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幻葬 あやかし鬼奇譚  作者: 和菜
一章
2/61

何も無い男

 

闇の中で声を聞いた


目を開けた先に光はなかったけれど


聞こえた声もなかった

 

 誰かが、呼んでいる。


 そんな気がして、目を開けた。


 瞼がやけに重い。

 視界が暫く定まらなくて、無意識に何度も瞬きを繰り返す。


 “彼”が一番最初に認識出来たのは、建物の天井と思しき光景だった。薄明りの中で明暗分かれたへりが目に付き、そうして自分はそこに横たわっているのだという状況も本能的に理解する。


 横たわっているという状況が理解出来たら、自然と、その理由を頭が考え始める。


 ――かたん。


 だが、その答えを探るより先に、横で小さな物音が響いた。

 反射的にそちらの方に首を動かせば――こちらに背を向けている女の姿が目に入る。


「……誰、だ……」


 掠れた声で呟けば、その女は一瞬肩をぴくりと反応させて、振り向いた。


「――、」


 女の顔を目にした瞬間。

 思わず、目を瞠った。

 目を奪われる、とは、正にこの事だと、不覚にも切実な息を零してしまう程に。


「――気が付いたか」


 言葉は尊大、なれど、声音は高過ぎず低過ぎず。


 彼女の容姿を一言で表すならば、極上の女、という言葉が相応しい。


 対峙しただけで相手の身動きを止めてしまうような、そんな、美しさも愛らしさも全て飛び越えた存在に見えた。


「お前……は……?」


 堪らず見惚れる中、横たわった彼は誰何の声を上げる。


「――神楽(かぐら)


 女は答える。

 蝋燭一本という薄明りは、却って女の形のいい唇と輪郭を妖しく、されど綺麗に照らす。


「私の名は、神楽だ」

「かぐ、ら……」





 男は何処か覚束ない様子で身を起こした。

 未だ朦朧としているのか、ぼんやりとした瞳のまま、自分の膝元に視線が向いている。


 神楽と名乗った女は、そんな彼の目の前に湯気が立ち込める湯呑を差し出した。

 思わず神楽の方を振り向けば、「薬湯だ」と短く言われる。

 受け取って少しずつ喉に流し込めば、不思議と、気持ちも意識も徐々に晴れていくような気がした。


「……ここは何処だ? 我は一体……?」


「ただの山小屋だ。お前はこの先の山の中で倒れていた。死体であったなら荼毘に付そうかと思ったが、息があったのでここに運んだ」


「運んだ……? お前が、我を?」


「放置された方が良かったか?」


「あ……いや、そうではなく……そんな細腕で、大変であったろう。すまぬ」


「……そんな気遣いは無用。その辺の非力な女子(おなご)とは違う」


 神楽は吐き捨てるように言うと、男が飲み干した湯呑を受け取って、囲炉裏の側に寄った。

 下がっていた鍋の中身を手にした椀に移し、再び男に差し出す。


「食えるようなら食え。明らかに血と栄養が足りていない」


「ああ……すまぬ」


 男は神楽に言われるまま椀を受け取り、粥を少しずつ口に運ぶ。


「……美味い……それに、温かい」


「そうか」


 未だ体にも心中にも残っていた強張りが、粥の温かく優しい味に溶かされていくような心地だった。

 男はゆっくりと粥を味わい、やがて鍋の残りの分まで時間を掛けて食べ切った。

 思わず安堵と感嘆の息を深く吐いて、男は姿勢を正して神楽に深く頭を下げる。


「――改めて礼を言う。我が命を救って頂き、まことに忝い」


「礼などいい。それより、もう少し休んだ方がいい。大きな怪我もないし食欲もあるようだが、雪山で倒れていたという事は、そのようになるまで体力を消耗し、衰弱していたという事だ。下山して家に帰るまでの体力くらいは回復させておいた方がいい。雪山は只でさえ、ただ歩くのにも体力を使う」


「……家……?」


 男は何処か呆然とした様子で、神楽の言葉を反芻した。

 伏礼していた体をゆっくりと上げて、半ばぽかんとした表情で神楽を見つめている。


「何だ?」


「……我に、家が、あるのか……?」


 そうして男が呟いた言葉に、神楽は僅かに眉を顰める。

 何を頓珍漢な事を、と一笑に付すのは簡単だったが、男の琥珀色の瞳が酷く狼狽していて、明らかにかなり動揺しているのが分かった。


「……お前、名前は?」


「……名前?」


「お前の名前だ。何と言う? そもそも何故、雪山などで倒れていた?」


 もしや、と思いながら神楽が問えば、男は答えるべくすぐに口を開いて――けれど、音を生み出せなかった。


 名前。自分の、名前。

 自分という存在の証明。


「……、っ」


 ――男は目を瞠り、全身を震わせて己を抱き締めながら、半ば蹲った。


「分か……らぬ」


「……、」


「我は……誰だ……?」


 そうして、目の前に自分の両手を掲げて、愕然とした様子で呟いた。

 自分の名前が分からない。

 自分は誰なんだ、と。





 次に目覚めた時、天井はとても明るい陽光に照らされていた。

 夜が明けて、雪も止んだのだろう。


 それでも男の意識も心も暗いまま、彼は上体を起こした。

 小さな山小屋、側の囲炉裏、草と薬の匂いが包む狭い室内。昨夜、二度目の眠りに就く前の光景と同じ。


 そして、自分の名前や他の一切の事が思い出せない、という状況も、変わらなかった。


 何も……何も、思い出せない。


 自分の名前も、何故自分が昨日雪山に入ったのか、何故倒れていたのか、生まれ故郷も親兄弟の名前も、本当に一切、思い出せなかった。


 途方に暮れるとは正にこの事だ、と半ば投げ遣りな気持ちで思う。

 昨夜は半ば吹雪いていたというから、命が助かっただけでも幸運だったと思うべきなのだろうか。


 思わず溜息を零した時、ふと、神楽の事を思い出す。

 美し過ぎる、命の恩人は今この場に姿が見えない。


 素性の知れない男の面倒など御免だとばかりに、男が目覚める前に発ってしまったのだろうか、と不貞腐れた思考で思った矢先、小屋の戸が開かれて神楽が入って来た。


「起きていたか」


「あ、ああ」


 ちょっと無礼な事を思ってしまった。

 その後ろめたさと、そんな事をするような女ではないのだという事が分かって、男は内心胸を撫で下ろす。


 何となく「何処かに行っておったのか」と問えば、「山菜を採って来た」という答えが返って来る。


 男の葛藤と羞恥など知らず、神楽は昨夜と同じように囲炉裏から粥を掬って椀に移し、男に差し出す。

 男が起きる前に支度してあったらしい。


「それで、一晩経って何か思い出した事はあるか?」


 山菜入りの粥を二人で時間を掛けて食べ切った後、神楽は食器を片付けながらそう男に訊いた。

 男は布団の上に座したまま、力なく首を横に振る。


「そうか」


 短く返すと、神楽は小屋中に広げた薬草と、今朝採って来た山菜を手早く纏めて、使った小屋の道具もいそいそと片付ける。


「ぼんやりしていないで、動けそうなら支度をしろ」


 唐突に、神楽がそんな事を言う。


「支度……?」


「ここを出て、西にある集落を目指す」


「集落?」


「私は元々その村に行くつもりで山に入った。お前を拾ったのはその途中だ。この辺りには他に村もないし、恐らくお前も、その村の住人だろう。村に行けば、お前を知る誰かにも会える」


「……我の、村……」


「村までは連れて行ってやるから、後の事は自分でどうにかしろ」


 言って神楽は男を立たせて布団を畳む。

 まだ状況と気持ちの整理が付かない男は、ただ不安気な様子で神楽の言葉に黙って従うしかなかった。


 一通り片付けを終えると、神楽は荷物の中から羽織を取り出して、投げて寄越すように男に渡した。


「着ていろ。村に着く前にまた体を壊されては敵わぬ」


 言われて自分が襦袢のような薄い着物しか着ていない事に気付く。

 渡された羽織は明らかに女物だが、そこそこに質が良い生地で出来ており、暖かそうだ。


 やはりというかこの女、それこそその辺の村娘とは色々違うらしい。

 だが、そんなことよりも。


「いや、我は良い。お前が着てはどうだ? 寒いだろう」


「気遣いは無用、と言った筈だ」


 これ以上彼女に迷惑を掛けられないと思って上着を返そうとするも、神楽は素っ気なく言い放ってさっさと小屋を出て行ってしまう。


 開け放たれた戸から吹き込んで来る冷気はやはり凍える程で、堪らず男は渡された羽織を急いで肩に掛けた。


「……、」


 その時ふわりと鼻腔を擽った匂いに、男は無意識に目を細めて息を零す。


 香のように甘過ぎず、胸やけする程の不快さはなく、優しくも心地よい、香りだった。


 恐らくは、草と、花と、日の匂い。


 あの娘は一体、何者なのだろう。


 己の名前さえ分からない男は、自分を助けてくれた少女への興味で心が一杯になった。


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