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1939年

作者: 綾奈


「失礼します」

百合華(ゆりか)がノックして扉を開けると、そこにはベッドに横たわる彼女の母、菊華(きくか)がいた。

「……お体の調子はどうですか?」

「……ありがとう、百合華。大丈夫だ。いつも通り、身体に不調はないよ」

 そう言って菊華は、優しい笑みを浮かべた。


 療養のためこの地に移って、もう数年が経とうとしている。菊華の患う「影憑(かげつ)(びょう)」は原因不明の難病だった。

身体に対しての影響はあまりないのだが、徐々に患者の心をむしばんでいく。末期には「影」が見えるようになり、やがて死に至るという。数十年前から各地で流行しだし、たくさんの人の命を奪った病だ。


 百合華はラジオをつけると、ベッドの横に椅子を持ってきて、そこに腰かけた。ラジオからは軍部の演説が聞こえてきた。

「――日本国民の皆さま。大日本帝国陸軍大佐、西園寺(さいおんじ)です。皆さま知っての通り、今は日本国民が一丸となって戦う時です。軍だけでない。国民全員の結束と協力が必要なのです。ですから――」

「……すみません、消したほうがいいですか?」


 菊華は昔、帝国の女軍人だった。著名な軍曹の娘として生まれ、若い頃はその名に恥じない立派な軍人だったという。

だが――それも病にむしばまれるまでの話だった。


「いや、このままでいい。気を使わせてしまってすまないな、百合華」

「いえ、私は、母さまのためなら、何でも致します。それが娘である、私の務めですもの」

 菊華は、そうか、と嬉しそうに笑った。そして百合華の頭をそっと撫でた。

「大丈夫だ、百合華。私は強い。影憑き病になど、負けたりしないさ」

「はい、母さま……」

 外は雪が降るほど寒くなっていた。撫でる菊華の手は、優しく百合華を温めた。


そうだ、きっと大丈夫だ。母さまは強い。

身体だけでなく、心の面でも。

だからきっと、母さまは、私を置いていったりなどしない。そう百合華は懸命に思った。


「ああ、そうだ、じゃあ百合華。一緒にレコードを聴かないか。ずっと一人で寝ているのは、どうにも退屈なんだ」

 菊華は思いついたように言った。百合華は椅子から立ち上がると、部屋の隅のレコード棚へと向かった。

「では、何を聴きましょうか……」

 クラシック、演歌、ジャズ……。ラベルを見ながら棚をあさっていると、ふいに百合華の肘が何かにぶつかった。ばさっという音とともに、床の上に、紙の束が散らばった。

「ああ、ごめんなさい!」

「大丈夫か?  全くそそっかしいな」

 菊華はそれを見て苦笑した。百合華は、顔を赤くしながら、紙を拾い集める。

ふと、百合華は、その紙の束が手紙であることに気がついた。しかも、日付がもう二十年近く前の。宛名の欄には、秋津菊華(あきつきくか)様、と書かれていた。差出人の欄には――。

花園(はなぞの)(あずさ)……さん?」

 聞いたことのない名前だった。母さまの、古い友人だろうか、と百合華は思った。

「梓さん……か。懐かしいな」

 菊華は呟いた。そして、遠くを仰ぎ見るように百合華に言った。

「なあ、百合華。すまないがその手紙、私に読んでくれないか?」

「え? これを……ですか?」

 ああ、と菊華がうなずいたので、百合華は意を決して、手紙を読むことにした。

手紙の中の一番日付の古いものを広げ、はっきりと言葉を発する。


「拝啓、親愛なる、菊華お義姉(ねえ)様。元気でお過ごしでしょうか。帝都を旅立ってから一週間が経ちますが、道中見るものは私にとって、全て真新しいものばかりです。はしゃいでいたら、菊丸に馬鹿にされてしまいましたが……。兎にも角にも、私は元気でやっています。『影憑き病』のことも、何かわかり次第、追って連絡致しますね。さて、そんなことより、お義姉様には聞いてもらいたいことがたくさんあるのです。こんな旅ができるのは、おそらくこれが最初で最後なので。では、覚悟して、私の無駄話に最後までお付き合いくださいね――」



*       *        *



二十四年前、春


 「お待たせ致しました〜」

 そう告げると、茶店の女給はお茶を差し出した。茶菓子には、なにやら串に丸いものが三つ刺さったものが添えられている。それが何なのか、梓にはわからなかった。

「あの、この茶菓子は何というのですか?」

 たまらず梓は女給に聞いてしまった。

「え?  団子のことですか?」

「おお、なるほど! 『だんご』というのですね!  あ、いや、私がいつも食べているような、カステラやケーキとはだいぶ違うようだったので……それに、お茶も紅茶ではなく、皆さん緑茶を飲むのですね!  勉強になります!」

 梓は饒舌になって女給に語る。女給はぽかんと梓を見つめていたが、そんなことにはおかまいなく、梓は団子をじっくりと眺めた。

貴族家の娘として生まれた梓には、庶民の生活に親しむ機会なんて今までなかった。だから、見るもの全てが面白いものに思われて仕方がない。

「……はあ、梓」

 彼女が興奮していると、横から菊丸(きくまる)が制止した。

「こんなところで道草している暇なんかないだろう。そんなもの、さっさと食え」

 そう言うと、ふん、と鼻を鳴らして不服そうに腕を組んだ。こんなもののどこがいいんだ、とでも言いたげだ。はいはい、と梓は団子を口の中に入れて、お茶を飲みほした。

「ほら、美味しいよ? 菊丸も食べないの?」

「はあ? そんなもの、誰が食べるんだ……」

「いいから!  ほら!」

 梓は菊丸の口に団子を入れた。不服そうに咀嚼する様子を見守っていると、途中で菊丸の表情が変わった。

「……美味い」

「でしょう?」

「おい女給。団子一皿追加だ」

 それを聞いた女給は「はい、ただいま~」と再び奥へと引っ込んだ。

「おやおや、お兄さん、ここの団子が気に入ったのかい?」

 そう言って話しかけてきたのは、短いくせっ毛な髪の女性だった。梓たちと同じように、団子を食べている。

「ふん、庶民の食べ物にしては、悪くないと思っただけだ」

「ちょっと、菊丸!」

 梓があまりにも失礼な菊丸を睨むと、女性は豪快に笑った。

「あっはっは! 若いのにしては、なかなか面白いことを言うじゃないか!」

「はあ? 馬鹿にするな。俺は、帝国陸軍所属、秋津菊丸上等兵だぞ。貴様ら庶民とは違う」

 菊丸がいつもの決まり文句を豪語する。大抵の人は、ここで関わり合うのをやめてしまうのだが、その女性は特に何か驚いたそぶりも見せずに面白そうに言った。

「へえ、兵隊さんだったのか。そいつは失礼したよ。どうりで、世間知らずな雰囲気をしているわけだねぇ」

「だ、誰が世間知らずだ! こいつと一緒にするな!」

 菊丸がムキになる様子を見て、女性は面白そうに笑った。

菊華お義姉様のように、なかなかに肝が座っているなぁ、と梓は思った。

のほほんとお茶を飲み干そうとして、そこでようやく彼女はこの旅の目的を思い出した。

「ああ、そうだ! すみませんが、一つお尋ねしてもよろしいですか?」

「はいはい、なんだいお嬢ちゃん?」

「この辺りで、『千鳥権兵衛(ちどりごんべえ)』という名のお医者様をご存知ありませんか?」

 女性は少し悩んだ後、申し訳なさそうに言った。

「いや……聞いたことない名前だね。協力できなくてすまんよ」

「そうですか……わかりました。また、別の方に話を伺ってみます」

 そんな風に話しているうちに、女給が団子を持ってきた。菊丸は団子を受け取りお代を払うと、早々に席を立った。その様子を見て、女性が再び菊丸をからかう。

「なんだ、もう行っちゃうのかい。せっかちだねえ。ああ、そうだ。あんた兵隊さんなんだろ? なら、あの子を嫁にもらっておやりよ」

 そう言って、女性は健気に働く女給の方を見た。梓の視線も、自然とそちらに向かった。

「あの子、美人な上に気立てもいいんだが、家の方が貧乏でねえ。どうだい? 悪い話じゃないだろ?」

 梓をちらりと見てから、女性は菊丸に尋ねた。菊丸はため息をつく。

「はあ、何を馬鹿なことを言っている。そんなの受け入れるわけないだろう」

 馬鹿馬鹿しいとばかりに菊丸は荷物を持った。そして、梓を指差す。


「それに、俺はこいつと婚約している。他の奴など、ありえん」


 菊丸は「ほら行くぞ」と梓に言うと、そのまま去って行ってしまった。

梓はしばらく驚いて口を開けていた。だがやがて、にっこりと微笑むと、「ご馳走様でした」と一礼して菊丸を追いかけていった。

「若いねえ」

 女性は呟いて、団子を食べながら遠くなる二人の背中をしばらく見つめていた。



 彼らの旅の目的は、医者を探すことだった。

数年前から帝都では、原因不明の不治の病「影憑き病」が流行りだしていた。その解決のため、帝都では非常に優秀な医者だと噂される「千鳥権兵衛」という人物に頼ることとなった。

だが、彼は数年前に軍直属の医者を辞めて以来、行方知れずとなっていた。そのため、彼を見つけ出して帝都に連れ戻すという任務が、軍部の上等兵秋津菊丸と、彼の婚約者の花園梓に課せられたのだ。



 「おい、なぜ手を繋ぐ……」

 茶屋を出たあと、二人は町中を歩いていた。菊丸は先程買った団子を、口の中に頬張っている。その団子を持った方と逆の手は、しっかりと梓に握られていた。梓は地図を見ながら、辺りを見回している。

「迷子にならないようにだよ。菊丸は方向音痴だから」

「だからって、手を握る必要はないだろう。いいから、離せ」

「だーめ。離さないよ」

 はあ、と菊丸はため息をついて、抵抗を諦めた。それを見て梓は嬉しそうに微笑んだ。ありがとうございます、菊華お義姉様、と彼女は心の中で思った。


 今回彼女たちをこの任務に推薦したのは、菊丸の姉である、秋津菊華だった。

彼女は女性でありながら軍部の士官であり、優れた兵士だ。梓とも義姉妹なので仲が良かった。


 菊丸は軍部の人間であるため、仕事で忙しく、梓が一緒にいられる時間は、ほとんどなかった。それを見かねた菊華は、慰安旅行も兼ねて、今回の旅を提案してくれたのだ。


 梓は今回の旅のことを手紙にして、定期的に菊華に報告していた。

 お義姉様、今日は茶屋に行ったのです。それで、団子というものを、初めて食べました。そしたら、それを菊丸が気に入って、美味しいって言ったんです。あの菊丸が、ですよ――。


 梓は楽しそうに歩きながら手紙の内容を考えた。何ニヤニヤしてんだ、と菊丸が小突く。はいはいと、梓は再び地図に目を落とす。


 二人は情報を人に聞きながら、町の奥へと歩いていた。

今のところ、有力な情報は得られていない。というのも、町の人々は温室育ちの二人をあまり良く思わなかったらしく、軽くあしらわれてしまうというのが、実情だった。やがて、二人は町の最奥へとたどり着いた。

「おい……なんかここ変じゃないか」

 菊丸がそう言ったので、梓は地図から目を離して辺りを見回す。……特にこれと言っておかしなところは、彼女には見当たらなかった。

「何もないと思うよ?」

「いや、おかしいだろう。さっきからずっと歩いているというのに、誰も人がいないじゃないか……」

 そう言われて、梓は気づいた。先程まで盛んに道を行き来していた町人も商人も馬車も、何一つ姿が見えない。皆家にこもってしまっているのか、路地はひっそりとしている。不気味に思った梓は、試しに呼びかけてみた。

「あのー誰かいらっしゃいませんか! 私たち旅の者で、ある方を探しているのですがー」

 梓の声は、しんとした街道に響いて消えた。

応える返事は聞こえない。もう一度呼びかけようと梓が息を吸い込んだ、その時だった。


「あのぉ……ここに、おりますがぁ……」


 不気味な声とともに、梓の着物の袖が引っ張られた。

「え?」

 それを見て、梓は目を疑った。


 枯れ枝のような細い指、骨張った腕。

 シミと汚れだらけで、ボロボロにすすけた着物。その破れ目からは、内臓の存在を強調するかのように、いびつに膨らんだ腹部が見えた。


 梓は、ゆっくりと、視線をその人物の顔へと移した。


「あんたがたさぁ……」

 その人物の口が、ゆっくりと開いた。


「たびのもん、なんだろぉ……? だったら……おねがいでさぁ……」

 口が動くたび、隙間だらけの黄ばんだ歯が見える。赤く充血した目は救いを渇望するように見開いて、こちらを見つめていた。


 梓はぞっとした。


「なにかめぐんでくれよぉ……! なんでもいいからさぁ……!」


 菊丸は、がさがさと周りで何かが動き出したことに気づいた。

彼らはそれらが人だということに気づいていなかったのだが、先程まで、同じように地面にへたり込んでいた人々が、梓たちからの恩恵を求めて動き出したのだ。

あぁ、うぅと、気持ちの悪い呻き声があちこちから聞こえる。

「貧民街か……。クソ、なんであいつら教えなかったんだ……!」

 菊丸がぼやいていたが、梓の耳には届いていなかった。肉のない細い手が、梓に伸びてくる。

覆い被さってくる人々が、まるで自分の存在を責め立てているように、梓には感じられた。

何も知らない。世間知らずに生きてきた、自分の存在を。

ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。

梓は心の中で何度も叫んだ。

彼女の心は、今まで感じたこともないような恐怖と狂気を前に、震えていた。


 不意に、梓の手がぐいと引っ張られる。

見上げると、菊丸が彼女の手を引いていた。

「走るぞ」


 そう言われて伸びてきた手腕をくぐり抜けながら、来た道を走る。

走りながら、梓は前を走る大きな背中を見つめていた。握られた手の温もりを感じながら――。


 二人はもとの人通りのある道に戻ってきた。貧民たちが追ってくることはなかった。




 拝啓、お義姉様へ。こうしてお義姉様に手紙を出し続けて、だいぶ月日もたちました。

世の中には、私が知りもしなかったようなことがたくさんあるのだと、この旅を通して知りました。

影憑き病は様々な町で広がりつつあります。お義姉様からの説明を聞いてはいましたが、実際に惨状を見るのは初めてでした。人間とは、あんなにも虚ろな目をするものなのですね。

そんなふうに病や飢餓に苦しむ人々を見るたび、私は、胸が締め付けられるような痛みを覚えます。ひたすらに、目を逸らしたくなる衝動に駆られます。

まるで、自分がとても邪悪な存在のように思えて来てしまって……。お義姉様にも、こんなことってあるのでしょうか。すみません、こんなみっともない弱音を吐いてしまって。

ああ、そんなことより一つ朗報があるのです。実は、ようやくお医者様、千鳥権兵衛様の居場所を突き止めました。帝都を出て西方へと進み、様々な町村を巡ってもお医者様の消息はいっこうにわからなかったのですが、静岡を下っている時、やっとのことでその情報を手に入れたのです。世間というものは、広いようで実は狭かったりするのですね。

そんなこんなで、私たちは今、鹿鳴館の前にいます。かの有名な貴族たちの社交場、帝都の鹿鳴館の前に。




 鹿鳴館の前は、貴族や華族、異国の来賓の馬車が行き交っていた。菊丸と梓の二人は、入り口の階段のもとに立っていた。鹿鳴館へは、菊丸も梓も、幼い頃からよく出向かされていた。ゆえに比較的馴染み深い場所だった。


 静岡を歩いている時に、二人は探している千鳥権兵衛の友人を名乗る人物に出会った。なんでも、彼の地元は静岡だったらしく、権兵衛を知る人がたくさんいたのだ。その人の話によると、権兵衛は軍部の医者を辞めたあと、そのまま帝都に残っていたらしく、帝都の鹿鳴館によく出入りしているとのことだった。


 鹿鳴館の前は、煌びやかなドレスや畏まったスーツに身を包んだ人々であふれかえっていた。菊丸は一度振り返って、梓を眺めまわした後、ため息をついた。

「お前は、ここで待機だな」

「ええ! なんで?」

「俺は軍服だからいいが、お前が今着ているのは庶民の袴だろう? その恰好でここに入る気か?」

そう言われて、梓は自分の体を見回した。旅用の動きやすい服装という事で、確かに彼女は今ドレスでも正装でもない。さすがに、この格好でここに入るのは場違いだろう。

「わかったよ。じゃあ、この下で待ってるから、早めに帰ってきてね」

 「わかっている」とぶっきらぼうに言って、菊丸は扉を開けて鹿鳴館の中へと入っていった。

それを見送ってから、梓は階段を下へと降りて行った。



 警備兵に促されて、菊丸は鹿鳴館の大広間へと通された。テーブルには豪華な食事が並べられ、髭をたくわえた上流貴族や、ドレスで着飾った貴婦人たちが楽しそうに談笑したり、踊ったりしていた。菊丸には、見慣れた風景だ。

「今日は舞踏会に来たのではない。千鳥権兵衛という人物を探している。ここによく出入りしているらしいが、心当たりはあるか」

 菊丸は警備兵に尋ねた。

「ええ、はい。そのお方であれば、存じ上げております。ここへあのような風貌でいらっしゃるのは、あの方くらいですので。現在は、奥の客室にてお休みになられていると思いますが、面会なさいますか?」

「ああ、頼む」

「では、お取次ぎしますので、お名前とご用件を」

 菊丸は自分の身分と事情を手短に説明した。警備兵は、かしこまりました、と一礼すると、奥の客室へと去っていった。手持無沙汰になってしまった菊丸は、近くのテーブルに置いてあったリンゴを、一口かじった。かすかすとした食感、甘蜜のない味。はっきり言って、とても不味い。彼が幼いころに食べた鹿鳴館のリンゴは、もっと美味しかったはずだったのだが。菊丸は首をかしげた。

 

がしゃん、と食器が割れる音がして、菊丸は顔をあげた。

見ると、若い女性が小太りな男性に腕を掴まれていた。

「お放し下さい……」

「いいじゃないですか、そう身構えずとも。私は貴女と少しお話がしたいだけなのですよ、西園寺ご令嬢?」

「手を……お放し下さい!」

 女性はかなり若く、菊丸より二、三歳年上と言った感じだった。手を振りほどこうとするも、力では中年の男性には勝てないようだった。

嫌がる女性の肩を、男性はもう片方の手で抱き寄せようとした。ぬっと伸びていく太い指。

だが、その指がふいに力強くはたき落とされた。見ると、菊丸が男性の手を掴んでいる。彼は男性を女性から引き剥がすと、二人の間に割って入った。

「な、なんだ貴様は⁉」

驚いた男性は数歩後ずさった。菊丸は女性を庇うように立ち、男性に冷たい視線を向ける。

「こんな公衆の面前で、嫌がる女性を無理やりものにしようなんて、紳士らしからぬ行動ですね、小野寺(おのでら)少尉?」

「なっ、なぜ私の名を知っている⁉」

「知っていますとも。帝国軍の士官様は、陸海空を問わず、全ての方の顔と名前を覚えていますから。でも、いささかがっかりです」

 騒ぎを聞きつけた警備兵が数名やってきた。

「この人を、鹿鳴館の外へ連れて行ってくれ。どうやら、ここには相応しくない人物の様だから」

「お、おい、待て! 貴様、何様のつもりだ! どこの家のものだ⁉」

「別に、特にこれと言った名家の生まれではありませんよ。それとも、このことを上司の方にでも報告されたい、ということですかね」

 少尉はそれを言われると、ぐぅと黙り込んだ。そして無抵抗に警備兵に連れられて行った。

周りに集まって見物を決め込んでいた貴族たちも、またそれぞれの談話や舞踏に戻っていった。


柄にもないことをしてしまったと菊丸がため息を吐いていると、権兵衛のもとへ行っていた警備兵が入れ替わりで戻ってきた。

「秋津様。千鳥様が面会されるそうです。ご案内しますので、こちらへ」

「ああ、わかった」

 菊丸は身なりをただすと、後ろにたたずんでいた女性に会釈して踵を返した。

「あ、お待ち下さい!」

 そう言われたので菊丸は立ち止まる。

「……先程は、ありがとうございました。わたくしは、貴族家の長女、西園寺麗子(さいおんじれいこ)と申します。せめて、貴方様のお名前だけでもお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 西園寺――どこかで聞いたことある名だと菊丸は感じた。

だが、聞かれて名乗らないのも失礼だと感じた彼は、もう一度西園寺麗子に体を向けた。

背筋と指先を伸ばして敬礼し、軍部にいる時のように、口元に誇らしい笑みを浮かべて彼は言った。

「私は、帝国陸軍所属、秋津菊丸上等兵です」

 敬礼から直り、では、と一礼してから、菊丸は警備兵のあとを追って客室へと歩いて行った。

西園寺麗子は、その背中が暗闇に消えるまで、彼をずっと見つめていた。



 帝都の景色は、少し痩せ細ったように思える。鹿鳴館の前の階段に腰掛けながら、梓はそんなことを感じていた。行き交う人々も、見える街並みも、どこかぼんやりとしていて浮かない表情だ。彼女たちが旅立ったころの帝都は、もっと華やかな場所だったはずなのに。

冷たい現実の世界を見て回って、ようやく温かな帝都へ帰れると、内心どこか思っていた梓にとって、今の帝都の情景はただただ辛かった。


 菊丸――。菊華お義姉様――。

梓は、膝に顔をうずめた。その時、


 みゃおぉん


 どこからか、猫の鳴き声が聞こえた。


「ねこだ! ねこ、くろねこ!」

 梓は顔をあげた。見ると、足元に黒猫がすり寄っていた。

ついで、幼い男の子が、梓と猫のもとへ駆け寄ってきた。

「うわあ、ねこだよ! おねえちゃん、見て、ねこだ!」

 男の子はきらきらとした瞳をこちらに向けてくる。純粋で輝きのある表情を見て、梓は少し安心した。

「そうだねぇ、猫だねぇ。……もしかして、猫好きなの?」

「うん! 大好き!」

「そっかぁ。お姉ちゃんも、おうちで猫飼ってて、猫好きだよ。とっても可愛いよね」

「うん! しっぽがふわふわなとこがかわいい!」

 無邪気に笑う男の子を見て、本当に素直だな、と梓は思った。

あたりを見回したが、彼の保護者らしき人物は見当たらない。はぐれてしまったのか、男の子は一人のようだった。梓は男の子を見て、良いことを思いついた。

「あ、それじゃあ、頭なでてあげる? きっと喜ぶよ~」

「え、いいの⁉」

「うん。この子おとなしいし、きっと逃げないよ」

 男の子はそっと猫の頭にその小さな手をのせた。そして不器用ながらに、黒猫の頭をなでた。猫は嫌がることも警戒することもせず、ただされるがままにされていた。

猫と男の子を見ていると、こちらの気持ちもほっこりしてくる。


梓はその幸せな光景を、ずっと眺めていたいと思った。



 客室に通されると、そこには着物を大胆に着崩した男性が、上質なソファにふんぞり返っていた。確かに、話に聞くほどの変人ぶりだった。とても、医者だとは思えない。菊丸はいぶかしむ意味も込めて尋ねた。

「貴方が、千鳥権兵衛殿、ですね?」

 権兵衛は持っていたキセルを吹いた。そして、少しの間があってから答えた。

「そうだが。そういうアンタは何もんだよ? あれか? 迷子か」

 権兵衛はフッと鼻で笑った。誠実な回答を期待していたわけではないが、鼻にかけた物言いに、菊丸はイラついた。

「……帝国陸軍所属、秋津菊丸上等兵だ。元軍部所属医師、千鳥権兵衛。お前に軍部召還命令が出ている。ただちに、帰還せよ」

 そう言って、菊丸は文書を机に叩き付けた。

権兵衛はキセルを吹きながら、文書を手にとって目を通した。

最後まで読み終えると、権兵衛は文書を机に放り投げた。


「断るね」

「なっ⁉」


 予想外の返答に、菊丸は困惑した。

「何故だ、断る意味が解らん」

 菊丸が尋ねると、権兵衛はまたキセルを吹いた。

「つまり、今ちまたで流行っている影憑き病の治療のために、軍部に戻れ、という事だろう? なら、オレは戻らない。そんなことする意味がないからな」

「意味がない? 何故だ」

「まあ、そう焦るな。焦ると婚期を逃すぞ」

 権兵衛はまた菊丸を茶化して、キセルに火をつけ直した。

「……ようするに、オレにはあの病は治せない。だから意味がないと言っている」

「そんなもの……軍部の設備で研究しろ。優秀な医者なんだろ」

「……実力のことを言ってんじゃねえよ。オレは、やり方のことを言ってんだ。ほら、なんでも大事だろう、やり方、ってのは。ほら、たとえばさあ、あれ、だよ、あれ。あの……」

「もういい、それは。で、なんなんだ、いったい。そのやり方って」

 正直権兵衛の相手をするのに疲れてきた菊丸は、もう彼を連れて帰らなくてもいいのではないかと思い始めていた。影憑き病の治療法さえわかれば、きっともうそれで解決するだろう。

「……ああ、そうか。アンタは軍部の人間なんだっけね。じゃあ、軍部のお偉いさんに伝えてくれ」

「ああ、なんだ」

 権兵衛は今まで手にしていたキセルを机に置くと、神妙な面持ちで呟いた。


「今すぐに、全ての戦争をやめろ。停戦でも、終戦でも、なんでもいい」


「は?」

菊丸は、自分の耳を疑った。


「……またふざけているのか?」

「どう受け取ろうが勝手だが、それが真実だ。これが影憑き病の、唯一にして最大の治療方法だ」

権兵衛の言っていることが、菊丸には理解できなかった。

戦は、今の帝国を築き上げた、立派な富国行為だ。

強き兵と兵器を持った国こそが大国であり、戦はその力を行使し、世界に帝国の力を示す場だ。

そんなこと、菊丸だけでなく、全ての人が知る常識だ。

その戦争を、やめろ?

――菊丸には、意味が解らなかった。


「おい……ふざけるにも度が過ぎるぞ。戦争をやめる? つまりお前は、俺たちの先代や先々代たちが築いてきた、この帝国という国を、捨てろと言っているのか?」

「……ああ。そういうことだ」

「はあ? ふざけるな! お前、自分が何を言っているのか解っているのか⁉」

 菊丸は机の上から文書をひったくった。


「軍部を、帝国を侮辱するやつは、誰であろうと許さん! 今日は特別任務中につき見逃してやるが、次同じようなことをほざいてみろ! 極刑に値するぞ!」


 権兵衛はため息を吐くと、もう一度キセルを持ち直した。

「ああ、そう言うと思っていたよ。アンタら軍部は頭が固いんだ、昔から」

 菊丸は何も答えずに、客室から出る扉へ向かった。

扉を出る直前、権兵衛は菊丸に言葉を投げかけた。


「いつか何かを失うぜ、きっと。特にアンタみたいに、生意気な小僧はよ」


 思い切り音を立てて、菊丸は後ろ手に扉を閉めた。



「おねえちゃんはなでないの?」

「え?」

 菊丸遅いなあ、なんて梓が考えていると、ふいに男の子がこちらを向いて、不思議そうに聞いてきた。

ああ、そうか、私もなでていいのかと梓は思った。男の子は猫の頭から手をどけた。猫は、先ほどと同じように、じっとしていた。


黒猫は彼女が飼っている洋種のペルシャ猫とは似ても似つかない。

だが、彼女には、なぜか、ひどく懐かしく、愛おしいものに思えていた。


 梓はゆっくりと、黒猫に手を伸ばした。


「ああっよかった! ここにいたのね!」

 そんな声が響いたので、梓は顔をあげた。

そこには着物を着崩した女性が、息を切らして立っていた。

「まま! みてみて! ねこだよ!」

 どうやら、男の子の母親らしい。男の子の方は、よっぽど黒猫が気に入ったらしくけろっとしている。母親は、もう、と微笑みながら着物を整え、男の子に近寄った。

「……なになに? どこに猫がいるの?」


 その途端、今までおとなしかった黒猫が、急にすっと立ち上がり、路地裏に向かって駆け出した。


「あっ、まって! ねこ!」

 男の子も立ち上がると、同じように路地の奥へ走っていった。

「あ、こら、待ちなさい!」

 母親は再び血相を変えて男の子を追いかける。お母さんも大変だな。早く捕まるといいけど。

梓はその様子を見て、呑気に微笑んだ。


「おい、梓」

 ふいに梓の背中が叩かれた。

振り返ると、菊丸が立っていた。腕を組み、眉間にしわを寄せて、非常に不機嫌そうである。

「おかえり、菊丸。どうだった?」

「どうもこうもない。あの医者、ふざけやがって……。影憑き病を治したければ、戦争をやめろとか抜かしてきやがった。腕がないなら、素直にそう言えばいいものを」

「え、じゃあ結局、お医者様は軍部に戻らないの?」

「ああ。軍部にはそう報告するつもりだ。千鳥権兵衛は、実力不足により、召還命令を辞退した、と。俺も正直、あんな医者が影憑き病を治せるとは到底思えん」

「何もそこまで言わなくても……」

 やっぱり自分もついて行った方がよかっただろうか、と梓は思う。ただ、そんなこと言っても菊丸を怒らせるだけなので、絶対に口にしないが。


菊丸はしばしイラついていたが、ふと何かを思い出したように梓に聞いた。

「そういえば、梓。お前、西園寺麗子という人物に心当たりはないか」

 それを聞いて、梓は驚いた。

「心当たりって……西園寺麗子様と言ったら、西園寺総理大臣の一人娘だよ? 今の帝国のトップの娘さんだよ」

「ああ、なるほど。そういうことか」

 菊丸はなぜ少尉が西園寺麗子に言い寄っていたのか、合点がいった。

「そういうことって、どういうことよ」と、梓は口をとがらせたが、菊丸は軽くあしらった。

「今日はもう遅いから、報告は明日にする。どこかに宿をとって、一泊しよう」

 そう言って菊丸がさっさと歩きだしたので、梓も後に続いた。


路地を進み、大通りに出る。

そこになぜか、人だかりができていた。よく見ると、荷馬車が横転したようだった。

「事故……かな?」

 二人はその人だかりの横を通り過ぎた。

だが人波の間から、かすかに見えた物に、梓ははっとした。


人ごみの中心には、大怪我をして倒れているさっきの男の子と、それを抱きかかえて泣き崩れているあの母親がいた。


「可哀想に。猫を追いかけていたら、馬車にはねられたそうだ」

「まあ……。あらでも、馬車の引手は猫なんて見なかったとおっしゃっていたけど」

「ああそうなんだ。それが不可解なんだよな。もしかしたら、『影』でも見たのかもしれないな――」


 「どうした、梓」


 無意識のうちに、梓は人ごみを前に立ち止まっていた。

菊丸が少し行ったところで、振り向いて怪訝そうに梓を見つめている。


「――ううん、なんでもないの」


 梓は小走りに菊丸に追いつき、宿に向けて歩き出した。



 みゃおぉん



 夕闇の路地に、猫の鳴き声が響いた気がした。







拝啓、親愛なる菊華お義姉様。

いきなりですが、私はお義姉様に謝らなければいけないことが二つばかりあるのです。


まず今日、帝都の鹿鳴館で、ようやく千鳥権兵衛様に会うことができました。しかし、残念ながらその方では影憑き病の治療は難しいらしく、断られてしまいました。

私はその場に立ち会うことができなかったので、事の成り行きはよくわからないのですが。

でも、権兵衛様はどうやら、影憑き病を治したければ、戦争をやめろとおっしゃっていたそうです。どのような意味なのか、私にはわかりかねますが、念のため、お義姉様にお伝えしておきます。

せっかくお義姉様に頂いた大切な任務でしたのに、このような結果になってしまい、本当に申し訳ありません。


 そして、もう一つのことというのが――ああ、すみません。

また、うるさくなってきました。


先程までは少しマシだったのですが。


……きっと私を呼んでいるのだと。



 話を戻しますね。


お義姉様は、影憑き病の症状を知っていますか。

患者の心を徐々に蝕み、末期の患者は「影」が見えるようになるという恐ろしい症状です。




 実は、ここに告白しますと、どうやら私は、その「影」が見えるようになってしまったようなのです。


いつからかはわかりません。


まさか自分が影憑き病にかかっているなんて、思ってもみませんでしたから。


本当に、すみません。


旅の途中でこのようなことになるなど、あってはならないことなのに。



でも、今も聞こえるのです。



あの黒猫が、鳴いている声が。


にゃあにゃあと、今もうるさく。



耳の奥で。


鳴いているのです。



その鳴き声が、頭から離れないのです。




頭が割れそうで、もう、耐えられないのです。






ですので、私はもう、屋敷に帰ることは出来ません。



これも、最後のお手紙です。







今までありがとうございました、お義姉様。





こんな風にお別れを告げること、本当にごめんなさい。



菊丸のこと、どうかよろしくお願いします。














それでは、さようなら。




 「――梓」


 物音がしたような気がして、菊丸は体を起こした。


だが、そこに梓の姿はなかった。


起き上がってあたりを見回すと、窓が開け放たれており、風でカーテンが静かに揺れていた――。




*       *        *


「――梓さんは、その次の日、宿の窓から飛び降りて死んでいるのが見つかった。それが彼女の、最期だった」

最後の手紙を読み終えた百合華に、菊華はそう告げた。


「もっと早く、気づけていればよかったのにな――」


「母さま!」

 たまらずに、百合華は菊華に駆け寄った。


「母さまは、私の前からいなくなったりなどしないですよね……?」

 百合華は、目に涙をためて肩を震わせていた。

同じように菊華がいなくなってしまうような気がしてならなかったのだろう。

菊華は百合華を抱きしめると、優しく頭をなでた。

「大丈夫、心配するな。ここでこうして療養していれば、きっといつかよくなるから。きっと、いつか……な」

 菊華は背中をなでながら、涙ぐむ百合華を慰め続けた。


 もしかしたら、梓さんの手紙に書かれていた通り、本当に戦争をやめることが、影憑き病の撲滅に必要だったのかもしれない。

飢餓も民の不安も恐怖も、全て、戦争が引き起こしたことだったのだから。

菊華は密かにそう思った。


ラジオからは、今も軍部の演説が流れ続いていた。


「――であるからして、我々軍は、なんとしてでも、この大戦に勝ってみせます。国民の皆様も、引き続きのご助力を、よろしくお願いします。えーでは、これで大日本帝国陸軍大佐、西園寺菊丸(さいおんじきくまる)の、ラジオ演説を終了させていただきます――」



 「とてもよかったですわ、菊丸さん」

 演説を終えた菊丸に、妻の西園寺麗子はそう声をかけた。

「そうか、それはよかった」

そう言って、菊丸は襟を正し、麗子から上着を受け取る。

「翌週は、いよいよ内閣の議員選ですわね。元総理大臣の娘の夫となった貴方ならば、間違いなく、次期首相に選ばれるでしょうけど」

「そんなことはない。勝負は最後までわからないからな」


 菊丸は口物をほころばせたが、目は死んでいるようだった。

その眼は、数十年前に彼の婚約者が死んでしまった時から、変わっていない。

まるで心を失ってしまったかのような、そんな目だった。


だが、麗子はそんなことは特に気にした様子も無く、菊丸の隣で微笑んでいた。

「大戦が終わったら、わたくしを旅行に連れてって下さいね。この国が貴方のものになったら、きっと自由が出来ますから」

「ああ。ただ、その前にこの戦に勝たねばならん。戦況は多少不利だが、逆境こそ勝利への道だ。我々は、必ず勝つ」

「はい。そうですね」


 菊丸と麗子は、呑気にそう笑い合っていた。




























――しかしその後、その国が戦に勝つことは、一度としてなかった。


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