罠
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「っ!!」
全身を駆け抜けた一瞬の悪寒。
思わず息を呑んで、空を振り仰ぐ。
雲一つなく晴れ渡る空。どんなに睨んでもそこに何かある訳ではなかった、が。
風に乗って、ほんの僅か、ほんの微か、漂って来る臭気。
血と――肉の、腐敗していく臭い。
同時に背筋が凍る感覚と共に理解した、人間の、死。
今、この瞬間。二つ、命が消えた。
それが――誰で、あるかも。
(馬鹿な……何故……)
父親の方はまだ容体が芳しくなく、診療所である仁兵衛の家に未だ寝たきりで、とても動ける状態でも、動かして良い状態でもなかった。
無論喋ることもあまりままならず、本人が外へ出たいと言ったとも考え難い。
一緒に死んだのは……息子の銀次。
彼が父を不憫に思う余り、無理に動かした?
しかし、それだけで死ぬようなことになったり、殺されなければならなくなるような事態になるだろうか。
否、それよりも何よりも。
神楽が今、一番驚き、戸惑い、微かな恐怖さえ覚えている事は。
消えた二つの命の側にもう一つ、消え掛かっている命がある、という事。
それもその気配は――他でもない、名無しの男のもの。
(何だ……一体、何が起こった……?)
全く予想だにしていなかった事態に、神楽は焦りを募らせる。
とにかく、状況を確認する必要があった。
神楽は何とか冷静さを取り戻して、名無しの男達の元へと急ぐべく、地を蹴り飛び上がろうとした――が。
「!」
刹那。周囲に膨れ上がった複数の殺意。
反射的に鉄扇を取り出し、臨戦態勢を取った、けれど。
瞬間、頭上から巨大な網が覆い被さって来た。
「っ、……」
よくある罠だった。
漁師が魚を獲る際に使うような網。
それを捕らえたい相手に覆い被せて身動きを封じる。
無論、そんな在り来たりな罠など、神楽にしてみれば子供騙し以下の稚拙なもの。
不意を突かれ若干驚きはしたが、神楽は鉄扇を取り落とすこともなく冷静に対処しようとする。
だが、人間達の攻撃はそれだけで終わってはいなかった。
網が投げ込まれ、神楽がほんの一瞬身動きを封じられた、その僅かな刹那、森から四人の僧侶が飛び出して来る。
『はぁ!!』
気迫の込もった声と共に、僧侶達は神楽を四方から取り囲むような位置まで全力で走り寄り、ほぼ同時に、手にしていた何かで網を固定するように突き立てる。
黄金色に鈍く光るそれは、独鈷。
何の真似かを問う声を上げる間もなく、僧侶達が一様に祝詞を唱え始めて。
その時、本能が警告を発した。
この罠からすぐに抜け出せ、と頭の中で誰かが叫ぶ。
だが……遅かった。
「ぐ……っ、う……!!」
四人の僧侶の良く通る声が、より一層高らかに最後の一音を奏でた時。
神楽の全身に痺れが奔る。
雷に打たれた時のような衝撃。
激しい痛みと痺れ、それに瞼の裏まで届く閃光。
神楽は溜まらず悲鳴を上げ、その場に座り込んだ。
恐らくこれは、妖を滅する為の術法。
もっと力の弱い妖であったなら、この一撃で既に塵になっていたところだろう。
痛みと痺れで上手く力が入らない。
不本意ながらも息も切れて、正直、迂闊だったと恥じるしかない。
とはいえ、抜け出せない程の術ではない。
並みの妖相手ならばかなり有効な術ではあるが、神楽には通用しない。
神楽は、全身に未だ残る痛みと痺れを無理矢理追い遣って、鉄扇に妖力を集中させる。
――だが。
「な……」
再び神楽は、思わず驚愕の声を上げた。
鉄扇に妖力を注ぐどころか――力を込めようとすればする程に、みるみるうちに力が抜けていく。
否、正確には。
独鈷に力を吸い取られている。
(っ、しまった……これは……)
思わず目を瞠った瞬間、僧侶達が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
この稚拙な罠も、術法も、神楽を捕らえる為だけのものだと思い込んで、甘く見た。
これは、捕縛の為の術じゃない。
今、この山全体に掛けられているものと同じ、封じ込めの術。
(……油断した……思いの外動揺が大きかったか……)
ぎり、と奥歯を噛み締める。
その時。森の奥から五人の兵士が姿を現した。
「――連れて行け」
「は!」
不敵な笑みを浮かべた真ん中の兵士が一声号令を下すと、他の四人が一斉に神楽に駆け寄る。
四人の僧侶達が独鈷を引き抜いたと同時に、そのまま彼女は兵士達によって網で簀巻きにされた。
独鈷が引き抜かれても、妖力封じの術は発動したまま。恐らくは網全体を媒介にしているのだろう。
抵抗する力さえ発揮出来ず、神楽は成す術なく小田原の城へと連行された。




