父の夢、父の理想
「何とかその妖怪を斃しはしたが……酷い手傷を負ったらしい」
聖はその時、半ば投げ遣りな気持ちでいたと言っていた。
人を喰えず、人の世で生きるなんて発想もなく、何だかもう、全てが面倒に思えて仕方なかったと。
このまま死ぬならそれでもいい。
妖として、自分はもう十分長く生きたし、別に死ぬことは怖くない。生きたいと願う気持ちも理由も特にない。
そうして、彼は、緩慢に訪れる死を、受け入れようとしていて。
「奴が神夜殿と出逢ったのは、その時であったそうだ。なかなか手強い奴を相手取っておった故、半分本来の姿に近しい見た目をしておったにも関わらず、神夜殿は、聖の手当をしてやった、と」
何故、と問うたのだという。
自分は妖怪なのに、と。もしかしたら次の瞬間、お前は俺に喰い殺されるかもしれないぞ、と。
だが神楽の母、神夜は言った。
『だって貴方は、悲しいくらい、泣きたくなるくらい、淋しそうな目を、しているから』
「――それが、奴がくだらぬ夢を抱くに至ったきっかけだ」
吐き捨てるように、焔獄鬼が締め括る。
「……――そうか」
神楽は、小さく、ほんの少しだけ切なげな吐息と共に呟いた。
くだらない、と終始馬鹿にする焔獄鬼の琥珀色の瞳が、何処か遠くを見ていることに気が付いて。
くだらないと吐き捨てながら、けれど、彼の鬼は心の何処かで、聖の理想を眩しく感じていたのではないだろうか。
「……その話は、今、初めて聞いた。正直、聞けるとは、思わなかった」
「お前が奴の話を聞きたいと言ったのだろう」
「そうだな……でも……父は、自分が如何な妖怪であったのか、何故、人として生きる道を選んだのかは、終ぞ、教えてはくれなかったから……」
知っていたのは、神夜と出逢って、人の世に紛れて人として生きるようになってからの事、だけ。
どんな妖怪なの、と訊いても、彼はいつも、ただ図体がでかいだけの犬妖怪だよ、と、見た目のことしか教えてはくれなかった。
「……くだらぬ理想と夢だと思うておったが、奴は、実現してみせた」
少しの沈黙の後、焔獄鬼は静かに言った。
「それが、貴様の産まれたあの小さな村だ。あそこの住人は皆、聖が妖である事を承知しておったのだろう?」
「……ああ」
「いつか日ノ本全てがそうなれば良い、と……馬鹿な事も申しておった」
神楽は、目を伏せて、俯いた。
小さくとも実現させた、理想と夢。
壮大過ぎる、馬鹿な夢。
――出来る訳がない、と、今の神楽は知っている。
あの村で、平穏に生きていた頃にその夢を聞いていたら、私も一緒にその夢を叶えたい、と、言っていたかもしれない。
神楽は、聖が大好きだったから。
敬愛し、尊敬する父の理想なら。夢ならば。
その先に、誰も殺し合わなくていい世界が待っているのなら。
「……ほんと、馬鹿ね、父様は……。そんな事……出来る訳、ないのに……」
俯いた先で。
神楽が震える声で言った。
いつかの、名無しの男の前で晒した姿と同じ、酷く、弱々しい姿。
――少し離れた場所で話を盗み聞きしていた名無しの男は、彼女のそんな姿を見て、考えるより先に、飛び出しそうになった、けれど。
「――お前が聖を殺した理由は、それか……」
焔獄鬼が、労わるように、言った瞬間。
神楽の瞳から、一粒、雫が、零れ落ちて。
その瞬間、名無しの男は、張り裂けそうな程の胸の痛みに襲われて。
暫く、その場から動けなくなった。
村へ帰る途中で、名無しの男が神楽を待っていた。
「……どうした」
口調はいつも通り。無機質な声で問えば、彼は静かに「迎えに来た」と言った。
「琴が、心配しておったぞ。お前が急に居なくなった故」
「そうか……」
小さく答えて、神楽は歩みを再開する。
抱えるように持った万草が、歩く度に上下に揺れる。
擦れ違う間際、神楽の目元がまだ少し赤いのを、名無しの男は見逃さなかった。
「――お前は」
鬼に見せていたあの表情と声、そして涙。
その全てが、彼の心を掻き乱す。
「お前は、何故、父上を殺さなくてはならなかったのだ」
幾度となく繰り返して来た問い。しかしほんの少しだけ、意図も含みも違う。
責めるつもりも、理由なき憎しみがぶり返した訳でもない。
ただ、思ってしまったのだ。
神楽のあの辛そうな姿を見て。今にも崩れ落ちてしまいそうな姿を見て。
父を殺したのは自分であり、自分のせいで父は死んだのだと、そう、悲し気に言った、彼女が。
愛していた筈の父を殺さなくてはいけなかった、その理由は何であったのか、と。
「聖の理想と夢故、とは、どういうことだ」
「……聞いていたのか」
「盗み聞きのような真似をしたことは詫びる。だが……」
拳を強く握る。
未だ二人は、互いに背を向けたままだった。
「だが……苦しいのだ。お前の、父殺しの真実が分からなくて、堪らなく、苦しい」
父は自分が殺した、と告げる度に見せる神楽の瞳が、堪らなく、苦しい。
だから。
「頼む。教えてくれ。何故お前は、父を……聖を殺さねばならなかったのだ……?」
私利私欲で親を殺した訳ではないのなら。どうか、教えて欲しい。
聖が死んだ理由、ではなく。
聖を殺さなくてはならなかった、理由を。
その苦しみの、理由を。
言い募るように言いながら、名無しの男は神楽の方を振り向く。
頼む、お願いだ、という気持ちを精一杯込めて、自分よりずっと小さな背中を見つめる。
――やがて、小さな溜息が、背中越しに聞こえた。
「……本当に、お前にとって父様は、一体どんな相手だったのだろうな」
微かに苦笑が混じった呟き。
やっぱりそれを思い出さない限り教える気はないのだろうか。
そう落胆し掛けた時。
「全て、私のせいだ」
悲し気に言いながら、神楽もゆっくりと、男の方を振り向いた。
「私が……父を、母を、そして故郷を、死に追い遣った」
それは――幾度となく繰り返して来た言葉と、一見、同じ、に聞こえた、けれど。
男は小さな違いと違和感に、捕らわれた。
「私の村が焼き払われた、という話は憶えているか?」
こくり、男は頷く。
初めて出逢った頃、鬼神村へと向かう道中で、男が世間話のつもりで振った話題。
その時彼女は言っていた。
故郷は、とうの昔に焼き払われた、と。
「戦で……」
その時の会話をなぞるように呟いた瞬間、唐突に、居心地の悪さを覚える。
「そう、戦には、違いなかった。少なくとも、人間達にとっては」
「……、どういう……」
どういう意味だ、という声が、喉元で掠れて上手く紡げなかった。
まさか、と、一瞬脳裏に浮かんだ答えを、彼は無意識に打ち消した。
「――人間側に立ってその戦を銘打つなら……“討伐”だ。人の姿で、人の世に紛れて生きていた悍ましき妖……聖と、それを匿い共生していた、悪しき人間達の」




