誘いの音
蟲も、草木でさえも何かに怯えるように息を潜める、新月の夜。
その晩、神楽は鬼神の洞窟の側の森の中で、闇に紛れてひっそりと身を潜めていた。
彼女の目の前、洞窟の鳥居の前には、二人目の生贄を乗せた輿が置かれている。
二人目の生贄。彼女をここまで連れて来た村人達はとうに村へと戻り、不気味な闇の中に取り残されているのは、彼女と神楽だけとなった。
琴と同じように俯き加減で“その時”を待っている女を、神楽はじっと見つめる。
震えているのは、寒さのせいだけではないだろう。
こんな無意味な事を辞めさせる為にも、今夜は消えた生贄の真実を突き止める。
神楽はその為にここに留まっていたのだった。
時間は刻一刻と流れ、寒さも増し、風も強くなっていき、流石の神楽も冷えを感じて両腕を組んだ。
洞窟周辺は、何の動きも変化もない。
女も恐らく途方に暮れている頃だろう。
それくらい、体感的に長い時間が流れた。
何故、何も起こらない。
否。相手は未だ眠っているのだから、何も起こらないのが普通だ。
そうと分かっていたからこそ、神楽は最初から一貫して、“生贄など無意味だ”と言い続けていたのだ。
だが……神楽はどうしても、このまま何も起こらないで終わるとは、思えなかった。
いなくなった一人目の生贄も、恐らく、“ただいなくなった”訳ではないという絶対的な確信があった。
根拠のない確信ではあったが、絶対に無視してはいけない確信だと思った。
そしてそれは、得体のしれない悪い予感でもあった。
神楽は、二人目の生贄を遠くから見つめながら、指先で鉄扇の要をそっと撫でた。
その時。
――りぃぃ……ん……――
「っ!」
唐突に。
鈴の音が、辺り一帯に響き渡った。
堪らず息を呑み、神楽は反射的に鉄扇を取り出して臨戦態勢を取る。
生贄の娘にも聞こえたのだろう。
音が響いた瞬間、女も弾かれたように顔を上げて、恐怖と不安の表情で辺りをきょろきょろと見回す。
暫し何も起こらず、再び深淵の闇と不気味な無音の世界が辺りを支配する。
まさか幻聴だったのか、と意図せず思い始めた時。
突然、洞窟一体を、薄い霧が覆い始めた。
(あれは……)
神楽が思わず目を瞠った、刹那。
りぃぃ……ん
再び、鈴の音が響く。
幻聴でも聞き間違いでもなかった。
神楽は更に神経と警戒心を研ぎ澄まし、洞窟周辺のみならず、自身の周りや森全体の様子を窺う。
だが、それと同時にまたもや信じられない光景が目に入った。
生贄の女が、輿を下りて鳥居を潜ろうとし始めたのである。
その足取りは迷いなく、淀みなく、まるで、吸い寄せられるように。
洞窟の奥に真っ直ぐ向けられた瞳には、それまで感じていただろう恐怖の色も不安の色もなく。虚ろではない、代わりに、釘付けにされたように、ただ洞窟の奥を一心に見つめていて。
何が起こっているのか分からずに、思わず神楽が呆けて見つめる中、女は結界の張られた洞窟の中へと、吸い寄せられるように入って行った。
神楽はそれを見届けてすぐ、身を潜めていた雑木林から躍り出て、洞窟の前まで駆け寄る。
女を招き寄せたと同時に、妖気の霧もすっと消えた。
神楽は険しい目付きで、鳥居を、洞窟を半ば睨む。
今目の前で起こった事が、一人目の生贄、琴の消失の真相、なのだろう。
恐らく彼女も、何らかの力で洞窟内に引き寄せられた。
だが……この先に居る筈の鬼は、未だ眠っている筈なのに、何故。
悪い予感が、ここへ来てどんどん膨れ上がる。
この先の更なる真相を突き止めるには――やはり、この中に入ってみるしかない。
神楽は一つ大きく呼吸を零すと、鉄扇を強く握り直して、足を踏み出し――
「!!」
刹那。
膨れ上がった殺気に、神楽は考えるより先に飛び退いた。
既に囲まれていた。
初めてここを訪れた時に対峙した、妖狼の群れ。
向けられる殺気と敵意は以前のそれより遥かに鋭く、剥き出しの牙は遥かに悍ましく。
「また貴様か」
長と見られる狼が、神楽に向けて毒吐く。
「よもや、此度も生きて帰れるなどと思うてはおるまいな」
狼達は既に臨戦態勢だった。
長が号令を下せば、狼達は一斉に飛び掛かって来るだろう。
だが、あの時加減していたのは、何も彼等だけではない。
「……貴様の目は節穴か、狼の長よ」
「何……?」
「貴様こそ、あの時私が、貴様ら如き獣風情に、手も足も出せなんだと本気で思っている訳ではあるまいな」
「……、ほう……?」
あからさまな神楽の挑発に、しかし狼達の殺気はどんどん膨れ上がる。
神楽もまた、鉄扇を今度はしっかりと構えて――抑えていた敵意と妖気を、解放する。
「行くぞ狼の長。我が不死なる命、その牙で喰らい尽くせるものなら、存分にやってみるがいい」
「――ほざいたな小娘!!」
圧し掛かるような咆哮、それが、合図となった。




