縮まらない距離
やがて、神楽は手にした魚を食べ終えると、半ば放り遣るように羽織を男に返して、干していた着物に袖を通し始める。
「……一つ、訊いても良いか」
ふと、名無しの男が背中越しに神楽に問う。
「何だ?」
「――お前が心の臓を喰った相手というのは、如何な妖だ」
ぴたり、と。
神楽の動きが一瞬止まる。
神楽は顔だけ男の方を振り向いて、じっと彼の背中を見つめた。
「この世に“完全なる不死者”は存在しない。人は無論、動物も妖も、鬼でさえも。妖や鬼は人より遥かに長命だが、それでもいずれその身に終わりは来る。人であれば尚更、天より賜りし寿命に逆らうことは出来ぬ。その理に逆らい、人が“完全なる不死者”となる方法があるとすれば、ただ一つ」
そうして、男はゆっくりと、とても自然に、体ごと神楽の方を振り向く。
まだ肌襦袢しか纏っていない無防備な姿だったが、神楽は別段動揺もなく、怒ったりもしなかった。
「喰ったのであろう? “妖怪の心の臓”を。自らを“不老不死の妖”とする為に」
静かに、けれど何処か、遣る瀬無さを滲ませて。男は言う。
誰もが耳にしたことがありながら、しかし人の世の誰もが迷信と信じて疑わない、恐ろしい言い伝えを。
別段、隠していた訳ではない。
あれだけ何度も深手を負い、その度に傷が跡形もなく消えていく様を見せ付けられたのだ。
平穏に暮らしている人間ですら、神楽がそもそも人ではないことくらい気が付くことだろう。
ましてや、恐らくは人間ではないこの男、になら。
その答えに自然と辿り着くことは必定だった。
人の姿をした妖の心の臓を喰らうと、その身は不老不死の命を宿した絶大なる妖となる。
人間がやってはいけない、最大の禁忌。
そうでありながら、もはや人の世でそれを真実と信ずる者はなく、だが妖の世では今尚語り継がれる、恐ろしく悍ましい言い伝え。
神楽は正にその、言い伝えの体現者に他ならなかった。
「だが……何故、そのような真似を……」
男は言う。痛みを耐えるような眼差しで、神楽を見据えながら。
生き物の心の臓を喰う、なんて、考えただけでもぞっとする話だった。
ましてやそれが真っ当に暮らしている人間なら。
ましてやそれが、妖怪の心の臓であるなら。
男にはどうしても、神楽が自らの欲でそんな真似をするような女だとは思えなかった。
二人は暫し視線を交わし、短いような長いような沈黙が流れたが。
やがて、神楽は何処か突き放すような冷たい目をして。
「お前にそれを語る必要などない」
と言った。
先程と同じ、“必要ない”ことはやらない、という言葉そのままだった。
男に背を向け、着物を着付ける神楽に、男はそれ以上言い募る術を見い出せなかった。
まるで、ほんの数歩分の距離しかない筈の二人の間に、男にはどうしても破れない障壁があることを、突き付けられたような気がした。
二人はどちらからとなく下山を始め、やはりいつものように黙々と山道を歩いた。
先を歩く神楽の背を見つめながら、男はずっと胸に渦巻く遣る瀬無さを、どう処理すればいいのか考えあぐねていた。
そもそも何故、自分がこんなにも掻き乱されなければならないのだろう。
短い期間、男は自分でも到底理解出来ない自分の感情と行動に、ただただ動揺するしかなかった。
神楽は確かに命の恩人だけど、だからと言って何故こうも小さな事でも気に掛かってしまうのだろう。
彼女が傷を負えば、男の全身が途端に熱くなって、傷を負わせた相手が堪らなく憎くて、許せないと思ってしまう。
彼女が不意に淋しそうな目をすれば、彼の胸は途端に苦しくなって、そんな顔をするなと叫び出してしまいたくなる。
自分はそうやって、神楽の言動にいちいち揺り動かされているのに、神楽はいとも容易く、冷徹な程にあっさりと、男を躱して突き放す。
近付いたら、近付いたと気付かれたら、神楽は彼を冷たい眼差しで制する。
それが、何故か、どういう訳か、酷くもどかしく、遣る瀬無く、そして……苛々する。
――馬鹿馬鹿しい。
どうせ、神楽が目的を果たし終えて村を出て行く段になれば、道連れもそこまでなのに。
深入りするだけ時間の無駄だ。
ましてや、傲慢で恥知らずな戦い方をするような女妖怪なんか。
そう、思うのに。確かに、心の底から、そう、思うのに。
「……、」
人の気も知らないで、なんて気持ちを込めながら神楽の背を半ば睨む。
気付いているのかいないのか、勿論振り向きはしないけれど。
そうして黙々と歩いていたら、あっという間に村に帰り着いた。
ふと、神楽が足を止める。
朝は普段通りだった村の様子が、明らかに違っていた。
村人達は酷く狼狽した様子で一様に長老の家を目指して駆けていく。
「何か、あったのであろうか?」
男の呟きには答えず、神楽は再び歩き始める。
長老の家に辿り着くと、門前は既に村人達で半ばごった返してした。




