鬼からの呼び出し
例の鳥居の前に、焔獄鬼が鎮座していた。
「……来たか」
「洞窟から出たのか」
「ああ。外の方が呼吸がし易い」
鬼のくせに人間みたいな事を言う、と神楽は内心で思う。
「狼の長を遣いに出さずとも、用があるなら自分で出向いたらどうだ」
次に少々呆れたように神楽が言えば、焔獄鬼はやや黙り込んで、琥珀色の瞳を伏せながら言った。
「……我の姿が僅かでも見えれば、人間達は困惑するだろう。鬼神だ何だと我を散々都合良く持て囃しておったようだが、鬼は所詮、鬼以外には見えぬ」
そうして焔獄鬼は立ち上がり、神楽との距離を一歩分だけ詰めた。
「それに我は、お前にも人間にも、深く関わるつもりはない」
言って、焔獄鬼は神楽に向けて右手を差し出す。
その手は閉じられていて、神楽の眼前まで持ってきた時、そっと開かれた。
「これは……」
ごつごつした硬質な手の平の上に乗っていたのは、見た事のない草だった。
思わず神楽が戸惑いの声を上げて、焔獄鬼を見遣る。
「万草という。これを煎じて飲めば、病や怪我の回復を著しく早めることが出来る」
「……聞いたことのない草だ。お前の浄化された瘴気が育んだ特殊な草か?」
「特殊な草には違いないが、我が瘴気が育んだものではない。これは……昔、聖がこの地に植えた苗だ」
その言葉に、神楽は思わず息を呑む。
「我の守るこの地であれば、きっと希望の薬として育つであろう、と。尤も……百年前に半数が枯れてしまったが」
淡々と告げる声音に、ほんの僅か、ほんの微かな自責の色が混じっていた。
神楽は、かつて父がこの地に種を植えたという草と、感情の読めない焔獄鬼の顔を暫く交互に見遣ってから、彼の鬼の手の平に摘まれたそれを、そっと受け取った。
「言っておくがそれも所詮気休めだ。怪我はともかく、今病に冒されている者、特に重篤な者に使用して如何程の効果が得られるか、我にも分からぬ」
「それでも……助かる。礼を言う」
万草を大事に抱えて、神楽は口元に少し笑みを浮かべて、そう、焔獄鬼に礼を言った。
そんな彼女に、焔獄鬼は半ばぎょっとする。
こんな柔らかな表情をする彼女を、初めて見た。
この女は――こういう顔も、するのか。
「――用件はそれだけだ。さっさと立ち去れ」
内心の動揺を誤魔化すように、焔獄鬼は素っ気なく言いながら神楽に背を向けた。
「待て」
だが、神楽がそれを引き留めた。
「良い機会だ。少し……話をしないか?」
□□□
「……神楽が居なくなった?」
その頃、突然神楽が居なくなったことで、村はちょっとした騒ぎになっていた。
「は、はい。洗濯して来るって診療所を出たっきり……洗濯場を見に行ったら誰も居なくて……多分、洗ってる途中で居なくなったんだと思うんですけど……洗濯物が中途半端に散らばってましたから」
心配そうな顔でそう説明する琴に、名無しの男は不意に、森の方を見遣った。
村に居ないのなら森だろう、と思って、気を集中させてじっと森を見つめる。
自身の妖力がかなり高い方だと自覚してから、名無しの男はそれを使いこなす方法を少しずつ思い出していた。
今、彼は、神楽の妖気が何処にあるのかを探していた。
いきなり手の平を返して村を見限り、全力で何処かに姿を晦ませたのではないのなら、森の何処かに居るだろう。
そう思って注意深く探っていると、意外とすぐに見付けることが出来た、けれど。
側にもう一つ、嗅ぎ慣れた気配があるのにも気付く。
「……案ずるな。神楽は森に居る」
その気配が誰のものであるか、瞬時に悟った名無しの男は、微かに声音を低くして琴に言った。
「森に……? でもどうして……私達に一言もなく……」
「さあ、何か異変を察知したか、或いは……」
「異変、って」
不穏な一言に、琴が身を強張らせる。
森の中に居るのは、永く“最強の悪鬼”と言い伝えられていた鬼と、それを守る幾多の妖。
その異名が誤解であったことは彼女も知ってはいたが、相手が鬼という性質上、反射的に最悪の事態を想定しまったのだろう。
が、その心配は彼の次の言葉であっさり霧散する。
「心配するな。異変と言っても、あの鬼がどうこうという事ではないようだ」
笑みを浮かべて彼女を安心させるように言う名無しの男の目が、警戒しているというより不機嫌そうであることに気付いて。
「我がこれから迎えに行こう。すぐ戻る故、すまぬが奴がほっぽり出した洗濯を引き受けてくれぬか?」
「あ……はい」
彼の声が、何だか焦っているというより焦れていることに気付いて。
そうして琴は、半ばぽかんとした顔で、駆け出した名無しの男の背を見送った。
□□□
話をしないか、と言った割に、神楽は焔獄鬼の隣に座したまま、何も喋ろうとはしなかった。
焔獄鬼も彼女のいつもと違う雰囲気に動揺して、つい彼女を追い返すのを失念してしまったが、無理矢理追い返す必要もないし、取り敢えず黙って付き合うことにした。
森の中は静かだった。
焔獄鬼が封じられていた洞窟の入り口であるここも、最近まで生贄だ何だと陰鬱な場所であった筈なのに、今は穏やかな陽射しが降り注いで、心地良い。
「……おい」
何だこの、敵なのか味方なのかよく分からない間柄の女妖怪と、日向ぼっこに興じているというこの状況は。
そう思った焔獄鬼は、呆れた口調で声を上げた。




