行き場のない殺意
人間達が立ち去って行った方をじっと見つめて、焔獄鬼は深く深く息を吐く。
自身にとっても無二の友であった男、聖の子。
聞いていた印象と随分違ったな、と内心で苦笑して、焔獄鬼はその場にゆっくり座り込んだ。
――百年。
あれからもう、そんなに経った。
なのにあの娘があの姿である、ということは。
そこまで考えて、再び溜息を一つ。
世の中はままならぬものだな、と、少しだけ遣る瀬無い気持ちになった。
「――目覚めたか」
ふと、そこで重厚な声が響く。
振り向いてみれば、妖狼の長がそこに立っていた。
「……久しいな、叢雨」
叢雨。それが、彼の狼の名前だった。
百年ぶりに聞いた己の名。自分に名前があったことさえ忘れかけていた叢雨は、何処か憮然とした様子で眉を顰めた。
「お前には、目覚める意志はないと思うておったが」
「なかったさ。目覚める気など、毛頭。だが……奴がそれを許さなんだ」
「……聖、か」
「ああ。そのくせ我より先に逝き、代わりに娘がここへ来た。しかもあの女、我には些かも興味はないそうだ」
「感心しておる場合か。恐らくあの女妖怪が喰った心の臓は……」
「……そうであろうな。臭いで分かった」
ふ、と、鬼が鼻で笑ったような気配がした。
「気を付けろよ、焔獄鬼。あの女は油断ならん」
「戦った経験者としての警告か?」
「違う」
くるり。叢雨が踵を返して歩き出す。
「あの女が、聖の血縁であるが故だ」
心底面白くなさそうな口調で、吐き捨てながら去る叢雨の背を見送って。
焔獄鬼はそっと、目を閉じた。
「あの、神楽様……一つ、訊いてもいいですか?」
夜明け前、村に戻る道すがら、不意に、菖蒲が神楽の背に問うた。
「何だ」
「……さっきは、色々あって混乱してたから気が付かなかったんですけど……聖様が鬼神様を封印したのって、百年くらい前、ですよね」
「それがどうした」
「神楽様は、見た感じ、私達と同じくらいの年頃、ですよね……貴方が本当に聖様の娘さんなら……その、色々おかしいっていうか……」
先程神楽を怒らせたことを気にしてか、菖蒲はいつもよりずっと控えめな口調で、言葉を選びながら言う。
隣で琴も「そういえば」というような顔で、神楽の背を見遣った。
彼女の言いたい事は何となく分かった。
つまり、百年前に“青年”だった聖の娘が、十七、八くらいの年頃の姿で目の前に居ることに、困惑しているのだ。
普通に考えたら、本当に神楽が聖の娘であるなら、とうに死んでいるか老婆である筈なのだから。
神楽もまた、ここへ来て、そういえば琴と菖蒲は神楽が妖なのだと知らなかったことを思い出し、小さく溜息を零した。
「別段おかしい事はない。私は、人間ではないから」
「え……っ?」
「私は人間ではなく、妖だ。人間と同じ寿命で生きてはいない」
他の妖の寿命と同じでもないけれど、と内心で付け加える。
すると琴と菖蒲は、半ば間の抜けたぽかんとした顔で呆然と神楽を見つめた。
「え……っと、私、割と真剣に訊いてるんですけど……?」
余程予想外の答えだったのだろう。
暫し呆けた後、漸く菖蒲が冗談を笑い飛ばすように言った言葉はそれだった。
「信じられぬのも無理はない。あのような姿ではな」
そんな菖蒲の言葉を何処か腹立たし気に一蹴したのは、名無しの男だった。
そうして足を一瞬止めて二人にも立ち止まるよう手で合図し、少し下がるように合図する。
神楽もそれに気付いて足を止め、三人の方を振り向いて――刹那。
名無しの男の殺気が膨れ上がる。
「っ――」
速い、と。
思わず目を瞠った時には、遅かった。
彼の鋭く尖った爪は、神楽の腹部を容赦なく突き刺し、貫通していた。
「きゃあぁあ!」
上がった悲鳴は琴と菖蒲のもの。
間違いなく即死であったろう傷を受けて、神楽は腹部からも喉の奥からも大量に血を吐き出し、男が腕を引き抜いた反動のままに傾倒する。
だが、その身が地面に倒れ込む寸前、名無しの男が神楽の体を抱き留めた。
男は琴と菖蒲に見えるように、神楽を自身の膝の上に横抱きにして支える。
腹部から、口から流れる血は止め処なく溢れ、地面を、男の着物を真っ赤に染めていく。
だが、やがて――その致命傷である筈の傷は。
時を巻き戻すように、みるみるうちに、消えた。
「……嘘……」
「傷が……消えた……?」
噴き出していた血もあっという間に止まり、浅く乱れた呼吸も、元に戻る。
こんな場面を見て、冗談はやめてなどと言える筈もなく。
琴と菖蒲は、唖然とするしかなかった。
「これで、納得したか?」
男が吐き捨てるように言うと、琴と菖蒲はこくこくと頷く。
すると男は、神楽を少々雑な手付きで立たせてやった。
「……警告のつもりか?」
そうして歩き出した直後、男と擦れ違う瞬間に一瞬立ち止まって、神楽が男の耳元で囁く。
「……違う」
爪を元の人の形に戻しながら、拳を握って男は絞り出すように答える。
「我は――お前を、殺したくない。だが……」
聖を殺したのは自分だ、と、神楽が鬼に告げたあの一瞬の出来事が、脳内に浮かぶ。
じわじわと競り上がって来る殺意に、吐き気がする。
殺してやりたい衝動と、殺したくないと怯える心がせめぎ合う。
本当に――腹が立つ。頭に来る。
この娘と居ると、こうして全てを掻き乱される。
「答えろ、神楽。何故、何故お前が聖を……」
悔し気に、半ば八つ当たりのように言う。
聖が死んだ事や、実の娘に殺された事にこんなに憤ってしまう理由も、分からない。
「……お前が父の何であったかが分からぬうちは、語るつもりも、必要もない」
分からなくて一番困惑しているのが誰かということなど、分かっている筈なのに。
神楽はそう吐き捨てて。
村への帰路をさっさと歩き出した。




