本当に守りたかったもの
今となっては全て
ただの残照
自らの姿を覆っていた全ての岩壁が崩れて、鬼が今、真の姿を晒す。
赤黒い巨体、硬質な肌、鋭く尖った角と牙、十の爪。
狭い洞窟内に木霊する重厚な音は、彼の鬼の呻きか、はたまたただの呼吸か。
今、この瞬間。
“最強の悪鬼”と言い伝えられた鬼の封印が、完全に解かれた。
「あ……」
名無しの男の傍らで、琴が腰を抜かす。
菖蒲もがたがたと震えて、嗚咽さえ漏らせぬまま涙を零す。
彼女達を支配するのは圧倒的な恐怖と、威圧感。
名無しの男とて何とか平静を保って立ってはいるけれど、今、一歩でも、僅かでも下手に動けば、瞬間、自身の命は潰える、と、本能が警告を鳴らしている。
恐らくは“死んだ”と認識することなく。
彫刻みたいな顔をただ眺めているだけの時とは違う。
この場の誰もがその圧倒的な存在感に中てられる中。
神楽だけは、毅然と、鬼と対峙し続けていた。
「……やはり、お前の封印も既に効力が消えていたか」
「………」
「だが……何故」
背後で、名無しの男が呆然と呟いた。
「そういう封印だったのだろう」
神楽は答える。男の方を振り向かず、鬼と対面したまま。
「焔獄鬼の瘴気が消えた頃、同時に焔獄鬼自身も眠りから覚めるように。そういう結界であり、封印だった。そうだな?」
「……ああ」
神楽の言葉に、焔獄鬼は少々投げ遣りな様子で答えた。
「そんな……そんなの、って……」
不意に、菖蒲が絶望と共に呟いた。
すると彼女は、震える体で、壊れた玩具のようにふらふらと焔獄鬼の方へ足を踏み出す。
「結界も、鬼神様の封印も解かれてたなんて……じゃあ、私達は一体……何の為に……」
涙でボロボロになった顔で、焔獄鬼を見上げながら、彼女は彼の鬼との距離を縮めていく。
「聖様の結界は、永遠に私達を守ってくれるものだって……鬼神様は、永遠に村を守り続けてくれる存在だって……そう、信じてたのに……」
それは――信じて縋っていた希望に打ち砕かれて、裏切られて、打ちひしがれた哀れな人間の姿だった。
「家族も、仲間も、それだけを信じながら死んでいったのに……っ」
神楽の側まで歩み寄った時、菖蒲はがくりと崩れ落ちた。
「どうして……!」
そんな彼女の姿を、神楽は何処か冷ややかに見つめた。
「どうしても何も、それはお前達が自身の無力と怠惰を誤魔化し、その責任を擦り付ける為に身勝手にこじつけた理想に過ぎないからだ」
そうして、神楽は更に冷たく言い放つ。
菖蒲は勿論、琴も、名無しの男でさえも、目を瞠って神楽を見遣る。
「父、聖の張った結界は確かに、この地を守るものであったのだろう。だが、“この地を守る”事が、即ち“人間を永劫守るもの”である、と、誰が言った」
「なに……それ……どういう……」
「父が焔獄鬼と戦った百年前、この地に人は住んでいなかった」
――瞬間。場の空気が、変わった。
「父がこの地に結界を張ったのは、鬼を永劫封印しておく為でも、この地を永遠に清浄なる場所として保ち続ける為でも、ましてや、人間達を守る為でもない」
名無しの男が、未だ突き刺さったままの刀に目をやった。
「結界を張り、瘴気を浄化し続けていたのは――他ならぬ焔獄鬼、お前の為だな」
「……まさか……聖、は……」
愕然とした様子で、名無しの男が呟く。
そんな彼の方を静かに振り向いて。
「ああ」
神楽は、淡々と答える。
「父は」
けれど瞳の奥に、何処か、切ない輝きを映して。
「父は――焔獄鬼の瘴気を全て浄化する為に彼の鬼を封印し、いつか元の“慈鬼”として目覚めることを願って、結界を張ったのだ。清しく優しい世界で、彼の鬼がまた、ありのままで生きられるように」
――琴も、菖蒲も、名無しの男も、もはや言葉を失った。
百年前に聖が張った結界は……焔獄鬼を守る為のものだった。
それは、つまり。
聖と焔獄鬼は、敵対関係にあった、訳ではなく。
「父が言っていた。焔獄鬼、お前は――無二の友であった、と」
――あまりにも。
あまりにも、衝撃的で、唐突で、俄かには信じ難い、話だった。
だが、この場に於いて一連の神楽の言葉を、「何の冗談だ」と笑い飛ばすことも、「ふざけるな」と怒鳴ることも出来る者など、在る訳もなく。
告げられた言葉は全て事実であり真実であるのだと、理解せずにはいられなかった。
「いつしか人間がこの地に住まうようになって、時が過ぎるに従い、父と焔獄鬼の言い伝えが人間に都合の良いように伝わったのだろう」
「そんなの……酷過ぎるわよ!」
絶望、という一言でさえ足りぬ程の激情が、琴と菖蒲の中に広がる。
その感情のままに、菖蒲は神楽に掴み掛った。




