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幻葬 あやかし鬼奇譚  作者: 和菜
一章
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愚か者の戦い方

 

 正確には、踏み付けられなかった、というのが正しいだろう。


 長の脚が神楽を踏み付けるか否かという瞬間。神楽の姿が突然、忽然と消えたのだ。


 当然、長の脚は渇いた地面を悪戯に踏み付けただけで終わった。


 自分の身に何が起こったのか――思わず神楽が呆ける中、彼女の体は、それを逞しく優しく包み込む何かと共に、地面に降り立つ。


「――お前……」


 気が付けば、目の前にあったのは、名無しの男の顔だった。


 彼は神楽を抱え、半ばしっかりと抱き締めるようにして彼女を庇いつつ、右手の爪を構えている。


 それを見て、神楽は今何が起こったのか、彼が何をしたのかを理解した。


「何だ貴様は。その女の仲間か」


 神楽が名無しの男に何か言う前に、狼の長が一層冷たい声で彼を威嚇する。


 だが何故か、名無しの男は何も答えようとしなかった。

 爪を構え、神楽を抱き締め、狼の長を鋭い眼差しで見据え、そのまま、微動だにしない。


 その琥珀色の瞳は、これまで見た事もないくらいに冷たかった。


 殺気や闘志をも通り越して、ただただ、冷たく、鋭く。

 腕の中の神楽でさえも、背筋が凍るような心地を覚える程に。


 恐らく、長が僅かでも動いた瞬間、彼の狼の脚は……否、命そのものが狩り取られる。


 そんな、有り得ない想像をしてしまうくらいに。

 そう、有り得ない、と思う、のに。


 長も、狼達も、名無しの男の眼力に狼狽を隠し切れなかった。


「……退()け」


 やがて、長くも短くも感じられる膠着の後、微かな恐怖を滲ませた長の声が響き、四匹の狼達は散り散りにこの場から離れていく。


 仲間の狼達が遠ざかっていくのを見届けて、長も元の狼の姿に戻り、足早に二人に背を向け去って行った。





 森を少し行った先に、川が流れていた。


 神楽はそこで自らの血で汚れてしまった着物を洗う。


 名無しの男は側で火を起こし、釣った魚を焼く。

 これだけ見ると気楽な昼下がりだったが、二人の間に流れる空気は何処か気不味く微妙だった。


「……何か、言いたい事がありそうだな」


 不意に、神楽が背中越しに言ったのは、手近な岩に洗った着物を干して男の背後に背中合わせに座った時だった。


 投げ遣りなようでいて、面倒くさそうでいて、どうでも良さそうでいて、そんな、お世辞にも前向きとは言えない口調だった。


 何となくむっとしながら、男は羽織ったままだった神楽の羽織を、そっと彼女の肩に掛けて、「その前に火に当たれ」と不貞腐れたように言う。


 すぐさま神楽に背を向ける男に、神楽はやはり何の感情も読めない瞳を向けたけれど、やがて、一つ息を零して彼の隣に座り直した。


「何故、戦わなんだ」


 僅かに間を置いて、男が口火を切る。

 その口調は、神楽の平坦な口調と違い、怒りさえ滲んでいるように聞こえた。


「必要がなかったからだ」


「必要ない、だと?」


「私はただ、あの場所を見に行っただけで、何かするつもりも、何かに危害を加えるつもりもなかった。あの守り人達が私を警戒し、追い払おうとするのは至極当然の事。攻撃されて仕方ない事はあっても、反撃する正当な理由も必要性も、私にはない」


 何処までも淡々と、まるで絡繰り人形のようにそう告げる神楽に、男は胸の内が酷く気持ち悪くなっていった。


 神楽の言い分は、確かに間違っていないし、正しいのかもしれない、けれど。


「だからと、申して……敢えて血を流し痛みを受けて、何とするのだ……」


 もどかしいのか、遣る瀬無いのか、腹が立つのか。


 よく分からない。そもそも何故、自分は彼女に対してこんな気持ちになるのだろう。

 昨日会ったばかりの、通りすがりに一緒に居るだけの相手なのに。


「痛みなど一瞬だ。血が流れるのも」


「しかし……っ」


「お前には関わりのない事だ。たとえばそれで私が死んだとしても。お前のこれからの生涯には何の支障もないだろう」


 ――そうかもしれない。

 そうかも、しれない、けれど。


 そういう事じゃ、なくて。


「……っ」


 もっと何か言ってやりたいのに、何も言葉が浮かばずに、男は悔し気に唇を噛んで項垂れた。


 何故。どうして、この娘はこんなにも。


 自分が誰か分からないことより、これから先どうしていいのか分からないことより、酷く、悲しい。


(……何故、我が、悲しいと思うのだ……)


 その悲しさの意味さえも分からなくて、もう、男はひたすら途方に暮れるしかなかった。


「――お前が、気に病むことはない」


 不意に、神楽がとても優しい声音でそう言った。


 はっとして顔を上げれば、何処までも静かな表情の神楽の顔が、真っ直ぐ男に向けられていて。


「私は今までずっと、こうやって生きて来た。必要のない戦いはせず、相手の気の済むようにやらせて……面倒になって来たら、死んだふりでもしてやり過ごす。そうでなくとも、目の前で体が再生すれば、大抵の人間は引き下がる。それが私のやり方だ。痛みも流血も、事が済めば幻も同然となる」


「……、」


「妖を相手にした時は、そう簡単に済まない事もあるがな。私の不死の心臓を喰らわば、自らも不死となり、私の持つ力も全て移ると思って、是が非でも殺そうとして来られることもある。流石に、そうなったら私とて戦うが」


 言って、神楽は焚火の周りを囲うように地面に刺された魚を一匹、手に取った。


「食べていい?」


「、ああ」


 そうして、いただきます、と言って神楽は焼き魚を口にする。


 何だか突然口調が柔らかくて、男は先程感じた悲しさを一瞬忘れた。


「私が決めた戦い方だ。その場、その瞬間、戦うべきか戦わざるべきか、誰に刃を向けるか向けないか、そして……切っ先を翻すか翻さないか」


 それはつまり――必要とあれば如何な凶刃に晒されても決して刀は抜かないし、数秒前まで味方をしていた相手を、一瞬で裏切ることも辞さぬということ。


 無機質な……それでいて酷く冷めた諦観を滲ませた言葉に、男は返す言葉を見失う。


 何てふざけた戦い方だろう、と思う。戦士として、剣を握る者として恥ずべき戦い方と言ってもいい。


 なのに、どうしてか……そう、責める気にはどうしてもなれない。


 男は再び項垂れた。

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