たったそれだけの理由
雲の流れが速い。
ついさっきまでは遠かった雷鳴が、もうすぐ側で聞こえる。
鬱蒼と木々が生い茂る森の中は、普段の穏やかな雰囲気と一変して暗く不気味で、心細い空気に包まれていた。
こんな中で五つの子供が一人取り残されているとあっては、取り乱して不用意な事故を引き寄せ兼ねない。
神楽は適当な場所に降り立って、妖力を集中させる。
人間の、それも小さな子供の気配というのは、大人に比べたら少々探し辛い。
悪天候下、更に妖が多く生存しているこんな場所では尚の事。
せめて雨が降り出す前に……妖狼達が勘違いをして喰ってしまう前に、見つけ出さなくては。
微かな焦りを覚えつつ、辺りを見回しながら慎重に歩を進め――
「神楽!」
少しして、頭上から名無しの男の声が響く。
「どうだ? いたか?」
「いや、まだ見付からぬ。どうも、子供の気配というのは小さ過ぎる」
「村の男達も探しているそうだが、ここまで見付からぬとなると、もしかすると崖下へ滑落した恐れもある」
そうなっていた場合、気絶していればこちらが如何に呼び掛けても返事は返って来ないし、最悪の場合、命を落としていたら――。
悪い条件が重なっているせいで、悪い可能性ばかりが頭にちらつく。
「私は焔獄鬼の洞窟の方へ向かう。お前は引き続き森の中を探せ。崖や斜面があれば、下まで下りてみて」
「承知した」
少々早口で神楽が言うと、名無しの男も頷き、それぞれがそれぞれの方角へ駆け出した。
雨が降り出したのは、そのすぐ後だった。
神楽達と村の男達が一旦帰還したのは、夕刻近くになってからだった。
状況は深刻だった。
豪雨のせいか呼び掛ける声は森の中に思う程響かず、返事があっていたのだとしても、同じ理由で上手く聞こえず。
名無しの男が急な斜面や崖下を見て回ったが、霞の姿はなく、これ以上何処を探せばいいのかと誰もが焦りと苛立ちに顔を歪めていた。
「やっぱり、鬼に喰われたんだ」
諦めるな、と声を掛け合う中、またしても権蔵が怒気を込めた声を上げた。
「こんだけ探してもいねえってことは、そうに決まってる。鬼じゃなきゃ違う妖だ」
「恐ろしや……やはり所詮、鬼は鬼ってことか……」
「やばいんじゃないか? そのうちこの村も襲われるんじゃあ……」
「おい、いい加減にしろよ! こんな時に、縁起でもねえ!」
善吉、林助と共に不安を煽る権蔵に、銀次が掴み掛って怒鳴る。
「じゃあ何で霞は見付からん!? 村の男総出で、しかも神楽様や名無し殿まで探したのに見付からんということは、そういうことじゃないのか!!」
「だからって……!」
「退け!」
完全に頭に血が上ったのか、権蔵は自身の胸倉を掴む銀次の手を乱暴に叩き落として、大股で神楽の元に歩み寄る。
殺気立った彼の目に、村人達は思わず息を呑む。
そうして、彼が神楽の眼前まで辿り着いた、刹那。
「!!」
権蔵は、持っていた木の棒で神楽を思い切り殴り付けた。
「化け物め! 全部お前のせいだ!!」
二撃目、三撃目と殴打は容赦なく続く。
神楽は片手で顔を防御こそしていたが、反撃したり止めさせようとはしなかった。
「お前さえ来なければ、鬼が目覚めることはなかったんだ! 死ね! 死んで償え!」
「っ、やめろ権さん!! 何て事すんだ!!」
慌てて銀次が止めに入るも、その銀次を林助と善吉が取り押さえた。
「鬼だの妖怪だのもううんざりだ! お前等皆死んでしまえ!!」
神楽は、目を閉じて痛みを耐える。
――幾度となく、聞いて来た言葉。幾度となく、受けて来た攻撃。
肉体的痛みはあっても、痛む心はとうにない。
それに神楽は、お前のせいだ、と言われて、否定する気にはなれなかった。
「やめて! 権さん!!」
琴や菖蒲の悲痛な声も響く。
そんなに騒ぐ必要などないのに、と、心の片隅で思う。
どんなに痛め付けられようと、殴られようと蹴られようと。
斬られようと焼かれようと。
どうなってもどうにもならない。
ただ、こうして、人間の感情の嵐が過ぎ去るのを待つだけだ。
――そうやっていつも通り、心を無にしてじっとしていた、けれど。
「……、?」
不意に、殴打の手が、止まった。
不思議に思って自身の顔面を庇っていた手を退けてみると――名無しの男が、神楽を背に守るように立っていて。
次の瞬間、彼の足元に、からん、と乾いた音と共に何かが落下する。
それは正に、今この瞬間まで、権蔵が神楽を殴打する為振り被っていた、棒切れだった。
「っ……、っ……」
この場の誰もが、息を呑み目を瞠り、辺りを包む冷たく鋭い殺気に身を竦ませる。
名無しの男は、爪で棒切れを両断し、すかさず、権蔵の首筋にその爪を突き出していた。
あと、ほんの僅か、彼がその指先を動かせば、権蔵の喉笛は掻き切られる。
理解せずにはいられなかった。
この権蔵が、名無しの男の逆鱗に、触れてしまったことを。
「貴様こそ――神楽を悪戯に傷付けた罪、自らの命で贖う覚悟は出来ておろうな?」
重厚な声。聞いたこともない程に冷酷な。
名無しの男が発した声だと、この場の誰もが一瞬分からなかった。
喉を震わせ、呼吸さえ上手く出来ず、慄く権蔵に対して、名無しの男は僅かに、爪を引き……
「止せ」
だが、名無しの男を制したのは、他ならぬ神楽だった。




