英雄の子
琴と菖蒲は、揃ってその場にへたり込み、まるで何かに押さえ付けられているような感覚に襲われて、頭も上げられなくなる。
そもそも漂っていた存在感に加え、突如満ち始めた重圧。
だが神楽は何とか踏み止まっていた。
両足をしっかり地面に踏ん張らせて、微かでも気を抜けば膝を着きそうになってしまうのを耐える。
やがて、狭い洞窟内に、腹の底まで響く呼吸音が響き渡る。
『――何者だ』
次いで聞こえた声は、三人の女の誰のものでもなかった。
鼓膜に、脳に直接叩き込まれているような、重く、冷たい声。
それが……未だ封じられたままである筈の焔獄鬼の声だと気付くのに、時間が掛かった。
『何故、貴様があの男の事を知っている。否……何故。何故、貴様からあの男と全く同じ匂いがする?』
――やはりな、と神楽は何処か冷めた気持ちで思う。
たった一言。
ともすると取るに足りない、躱そうと思えばいくらでも躱し続けていられただろうたった一言だったのに、この鬼は、いとも容易く狸寝入りを辞めた。
それが、神楽にとっては何よりの証明だった。
「……あの男が憎いか」
『問うておるのは我だ。答えろ、女。貴様は一体、何者だ』
そうして、神楽は、一度目を伏せて、帯に差していた鉄扇を取り出して、しっかりと焔獄鬼に見せるように掲げる。
焔獄鬼が、息を呑んだ、気配がした。
「この鉄扇は、聖より賜りし武具でありそして……私に遺された、たった一つの形見」
『……貴様……』
「分かるだろう、お前には。私は――お前を封印した男の、実の子だ」
……一瞬。琴と菖蒲は、体に圧し掛かる重圧を、忘れた。
「“最強の悪鬼”焔獄鬼。お前の事は、幼少の頃より父から幾度も聞かされた。父がその昔己の全ての力を懸けて封印し、流れ出る瘴気を浄化し続ける為に、自らの刀を術具として置いて来た、と。それから――お前と父が、本当は如何な間柄であったのかも」
『……、』
焔獄鬼は応えない。
未だ岩壁にしか見えぬ瞳にも、光も温度も宿っていないように見える。
『……聖は、どうした』
ややあって、焔獄鬼が問う。静かな口調でありながら、底冷えする程の冷たさを孕んで。
「死んだ。もう随分前に」
『……そうか。ならば質問を変える』
刹那。
ぴし、と。
ひび割れのような音が、僅かに響く。
『……聖を殺したのは、誰だ』
そのひび割れは、焔獄鬼が声を発するごとに広がっていくようで。
「――私だ」
ひび割れは一ヶ所に留まらず、あちこちで起き、広がり、小さな石ころを辺りに撒き散らし、落とす。
「私が……父を殺した」
焔獄鬼の体中にひび割れが広がる。
それがどういう事なのか、琴も菖蒲も理解しないではいられない。
――だが。
「――それは……本当、か……?」
突如。
この緊迫した空間に、とても不釣り合いな呆然とした声が、全員の耳に届く。
未だ僅かに地鳴りさえ残る中、神楽が思わず振り返った先には。
名無しの男が、体を震わせながら、佇んでいた。
耳鳴りが、酷い。
血が逆流でもしているのか。
体がどんどん熱くなって、目の前が赤く染まる。
一方で、心は今聞いた言葉を必死に否定していた。
そんな筈がない。そんな事、ある訳がない。そんな事が――あっていい筈がない。
神楽が――聖の子であったなんて。
その神楽が。父親を殺した、なんて。
「神楽……今お前が申した事は、本当、なのか……?」
弾け飛びそうな勢いで、心臓が大きく鼓動を刻む。
名無しの男の尋常でない狼狽ぶりに、その場の誰もが、いつの間にか激しいひび割れの音が消えていることに気が付いていない。
「お前が、実の父を殺した、などと……そのようなこと、ある訳がないだろう……?」
頼りなく、迷い子のような目で言い募る彼の声は、嘘でも偽りでもないのだということを分かっていて、それでも受け入れることを拒んでいるようだった。
神楽は、彼をじっと黙って見据えていたけれど、やがて、静かに口を開いて。
「嘘ではない。私は間違いなく、百年前、この“最強の悪鬼”との死闘を潜り抜け、彼の鬼をここに封印した男の実子。そしてその男、聖を殺したのは……娘である私だ」
そう、告げた。
あまりにも。
あまりにも淀みなく、迷いなく告げられた言葉に、男は目を瞠り呼吸さえ忘れる。
腹の底で、ぐるぐると気持ち悪いものが蠢く。
濁流に吞まれているみたいな耳鳴りの中、彼女の言葉だけが嫌に鮮明に木霊して、響く。
聖を、殺した。目の前のこの女が。実の子である筈の彼女が、実の親である筈の男を……殺した。
「――……、っ!!」
上がった声は慟哭か、悲鳴か、或いは、呻きか。
その声が名無しの男の腹の底から絞り出された声だと気が付く間もなかった。
男が突然消えた、と、三人の女達が狼狽えた、刹那。
男の手によって、神楽は岩壁に力の限り叩き付けられた。




