妖
これには流石に神楽も目を瞠り、息を呑んだ。
何が起こったのか、咄嗟に分からなかったけれど、見ると、今し方まで高笑いしていた筈の妖怪が、舌と両腕、更に尻尾を根元から切り落とされて地面に倒れ伏し、苦痛に呻いていた。
神楽は思わず信じられないものを見るような目で、地面に転がった妖怪を凝視する。
神楽の目でさえも、この刹那で何が起こったのか、見えなかった。
呆けている間に、神楽を貫いた妖怪の尻尾は、妖力を失い砂塵となって消えた。
無理矢理痛みを追い遣ったさっきとは、違う。
この時、神楽は本当に、痛みを忘れた。
「――大丈夫か!?」
掛けられた声に、目の前に庇うように立つ背に、状況の整理が追い付かない。
――否。
単に、ひょんな事から旅路を共にすることになった男が、無謀にも戦いに割って入って来ただけ、ならば。
神楽とて半ば混乱することはなかったかもしれない。
神楽を驚かせたのは、例の名無しの男が突然現れた事、ではなく。
妖怪の体を、切り裂いた、事。
もっと言うなら、その方法が――素手、であった事。
顔を半分だけ振り向かせて、男は神楽の様子を見遣って、苦し気に目を顰める。
美しい薄桃の着物が、真っ赤に染まっている。
額には冷や汗の珠が浮いていて、呼吸が少し浅い。
そんな彼女に、男は身の内から湧き上がる怒りを、抑え切れなかった。
未だ伏したまま、悶え苦しむ妖怪を敵意と殺意の籠った眼差しで見下ろして――両腕を、顔の前に構える。
正確には、鋭く尖らせた、両手の爪を。
それはさながら、一つ一つが刃のようだった。
親指から小指に至るまで、正確に、確実に急所を捕らえれば間違いなく命を奪える程の。
異形の者を一度でも見たことがある者ならば、彼の爪をこう例えただろう。
まるで妖怪か鬼の爪だ、と。
だがしかし、彼の指も爪も、先程までは確かに人間のものだった。
命を奪える程に尖ってもいなければ、禍々しくもなかった。
更に言うなら……見間違いでなければ今、彼の爪は、彼の意志で伸びたり尖ったりしたように、見えた。
「お前……」
硬い声で神楽が呟く。
だが、男はそれに答えることなく、妖怪へ向けて地面を蹴る。
「おのれ……! おのれぇええぇえ!!」
妖怪も男の追撃に気付き、怒号を上げながら再び尻尾を再生させる。
倒れたまま尻尾の刃を繰り出す妖怪だったが、男はそれを躱す素振りさえ見せず、足を止めない。
どころか。
「ぎゃああああああ!」
信じられない事に、男は正面から爪で尻尾を受け止め、そのまま尻尾を裂きながら速度を落とすことなく妖怪へ突進する。
耳を劈くような悲鳴が響く中、男はあっという間に妖怪との距離を詰める。
そうして、妖怪のすぐ側まで辿り着いた瞬間、男はもう片方の爪を突き出して、妖怪の首元辺りを貫いた。
更に、彼は尻尾を裂いた右手を振り被り、そちらは妖怪の腹部を貫く。
「――死ね」
低い呟きが、妖怪の、神楽の頭に直接届く。
ぞく、と背筋が凍るような、声だった。
思わず神楽が身を強張らせた、次の瞬間。
男は妖怪の体を押し開くように両腕を力任せに振るった。
容赦なく、無残に、両断され切り裂かれた蛇であり蜥蜴であった妖怪は、今度こそ、悲鳴を上げる間もなく、砂塵となって虚空へ消えた。
男が構えを解くと、両手の爪も元の人間と同じ形に戻った。
少し浅い呼吸が短い間隔で繰り返され、半ばぼんやりと地面を見つめる琥珀色の瞳は、敵が居なくなって尚、酷く冷たい。
「……おい」
そんな、触れたらあっさりと誰彼構わず命を奪いそうな背中に、神楽は静かに声を掛ける。
すると彼はびく、と肩を震わせて、弾かれたように神楽の方を振り向いた。
「っ、神楽」
焦ったような声で神楽の名を呼び、彼は慌てて神楽の側に駆け寄る。
未だ木の幹に寄り掛かったままの彼女を覗き込んで、男は明らかに狼狽えてみせた。
数秒前とはまるで別人のような、様子だった。
「大丈夫か……っ? すぐに手当てを……」
「……いい。問題ない」
「問題ない訳がなかろう……! 出血も酷いし……とにかく傷口を見せてみろ」
言いながら男は無遠慮に神楽に手を伸ばしたけれど。
その手は、神楽に掴まれて、阻まれた。
「おい……」
確かに、傷の手当ての為とは言え、男が女の着物に触れたりましてや開けさせようとするのは無礼千万だが、かといって放置するというのを見過ごす訳にもいかない。
そう思って他意はない事を説明しようと口を開いたが――
「手当ては、必要ない」
無機質な声音で言いながら、神楽は自分で着物を開いてみせたのである。
予想外の行動に、男は堪らず目を泳がせてしまったけれど。
「……っ、な……」
刹那。
目の前で起こった事に、半ば、絶句する。
――ともすると気絶か、最悪死に至っていてもおかしくない程の傷が。
あと僅かずれていたら危なかった傷が。
みるみるうちに、消えていく。
まるで――時間を、巻き戻すように。
「……か、ぐら……お前……」
神楽に掴まれたままの右手が、微かに、震えた。
それは、恐怖か、驚愕か、はたまた――今目にした光景を受け入れる事を、心が拒否しているのか。
掴まれていない方の手を伸ばす。
未だ露わにされたままの柔肌に向けて。
神楽は拒まなかった。
傷があった筈のそこに触れても、痛みに顔を歪めることも、無礼者、と罵ることも……羞恥に頬を染めることも。
「だから、言っただろう」
代わりに、彼女は言う。
何処までも静かに。
何処か、呆れたように。なのに、何処か諦観のようなものを、滲ませて。
「私を、その辺の女と一緒にするな、と」