少しずつ
――深夜。
慣れない作業に疲れ果てた村人達が、深い眠りに就いた頃。
神楽もまた、一人になった客間で就寝していた。
月のない闇だけが支配する新月の夜。
久し振りにまともな食事をした村人は、僅かな希望と幸福の中で、誰一人その不穏な気配に気付く事はない。
足音も、気配も、何もかもを消し去って。
彼は――つい一昨日まで使っていた部屋の前まで辿り着く。
障子を開けて、中に入り、後ろ手で障子を閉めて、眼下に横たわる、無防備な女の寝顔を、酷く冷めた目で見下ろした。
名無しの男は、一つ、深く深く息を吐き出して、右手を持ち上げ、爪を尖らせる。
どうしても……どうしても、彼は、感情を、抑え切れなかった。
――許せない。
そう、強く、思う。
聖を……殺した、この女妖怪が。
――許せない。
理由を問うても決して言おうとしないばかりか、お前には言う必要はない、と宣ったその傲慢さが。
でも――分からない。
どうして自分はこんなにも、怒りを抑えられないのか。
どうして自分はこんなにも、許せなくて苦しいのか。
怒りや苦しさは、憎悪へと変換されていく。
そしてその憎悪はきっと、この女妖怪を殺せば消えるんだろう。
怒りの理由が分からなくても、苦しさの意味が分からなくても。
終わらせてしまえば、それこそ、関係ない。
もううんざりだ。
この女に、振り回されるのは。
きっと、自分なら――彼女を、殺せる。
根拠のない確信だった。だが男は、そこにひと欠片の疑いさえ抱かなかった。
どっ、どっ、どっ、どっ、と、鼓膜が破れんばかりに一つ一つの鼓動が大きく、五月蝿い。
それを誤魔化すように、彼は今度は深く深く息を吸い込んで、止める。
そして。
「――……っ!!」
躊躇なく、一気に、爪を神楽の喉元目掛けて突き出した。
――……だが。
「……っ、……」
男の爪は、神楽の喉を、裂いては、いなかった。
あと、ほんの僅か。
あと、もう一押し。
たったそれだけで、彼は神楽の命を奪える。
怒りを、苦しみを、憎悪を、この胸から追い払うことが出来る筈、なのに。
「……、!」
手を、動かそうと力を込めようとする、のに。
――動かない。
まるで、見えない何かに阻まれているかのように。
……否。
彼の心が――神楽を殺す事を、拒絶、していた。
それは、命を救われた恩故か。
或いは、数日行動を共にした為に、気付かず心に生まれていた情故か。
殺したい。殺してやりたい。
殺さなくては、いけない、のに。
――出来ない。
殺せない……殺したく、ない。
――男は、爪を、人の形に戻した。
そうして、手を震わせたまま、引っ込める。
その時。
「っ、」
神楽が、静かに、目を、開けた。
男の気の乱れを感じ取って起きたのか。
否。
恐らく、最初から。
責めるでなく、怒るでなく、ましてや驚くでもなく。
ただじっと、真っ直ぐ男を見上げる神楽の瞳は、何故か、酷く、優しくて。
気が付いたら、男は、部屋から逃げるように立ち去っていた。
雨が降らないのに、村人達の表情はここ数日で随分明るくなった。
窮状は変わらない。
雨も降らなければ畑も枯れたまま、病の床に臥せっている者達の病状も変わらず、ただ、今日を生き延びられるかどうか不安を抱えながら生きる。
それでも彼等の表情が明るいのは、気持ちが前を向き始めているからなのだろう。
「今日から長老宅を診療所として開放する。重病の者は一番奥の仁兵衛殿の部屋に、比較的軽症の者は客間に。怪我人は他の空いている部屋に。男達は、病人の居た家を清掃し、女達は交代で診療所の応援を。診療所には私と琴が常駐し、常に彼等を看るようにします」
「へぇ……いいのかい、琴?」
「ええ。神楽様が、特に病状が酷い人達は隔離して看病した方がいいから、って」
「けど、それじゃあお前が感染しちまうんじゃ……」
「重病人の看病は私が行います。琴には、それ以外の患者を引き受けて頂きます。――私なら、感染しても平気ですから」
神楽の言葉に、村人達は複雑そうに目を伏せた。
今後の事を話し合おうと行われた会議の場。
集まった年若い村人達と、少し離れた場所に名無しの男。
窮状も変わらず、鬼も目覚め、結界は切れ、試練に次ぐ試練という他ない状況に在って、ここへ来て彼等の目は、生気に溢れていた。
「よし、じゃあ病人達を運ぶか!」
「待って」
少々暗くなった雰囲気を吹き飛ばすように、銀次が立ち上がりながら声を上げるも、神楽がすかさず片手を上げて引き留める。
「何だ?」
「貴方方は軽症の人達を運んで。重病人は私が運ぶ」
「……いや、しかしそれは……」
「気遣いは無用。もう分かっているだろう。それに、今ここで貴方方まで感染されるのは避けねばならない」
「……、」
「運ぶ時は念の為綺麗な布で口を覆い、終わったら念入りに手を洗え。本当は全身水浴びをして着物も替えた方が良いが、水を贅沢には出来ない。それから、病人達の家の清掃は、運んだ者とは違う者が行い、やはり終了後は念入りに手を洗え。良いな」
言って神楽も立ち上がり、歩き出す。
残った男達も互いに顔を見合わせて、誰が誰を運ぶか、誰が清掃に入るかを早々に話し合い、それぞれ散った。




