鬼の真実
彼が何をしたのか。
神楽でさえ、正確に捉えることは出来なかった。
が、自身の状況は、一目で分かった。
「……っ、く」
締め上げられる首。皮膚に食い込む鋭い爪。自身を憎悪と殺意で染まった瞳で睨む、琥珀色の瞳。
容赦のない締め付けは、神楽の呼吸を奪う。
「か……神楽様!」
琴の悲痛な声が響く。咄嗟に駆け出しそうになった琴と菖蒲だったが、瞬間、名無しの男が彼女達の方を振り向いて、動けなくなる。
「――何故だ……」
骨が軋む音が、神楽と名無しの男の耳に届く。
どんどん込められる力。普通の人間であれば、既に気絶するか事切れる寸前だった。
「何故……何故、あの男を殺した! それも、実の娘であるお前が! 何故!!」
「……、っ」
「答えろ神楽!!」
神楽の首筋から、血が噴き出し始める。
首の骨を折られるのが先か、首を落とされるのが先か。はたまた、このまま窒息するのが先か。
――それで本当に死ぬかどうかは、分からないけれど。
痛みと苦しみのあまり閉じていた目を、何とか開けながら、神楽は他人事みたいに思う。
そうして、右手を懸命に持ち上げて――そっと、名無しの男の手と、重ねた。
無理に自分の首から彼の手を退かそうとするでなく、振り落とそうとするでもなく。
ただ、本当に、手に手を重ねただけ。
首を落とされる瀬戸際だというのに、抵抗らしい抵抗など一切せずに。
力を緩めぬまま、男は瞳を戸惑いに揺らす。
「――お前、こそ……何をそんなに……憤っている……?」
「……っ、!?」
何処か労わるように、言われて。
瞬間、名無しの男は一気に我に返る。
血の逆流音みたいな耳鳴りも、真っ赤に染まった目の前も、途端に、鎮まっていく。
そうしてやっと、自分が何をしているのかを理解出来て。彼は、震え出した体で、何とか、神楽から手を離した。
「……我……は……一体、何、を……」
譫言のように呟いて、酷く怯えた目で彼は自身の手の平を見遣る。
爪先に、手の平に、こびり付いた神楽の血。
震えていても鮮明に残る、神楽を締め上げた感覚。
恐怖、という一言で安易に片付けられない程に、男は自らの行いにただ戦慄した。
恐る恐る神楽の方を見る。首筋の傷はすぐに消えたけれど、締め上げた男の手の痕はくっきり残った。
「あ……」
とにかく詫びねば。
そう思って震える唇を開いたけれど。
男が声を発する前に、神楽はふい、と男から目を逸らして、彼に襲い掛かられた拍子に落としてしまった鉄扇を拾い上げる。
「殺したいのなら殺せ。お前が、我が不死の理すらも覆せる程の力を有しているのなら、言う程難しくはないだろう。だが、今は待て」
「……、っ」
神楽は何処までもいつも通りだった。
つい今し方まで自身を苦しめ、殺そうとしていた相手に、何の感情も示さず、何の反撃も仕返しをしようともせず、殺したいなら殺せ、とさえ宣う。
何処までも淡々と、いっそ寒気すら覚えるくらい無機質に。
男はもはや、愕然とした表情で神楽を見つめるしかなかった。
怒るでもなく、悲しむでもなく。ましてや、怯えるでもなく、彼を突き放すでもなく。
普通だったらこの状況、絶望して然るべきなのに。
彼女は――命の危機でさえ、どうでもいい、と言うのか。
「焔獄鬼」
神楽は、父親が封印した鬼の名を不意に呼ぶ。
「父、聖が張った結界は既に効力を失っている。そうだな」
琴と菖蒲が、背後で息を呑んだ。
「父が張った結界は、お前が封じられて尚も放たれ続ける瘴気を浄化し続け、その浄化された清浄なる気で以って、この地を、この地に生きる全ての命を守る為に張り巡らされたもの。お前の瘴気が強ければ強い程、それはより強く、より清しいものとなる」
鬼は応えない。
あちこちの岩壁に亀裂の走った体で、色も温度も宿さぬ冷たい岩の目で、それでも、じっと彼の鬼は神楽を見下ろし、言葉を聞いている。
「“鬼”であるなら、眠っていようとも瘴気は放出され続ける。死なない限り、妖から瘴気が消えることなど有り得ない」
名無しの男も、神楽の後ろで息を呑んだ。
彼には、神楽が何を言おうとしているのかが、分かったのだ。
「だというのに、お前の瘴気を浄化し続けることで維持されていた結界が、ここへ来て効力を失くした」
瘴気とは、妖が放つ気配であり、妖の生気とも言えるもの。
どんなに妖力の弱い小さな妖でも、“妖”という種族であるなら、如何なものでもその気配は纏われ、放たれ続ける。
死なない限りは尽きることはないし、妖で瘴気のない者など有り得ない。
それはつまり、人間で言うなら生気がないということであり、それが消えているということは、死んでいるも同然であるということに他ならない。
だが。
焔獄鬼は封じられているだけで、死んではいない。
にも関わらず、浄化する瘴気が放たれていない、ということは。
「……父の言っていた事は本当だった。焔獄鬼、お前は――そもそも瘴気を持たぬ、異端の“鬼”」
琴と菖蒲が、驚愕の余り目を丸くし、口元を手で覆う。
名無しの男が、目を瞠り言葉を失う。
「お前の本当の二つ名は――“最強の慈鬼”。守る為に最強の力を与えられ、守り続ける為に異形の姿でこの世に産み落とされた、異端にして異形の、慈しみの鬼」
神楽がそう締め括った時。
突然洞窟内の地面が揺れ始め、岩壁が大きく崩れ始めた。




