多分私、婚約破棄される
目の前にある美味しそうな焼き菓子に手を付けようともせず、リュシー・クレイトン公爵令嬢は物憂くため息をついた。
「多分私、明日婚約破棄される」
「え」
垂れ目がちの大きな瞳と、絹糸のように細く艶やかなプラチナブロンドの髪。王国の花と謳われる美貌の公爵令嬢、リュシー・クレイトンは、この国の王太子、トロイ第一王子の婚約者だった。
「おっお前、今何て……」
彼女の衝撃発言を受け、ティーカップを持ったままぴたりと動きを止めたのは勇者エメである。
肩までの髪を無造作にひとつにまとめ、ノリや物腰からどこか軽薄な印象を与える彼はいわゆる今時の男前だったが、こう見えて国家認定のSランク勇者であり、細身の体は鍛え上げられていた。
二人は何故か幼馴染だった。
祝い事や行事にはマメなエメが、王立学院の卒業を明日に控えたリュシーを訪ね、気軽に「おめでと~」と言いにきたところ、冒頭の衝撃発言が飛び出したのだ。
いつものように、クレイトン公爵邸がまるで自宅であるかのようにくつろいでいたエメは、若干居住まいを正してリュシーに尋ねた。
「何でまたそんなことに」
「殿下の大事な方に、さまざまな嫌がらせをしてしまって」
「殿下の大事な方」
ええ、とリュシーは儚げに頷いた。
「アイリーン・プレスコットさん。平民の身分ながら、特待生として学院に入学してきた、とても優秀な方なの」
子犬のように愛くるしく、ちょっとドジっ子なアイリーンは、入学早々、パーティー会場で出された菓子を美味しそうにパクパク食べたり、何もないところでつるりと滑って豪快に転んだりして、「おもしれー女」が好きなトロイの心を鷲掴みにした。彼は婚約者であるリュシーを一顧だにしなくなり、暇さえあればアイリーンとイチャイチャしているという。
「ハァ……。婚約者がいるのに他の女にフラフラするような男も、婚約者がいるって分かってる男にすり寄っていく女もどうかと思うけど、お前も何でそんなことしちゃったんだよ」
「分からない……強制力……?」
「認めろよ、嫉妬でやりましたって」
リュシーはふっと寂しげに微笑み、窓の外に目をやった。
絶対に認めたくないらしい。
「まあ……いいけど……。それでお前、何やったの」
「えー……『紅蓮の不死鳥』を発動してアイリーンさんを炎で包んだり、『蒼海の神竜』を発動してアイリーンさんを水の中に沈めたり」
「ちょ、おまっ、相手の子、生きてんのか」
「当然でしょう。アイリーンさんは平民ながら、特待生として王立学院の魔術科に入学してきた方なのよ。これしきのことであなた」
「キリッとした顔で言うなや」
リュシーは端正な顔を苦しげに歪ませ、ぽつりと言った。
「だから……アイリーンさんの教科書をちょっと汚したり、アイリーンさんの制服をちょっと水浸しにしようと思ったら、ここまでしなくてはならなかった」
「そうか……。大変だったんだな……」
分かるよ、とエメは頷いた。
「でも、そのせいで私は殿下から完全に愛想を尽かされてしまって」
「おもしれー女なのにな」
ぽろり、とリュシーの綺麗な目から、耐えかねたように涙がこぼれた。
「――認めるわ。私、嫉妬していた。堅苦しいしきたりも、煩雑な礼儀作法もお構いなしで、自由奔放に振る舞うあの方に」
「リュシー……」
「それなのに、彼女はすべてを許されて。殿下からも愛されて。だから私……!」
エメは立ち上がり、椅子を引きずっていってリュシーの隣に座りなおした。
胸を貸すでもなく、肩を抱き寄せるでもなく、声を出さずに泣いているリュシーに寄り添うように、エメは黙ってリュシーの隣にいた。
「……明日の卒業パーティーで、私はアイリーンさんへの嫌がらせを告発され、殿下から婚約破棄を言い渡される」
「うん……」
鼻の頭を赤くしたリュシーが、エメの隣で淡雪のように微笑んだ。
「――受け入れるわ。罪を認め、国外追放でも修道院送りでも、殿下の決定に従う」
「まあ……国外だろうが修道院だろうが、お前を受け入れる側の方が罰を受けてる感じするけどな」
「じゃあどうしろと言うのよ」
涙の跡が残る目で、リュシーがエメを非難するように見上げた。
「リュシー……。いい機会だから言う。実は俺……お前の魔力のことが前から気になってて」
「えっ……」
リュシーの視線を痛いほど頬に感じながら、エメは勇気を振り絞った。
言うんだ、この機会を逃したら、俺はきっと一生言えない――。
「もし叶うなら、お前と一緒に魔物討伐してみたい、って夢みたいなことをずっと考えてた」
「エメ……」
エメは「ええい」と椅子を押しのけ、リュシーの前に跪いた。
「リュシー・クレイトン」
熱っぽく彼女の名を呼び、彼女の手を取る。
エメは長年の秘めたる思いを遂に打ち明けた。
「――お前も勇者にならないか」
その瞬間、どこからともなく風が吹き抜け、祝福するように二人を包んだ。
「私――」
「前から思ってた。お前は王太子妃なんかで終わる器じゃない、って」
甘く囁かれ、リュシーの心もくらくらと傾いた。
それも……いいかもしれない……。
体を動かしたり、魔法を使ったりするのは元々好きだし、贖罪として魔物討伐の旅に出ると言えば、王家も許可してくれるのではないか。
――この力が、誰かの役に立つのなら。
「……決まりだな」と、エメは満足げに笑った。
リュシーも花がほころぶように笑った。
イエ~イ、と幼馴染の二人は軽いノリで拳を合わせた。
じゃ、明日、迎えにいくからね~と手を振るエメを見送り、リュシーはその夜、久しぶりにぐっすりと眠った。
翌日、結論から言えばリュシーは婚約破棄されなかった。
アイリーンが土壇場で、トロイではなく宮廷魔術師を選んだからである。
「え、そっち……?」
「そっちって言うか、五股だったそうよ。近衛騎士とか、義兄とか、あら、あと誰だったかしら……ここまで出かかってるんだけど」
昨日までのイチャイチャは何だったのと言いたくなるほど、アイリーンはすっぱりとトロイを切った。
トロイは絶望のあまり闇落ちし、魔王となって西の荒野に現れた。
「王家の方々は魔力が強いから、まかり間違ってしまうとこんな悲劇が」
「対策しとこうよ! コレ防げただろ!」
リュシーは婚約破棄こそされなかったものの、王太子が人でないものに変態した為、婚約はなし崩しに解消となった。
早急なトロイ討伐が必要とされたが、かつて忠誠を誓った王太子を討つことに皆抵抗があるようで、積極的に名乗りを上げる者はいなかった。
そういうことに抵抗のないエメと、「もし良かったら引き受けてくれぬか。そなたならば家格的にも元婚約者という立場的にも、誰からも文句は出ぬだろう」と、王家より直々に打診されたリュシーが引き受けることになったのは、ある意味必然と言えた。
ひとつにまとめた長い髪を風になびかせ、美しい勇者は西の荒野を静かに見据えて言った。
「不思議ね……。何やかんやで私、断罪も婚約破棄もされなかったけど、結局はあなたとこうして魔王討伐の旅に出ている」
エメはふふんと笑って言った。
「認めろよ。お前の相方はつまり俺ってこと」
リュシーはふっと笑って目を逸らした。
「認めないんかい!」
俺たちの戦いはこれからだ!