そうに、クク、とハルを嘲笑った。
「死んだ……? アタシが?」
この時点で、ハルには全く自覚がなかった。
だが――
「さーざ。御前、水遊びぇ行ってっぱ?(そうだ。お前、水遊びに行っただろう?)」
思い当たる節があって、ハルはハッとした表情になった。
彼は彼女が言い返せずにいるのを見てほくそ笑んだ。
「御前ん真体は、川ゼ溺って死んで『水鬼』ざ(お前の正体は、川で溺れて死んだ『水鬼』だ)」
「……スイキ?」
「川ん霊ざ。七月に川べたゼ遊ぶわっ子った捕むが水鬼ざ。水鬼に捕まってわっ子ぁ自身む水鬼になるざに。
(川の霊だ。七月に川辺で遊ぶ子供を捕まえるのが水鬼だ。水鬼に捕まった子供は自分も水鬼になるんだよ)」
ハルは愕然とした。
「……でも、アタシはまだ生きてるわ」
ハルは必死に強がったが、彼はまたあのおどろおどろしい声で語り出した。
「七月は鬼月ざげぇ、くん一月ゃづったん霊ぜん人間が姿ゼ居らぁる。
ええ人、悪っれ人、あーけっつ。悪鬼、椨ん木、汨羅之鬼。みぃんな同じざ。
ざぜん、一月ん中に『身代わり』った見つからんば、御前は本に死んで、地獄ィ行くざ。
(七月は鬼月だから、この一月はどんな霊でも人間の姿でいられる。
いい人、悪い人、トンボ。悪鬼、タブノキ、溺れ死んだ者。みんな同じだ。
だが、一ヶ月で『身代わり』が見つからなければ、お前は本当に死んで、地獄に行くんだ)」
流れるようによどみなく、歌い上げるような独特の節回しで話す彼。
まるで雲をつかむような話だったが、彼の鬼気迫る口調には有無を言わせぬ真実味があった。
「……アタシは、地獄に落ちるの?」
ハルは震える唇で聞くと、彼はケケ、と笑い声を漏らした。
「さーざ。血ぃ抜き、舌抜き、釘打ち……。御前は何がええ?(そうだ。血抜き、舌抜き、釘打ち……。お前は何がいい?)」
この時、ハルは仮面の奥に潜む彼の瞳を見た。こちらを見据えるその双眸は暗く、ハルはそれを見ているだけで戦慄した。
「なんでアタシが……? アタシが、そんなに悪い子だから……?」
これを聞いて、彼は苦笑した。
「当然事ざ、鬼月にあったん悪事すてばなぁ……。『くったん赤っけ服着て、みったーなせ』(当然の事だ、鬼月にあんな悪事を働いたらねぇ。『こんな赤い服着て、みっともない』)」
彼はハルのワンピースを指さして、得意げに先ほどの村人の口真似をしてみせた。
そんなの、メチャクチャだ。
ハルは思わずこう言った。
「……それだけ? そんなことで? そんなの、知らない――」
「知らんぜぁすまんざ(知らないでは済まないんだ)」
彼は憤るハルの言葉を遮った。
「なんで?」
ハルは最大の疑問をぶつけた。すると彼は、これまた最も簡潔に答えた。
「すれが御前ん命ざげぇ(それがお前の命だからだ)」
「メイ?」
「命運ったざ。全ては命ん中に決まる(運命だ。全ては運命によって決まる)」
それは、あまりにも理不尽だった。
「たんま、一月ん中に、『身代わり』った探す事ざ(とにかく、一ヶ月で『身代わり』を探すことだ)」
絶望するハルに、彼は冷たく言い放った。
「『身代わり』って何? さっきから何言ってるのか、全然分からないよ」
ハルは訳が分からないというふうに喚いた。しかし、ハルの気持ちなどおかまいなしだった。
「御前が新しゅうつっつく宿主ざ。見つからんば、死ぬだけざに(お前が新しく憑りつく宿主だ。見つからなきゃ、死ぬだけだよ)」
彼は来るべき最悪の未来について告げると、身体をブルッ、と大きく震わせてその場に崩れ落ちた。
ハルはとっさに彼の体を受け止めた。
「大丈夫?」
ハルはそう呼びかけて彼の体を揺すった。仮面を外して顔を見てみてもみたが、息はしているようだった。
気を失っているだけかな。
ハルの心配をよそに、冬明は結局朝になるまでそのまま目を醒まさなかった。
一度にたくさんのことを言われて、ハルは頭の中がぐちゃぐちゃだった。
アタシが幽霊で、一ヶ月以内に誰かに憑りつかないと地獄に落ちる?
そんなのバカげてる。
ハルは自分にそう言い聞かせた。だがそう思う一方で、冬明には明らかに何かがとりついているようにも見える。
自分はどうすればいいのか――この日からずっと、ハルはこの答えの出ない問いを抱え続けることとなった。
(第一部 鬼月禁忌・終)




