どうせ何も分からないくせに
急かすように男が琴の腕を取った瞬間、唐突に、菖蒲が声を荒げた。
「ここで私達が村に戻ったって、それで何になるの? 病や天候をどうにも出来ないって、そんなの私達や貴方達だって同じでしょ? 大体“無意味な希望”って何?」
「……、」
半ば涙ぐみながらそう訴える菖蒲に、男は返す言葉を見失う。
「無意味でも何でも、それで奇跡が起きるかもしれないなら、私達はそれに縋るしかないの。だって自分の産まれた村だよ? 親が居て兄妹が居て、友達も居るの。あのままなんて絶対嫌に決まってるじゃない。貴方はさっきから私達のやってる事も鬼神様の事も否定してるけど、そもそも一体貴方に何の権利があるの?」
「……それは……」
「何も知らない癖に。何も分からない癖に上から目線で勝手な事ばかり言わないでよ。私達だってどうしていいか分からないよ。でもじゃあ、貴方は村を救ってくれるの? 救う手立てがあるの?」
――それは、神楽も“出来ない”とはっきり名言していた事。
「都合が悪くなったら村から逃げ出せばいい余所者が……私達の事なんて心底救ってくれる気なんかない人が、勝手なことばっかして勝手な事ばかり言わないで」
そしてその怒りは……悲しい程に、正当な、もの。
男は胸の奥に激しい痛みを覚えながらも、何と言えばいいのか分からずに途方に暮れた。
神楽、なら。
こんな時、こんな風に言われて、どう言うのだろう。
どう言って、彼女達を連れ出してくれるのだろう。
分からない。
そもそも、自分が誰かすら分からない彼には、そんなことすら、分かる訳が、ない。
その、どうしようもない程悲しい事実に。男は思わず、掴んだ琴の手を、離してしまって。
――その、刹那。
「――……っ、あ……っ!!」
突如。鼓膜が破れる程の耳鳴りが、男を襲う。
思わず耳を塞いで蹲って……同時に、今度は頭の中に直接声が響く。
――去れ。
やけに鮮明に。やけに重く。
まるで、声がそのまま鈍器となり、一声ごとに殴り付けられているかのように。
――去れ。
「大丈夫ですか!?」
「ちょ……どうしたのよ!?」
急に苦しみ出した男に、琴と菖蒲は揃って狼狽える。
そんな二人の声さえも凶器のように響いて、男は益々呻く。
――去れ。
男はそれでも、必死に顔を上げる。
根拠はない。
けれど。
その声の主は……目の前で岩の中で眠っている筈の“鬼”である、と、確信があったから。
――去れ。
「……っ、何、故……我を、拒む……」
呻き声の合間に、懸命に顔岩に問う。
男はこの鬼の事は知らない。
その筈なのに。
「……お前……お前、は……我、の……何だ……」
――男自身、自分が何を言っているかを理解してはいなかった。
だがそれでも男は言い募る。
物言わぬ顔岩に向かって、痛みと苦しみを耐えながら、体を這わせて。
――去れ。貴様は……不要だ。
「え……?」
そうして、思いも掛けなかった言葉が不意に聞こえた、時。
その意味を考えようとする間もなく。
「なっ……!」
突然、衝撃が来た。
とんでもない力で体を弾き飛ばされて、焔獄鬼の間の外に一気に吹き飛ばされる。
名無しの男はもはや受け身さえ咄嗟に取ることが出来ずに、地面に叩き付けられたと同時に、気を失った。
□□□
意図せず唇から浅い呼吸が繰り返される。
一進一退の攻防戦は、不死なる体を持つ神楽にさえ、消耗を強いていた。
彼女の眼前には本来の姿となった狼の長、周りを固めるように十数匹の狼達、そして、木の上や辺りの闇に紛れて息を潜める夜鳥や蟲達。
山の戦闘力の全てを総動員して、焔獄鬼の洞窟に立ち入る神楽達を排除しようとしていた。
個々は決して大した戦力ではなく、神楽に掛かれば追い払うことくらい造作もないが、どういう訳か彼等は、一丸となって神楽に襲い掛かって来る。
次から次に、息吐く暇もなく繰り返されるあらゆる種族のあらゆる方面からの攻撃は、流石の神楽にも全て躱し切れず、大なり小なりの手傷を負っていく。
傷を負っても修復する暇さえ与えぬ勢いで、攻防が続く。
いくら神楽とて、傷が消えぬうちにまた傷が増えては対応が追い付かない。
結果神楽はじりじりと追い詰められていく形となり、今、彼女は自らが張った結界の前で、片膝を着いて息を上がらせていた。
これが人間が相手だったら。
傷付けても傷付けても埒が明かないこの状況に慄いて逃げて行ってくれるのだが。
「修復の間を与えるな!!」
号令と共に狼達が突撃して来る。
神楽は鉄扇を振り、衝撃波を放って防いだが、時間差で迫る狼と他の者達には対応が追い付かなかった。
「っ、!!」
ついに神楽の口から悲鳴が上がる。
両足を狼達に喰らい付かれて、完全に足を止められた。
絶好の好機。狼の長は一つ咆哮を上げると、神楽目掛けて一気に駆け出す。
が――その、刹那。
「!!」
長と神楽との間に、突如として竜巻の柱が立った。
次いで、神楽の両足に喰らい付いていた二匹の狼達が体を引き裂かれてその場に絶命する。
竜巻の衝撃波は地面を大きく抉り、狼の長は勿論、ここに居る全員の足並みを乱した。
「貴様は……っ!」
風が消えた時、地面の窪みの上に立つ人物に、狼の長は忌々しそうな声を上げた。
神楽以上に大きく呼吸を乱し、神楽以上に着物をボロボロにさせているその人物は、洞窟の中へと入った名無しの男だった。
「く……、」
狼や神楽が彼を認識したのとほぼ同時に、男は乱れた呼吸を整え切れない様子でその場にがっくりと膝を折った。
その隙に狼達が男に向けて飛び掛かる。
だが、それも男は自身の爪で薙ぎ払った。
「――動くな!!」
次の瞬間、弱り切っている様子からは凡そ想像も付かない程の大声で、男が叫ぶ。
「我は今、機嫌が悪い……」
次いで、腹の底から暗い感情と共に吐き出すように、告げる。
「死にたくなかったら去れ……僅かでも我に、この娘に近付くなら……」
狼達に向けられる琥珀色の瞳は、声音以上に昏く、背筋が凍る程鋭く、冷たく。
長以外の狼を始め、この場に集まった動物達もまた、その怜悧さに怯み、後退り始めた。
「――全員、殺す……」
静かな宣告は、彼の後ろに立つ神楽にでさえ、向けられているかのように聞こえた。
動物達の戦意は喪失し、狼達の敵意は削がれ、長は無意識に背を少々丸めて体を強張らせる。
男から発せられる言葉は、しかし決して、満身創痍故の脅しなどではないという事を、理解せずにはいられなかった。
彼がそう言うのなら。そう、宣言したのなら。
僅かでも、微かでも二人との距離を縮めた瞬間。
この場に居る者は、全滅する。
そう悟った時、狼の長はその身を元のただの狼の姿へと戻した。
「退け」
以前よりずっと鋭く、よく通る声でそう長が号令を下せば、狼を始め他の動物達も撤退していく。
辺りに充満していた敵意も殺意も全て波が引くように遠ざかり、消え去って。
敵が居なくなったと理解した瞬間、男はその場に倒れ込んだ。




