鬼が眠る場所
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(何だ……この洞窟は……)
とんでもない吐き気と気持ち悪さを覚えて、名無しの男はふらりと体をぐらつかせた。
何とか壁に手をついて倒れ込むのだけは耐える。
気を抜けば意識を丸ごと持って行かれそうだった。
――言っても、この洞窟に何がある訳ではない。
一般的な洞窟と様子は微塵も変わらず、凸凹した岩壁と乾いた地面、生き物の気配もなく、空気さえ薄い、真の闇が何処までも続く空間。
少しでも気を乱せば、頭がおかしくなりそうな程の闇だった。
しかし、彼が今弱り果てているのは、この闇のせいではなかった。
この洞窟は――とにかく異様、だった。
(邪気もない、妖気もない。生気もなければ精気もない……そして、瘴気もない)
鬼の眠る洞窟でありながら、感じて然るべき気が一つも感じない。
なのに、酷く、気分が悪い。
(誰も居ない。何もない。が、この、いくつもの何かに纏わり付かれておるような感覚は……)
名無しの男を苦しめているのは、全身に圧し掛かり纏わり付く“存在感”だった。
まるで、何人もの人間に同時にしがみ付かれているようであり、地面から何かが這い出して足を絡めとられているようであり。
耳元ではずっと、正確に聞き取れない声が囁き続けている。
(これは……“念”か……)
それも恐らくは……怨念の類い。
この洞窟内には、死した者達の悲痛な無念と怨念がこびり付いている。
その“念”が、名無しの男を苛んでいるのだった。
恐らくは妖であろう自分が洞窟内に入れば、何かしらの影響があるとは思っていたが、流石にこれは予想外だった。
だが、怨念如きに足を取られている場合でもない。
「……、」
名無しの男は、ほんの数秒思案した後、右手の爪を僅かに尖らせた。
浅い呼吸が漏れて倒れ込みそうになる体を、壁に預けて大きく息を吸い、止める。
そうして――
「……っ!」
次の瞬間、尖らせた右手の爪で、左の肩口を思い切り突いた。
全身を襲う痛みに堪らず悲鳴が漏れそうになる。
だが彼はそれを唇を噛んで耐えて、肩から爪を引き抜くと、そのまま、壁伝いに歩き出す。
こんな所で立ち止まっている訳にはいかない。
何としてでも、贄として差し出された女達が消えた真相を突き止めなくては。
自身で傷付けた肩口を押さえながら、男は進む。
何とか目が慣れて来たとはいえ、やはりこうも何も見えなくては足取りも慎重になり過ぎてしまう。
二人目の生贄との距離は既に大きいし、そう長い時間神楽に外で狼達を足止めさせる訳にもいかない。
恨みがましい視線で洞窟の先を睨みながら、男は僅かに焦りを募らせる。
が、そこでふとある事を思い付いた。
未だ自身の血に塗れたままに右手を、そっと眼前に持ち上げて、一つ、大きく息を零す。
目を閉じ、全神経を手の平に集中させて、体に圧し掛かる重みも無理矢理忘れる。
そうして、じっと微動だにせず大きくゆっくり呼吸を繰り返して――やがて。
彼の手の平に、火の玉が突如として出現した。
その火の玉は小さく彼の手の上で静かに猛り、暗闇が支配する洞窟内を淡く照らす。
「……上手くいったか……」
道先を照らすように火の玉を翳しながら、男は安堵と共に呟いた。
彼が人間でなく妖であるのなら、こういった妖術を使えるのではないかと思い立っての試みだった。
ほんの少しだけ、自身が妖怪であるかもしれない事への戸惑いは燻ったままだったが、この際、それは一旦置いておくことにする。
男は今度こそ、淀みない足取りで歩みを再開する。
体に纏わり付く念の重みは変わらないが、明かりのお陰でその歩調は先程よりは速い。
痛みも相俟って呼吸は再び浅くなり始めたが、彼は歩調を緩めることなく歩き続けて、随分と奥まで進んだ時、洞窟が開けた。
男は、一瞬、怨念の重みも傷の痛みも忘れて目を瞠った。
光さえ射さぬ洞窟の最奥、その壁に、その“鬼”の姿はあった。
まるで、洞窟の壁に彫刻として彫られているかのような鬼の姿。
顔岩だけでなく、腕も足も胴も、一面が鬼の体だった。
見上げているだけなのに、瞳も牙も角でさえ、ただの岩にしか見えないのに、こうしてただ見ているだけで、確かな畏怖を覚え、存在感で圧倒させられる。
あれが――“最強の悪鬼”焔獄鬼。
百余年前、一人の人間によってここに封印された、この世で最も恐ろしく悍ましいと謳われた、最恐の鬼。
引けそうになる腰を励まして、男は注意深く辺りを見回す。
眠る鬼以外、これと言って何もないが……一つだけ、奇妙な物が地面に突き刺さっているのが見えた。
だだっ広い空間故に男の位置からはそれが何かは分からない。
少し迷った末、男は意を決して、それが何かを確かめるべく、鬼の眠るその場所に足を踏み出した。
火の玉を翳しながら慎重に進んでいくと、やがて少しずつその輪郭がはっきりしていく。
(……あれは……)
そうして側まで辿り着いた時、男は何故か、目を、釘付けにされた。
それは――刀、だった。
光のない場所に在って、目を奪われずにはいられない存在感を醸し出すその刀。
抜き身で地面に突き刺さっているのに、まるでその刀の周りだけ時が止まっているかのように刀身は美しく、腹の底が一瞬冷える程鋭く。
男は魅入られたかのように、刀から目が離せなくなる。
遂には手の平の火の玉さえ無意識に消し去って、引き寄せられるように、刀の柄へ手を伸ばし……
「――触っちゃ駄目です!」
「!!」
が、彼の指先が刀に触れる寸前、突然聞こえた女の声に、彼は我に返った。
息を呑んで振り向くと、そこに居たのは、最初の生贄として差し出された筈の琴と、つい先程この洞窟に誘い込まれた二人目の生贄の娘、菖蒲だった。




