訣別の咆哮
焔獄鬼は、山に火を放った人間の兵士を、手当たり次第にその拳で、爪で虐殺した。
ある者は頭部を粉砕され、ある者は体をぐちゃぐちゃにされ、ある者はただの肉片になるまで踏み荒らされ。
そう、まるで、今の鬼神村に横たわる、小田原の兵士達のように。凄惨な、殺し方で。
年若い兵が、やめろ、助けてくれと泣き叫ぶ声も、ただ耳障りでしかなく。
どうにか逃げようと、焔獄鬼に背を向け走り出した男の体を、捕らえるべく手を伸ばした、その時だった。
「やめろおおぉおぉおおぉ!!」
強い衝撃と共に、伸ばした腕が、弾かれた。
そうして、今正に捕らえて殺そうとしていた人間の兵士を庇うように立ちはだかったのは……焔獄鬼の友、聖だった。
「焔獄鬼! もうやめろ! これ以上は駄目だ!!」
いつも何処か余裕ぶって笑っていた彼とは別人のように、その表情は切迫していた。
額にいくつも汗の玉を浮かび上がらせて、息を切らして、刀も抜かずに両手を広げて、ただ焔獄鬼を必死な眼差しで見据えていた。
「これ以上ここに屍を増やしたら……あらゆる負の念を増やしたら、この山は、元の清浄なる地に戻れなくなってしまう! お前が、“慈鬼”でなくなってしまう! 本当の“悪鬼”になってしまう! それだけは駄目だ!!」
ただ必死に、焔獄鬼の怒りを鎮めようと、この地を何とか守ろうと、訴えてくれていた。
けれど。
「――人間達を許せ、と申すか」
けれど、怒りに取り憑かれ、本能に敗れた焔獄鬼に、聖の言葉は些かも響くことは、なかった。
「このような仕打ちをした人間共を許せと……ただやられるがままにしておれば良かったのだと、そう申すか!」
「焔獄鬼……っ!!」
この場を穢した人間達はただの一人として許してはおけない。
そして、逃がしはしない。
焔獄鬼は、感情と妖気の昂ぶりのままに、更に妖力を高めて――聖を、その剛腕で薙ぎ払った。
「がっ……!」
そうして焔獄鬼は、聖の後ろで蹲り、醜くも震え上がっていた人間の体を掴み上げる。
「ひぃいいぃぃいいぃいい!! や、やめて……っ、助けて……!!」
振り解くことなど出来よう筈もなく、それでも男は焔獄鬼の手の中で泣き喚きながら暴れる。
「――死ね、虫けらめ」
空気さえも凍らせる程の、冷たく重い声。
響いた、刹那。
「やめろおおぉおおぉおおっ!!」
悲鳴にも近い聖の叫び声と。
肉が弾け、血飛沫が不気味に舞う音が、同時に、響く。
咄嗟に伸ばした聖の手が、焔獄鬼に届くことはなく。
その瞬間、山に攻め入った命知らずの人間達の命は、一つ残らず、“最強の悪鬼”の餌食となった。
そうして彼の鬼は――友を敵と見做し、刃を、向けた。
許せないと、思った。思ってしまったのだ。
唯一無二の友だと思っていた男が、人間を庇い、人間を守ろうとして、自分にやめろと叫んだ、その事実が。
今では分かっている。彼のあの叫びは、人間を守ろうとしていた訳ではなく……友を、この山を、あの惨状の中に在って尚、必死に守ろうとしたが故であったのだと。
あの時、一瞬でも冷静さを取り戻せていたなら、まだ、そのことに気付く余裕があったかもしれない。
だが、怒りと本能に呑まれたその時の焔獄鬼には、もはや、聖への信頼など欠片も残ることはなく。
――もう一度、聖はやめろと言った。
聖と戦おうと構える焔獄鬼に、やめてくれ、と半ば懇願した。
お前と戦いたくない。戦う理由なんてないじゃないか、と。
でも焔獄鬼は聞く耳を持たなかった。
「妖の身でありながら人間に迎合し、人間の子を儲けた貴様に、我が怒りが分かるか!!」
振り下ろされた剛腕を、聖はついに刀を抜いて防いだ。
――人間が、燃えていく。
既に死んでいるものも、辛うじて息があったものも。
彼等が死の淵に抱えた怨念や無念、怒りや悲しみも。
全てが炎に包まれて、けれど、空の彼方へと蒸発されることもなく、消えることのない炎と共に大地に焦げ付く。
戦いは、三日三晩、続いた。
体のあちこちから血を流し、息は絶え絶えになり。
それでも聖は、持ち堪えていた。
それは、彼の実力が焔獄鬼と互角であったから、ではなかった。
最初こそ情け容赦ない重く激しい焔獄鬼の攻撃だったけれど、時間が経つごとに、日を追うごとに、その重さが、激しさが、徐々に弱まっているからだった。
そしてそれは、焔獄鬼自身も同じで。
友と刃を交える度、友が悲痛に自分の名を呼ぶ度、焔獄鬼の頭は少しずつ、靄が晴れて鮮明になっていった。
戦いの合間に、目に入る無数の屍。
仲間の妖は勿論、自分が殺した人間達、そして、何の罪もなく巻き込まれた動物達。
何故――こんなことになってしまったんだろう。
何故。
ただこの地で、ひっそりと生きていただけ、だったのに。
そう、悲嘆に暮れた、瞬間。
焔獄鬼が、戦いを、止めた。




