38.あなたは誰?
視線。
最初はあまり気にならなかった。
でも次第に意識するようになって、少しずつ怖くなった。
朝も、昼も、夜もずっと。
誰かに見られているような気がする。
廊下を歩いていても、ついつい他人の視線が気になってしまう。
あの噂のせいだろうと理解していても、時折突き刺さるような鋭い視線を感じて、ふいに振り返ってしまう。
でも、ある日突然それはなくなった。
急に視線を感じなくなった。
私が慣れたのかと思ったけど、急に感じなくなったのは不自然だ。
噂もまだ続いている。
それでも、嫌な視線がなくなったのは嬉しかった。
これでやっと安心して仕事ができる。
と、思っていたのに……。
「……また」
感じる。
廊下を歩いている私を、誰かがギロっと見ている。
「大丈夫ですか? ママ」
「……うん」
ネロが心配そうに隣を歩く。
彼も一緒にいるのだから、変な心配はさせたくない。
私は気にしないことに努めた。
殿下も最近また忙しそうにしている。
相談したかったけど、余計な仕事を増やしたくないから我慢していた。
「体調が優れないならお休みしましょう。パパも心配します」
「ありがとう。でも大丈夫だよ。今日が終われば明日はお休みだし、しっかり眠れば元気になるから」
「ママ……じゃあボクが頑張ってお仕事を早く終わらせます!」
「ありがとう、ネロ」
そう、眠れば大丈夫。
以前も不安のまま眠り、朝に起きたら視線はなくなっていた。
理由はわからないけど、私はそれに期待する。
仕事が終わり、夜に眠る。
そして目覚める。
「……なくなってる?」
本当に視線がなくなっていた。
昨日は朝からずっと感じていたのに、それがすっぱりなくなっている。
この間と一緒だ。
でも、安心はできなかった。
数日後――
「……またなの?」
感じる。
鋭い視線……それもいろんな方向から。
視線の数が増えた?
それとも私が神経質になっているだけ?
もうわからない。
こんな経験初めてで、どう対処すればいいのか……。
「ねぇネロ、最近……誰かに見られてる感じがしない?」
「視線ですか? すみません、ボクの身体では視線を感じることができないんです」
「……そう」
「ママは感じるんですか?」
私はこくりと頷く。
研究室で仕事をしているとき、ふいに言葉が漏れてしまった。
ネロには心配をかけまいと、口にしないよう意識していたのに。
「きっとママが有名人だからですよ! リドリアさんも言っていたじゃないですか! ママはとってもすごい人だって。だから注目されているだけです!」
「……そう、かな」
「はい! きっとそのうちなくなりますよ」
「そうね」
話してしまったことは後悔したけど、彼に元気づけられたことは嬉しかった。
おかげで少し、気持ちが楽になったよ。
そうだ。
噂のせいで注目されているだけで、今だけだ。
鋭い視線も感じるだけで、何かされたりすることもない。
ここは王城だよ?
殿下もいるし、今はネロも一緒にいる。
不安に感じる必要なんてない。
そう自分に言い聞かせて、今日も私は仕事に打ち込む。
夜。
眠る前が一番落ち着かない。
静かなせいで余計に視線が気になる。
眠っている間に何かされるかもしれないと、不安に感じることもある。
「大丈夫ですよママ! ボクが一緒にいます。ママのことはボクが守りますから」
「ネロ……」
情けないな。
ネロにも気を使わせて。
もう、うじうじ悩んでいないで早く寝よう。
それから、一度殿下に相談しよう。
忙しい殿下に相談するのは申し訳ないけど、今のままが続くのも困る。
ネロに慰められても、気になって仕方がない。
このままじゃ仕事に集中できない。
「明日……」
起きたら殿下の元へ。
そう思って眠りにつく。
チクタク、チクタク……。
すぐに目が覚めてしまった。
時計の針は一時間しか進んでいない。
「……あれ?」
起きてすぐに気が付いた。
一緒に眠っていたはずのネロの姿がない。
「ネロ?」
部屋を見渡す。
どこにも姿はない。
よく見ると窓が開いていた。
寝る前はしっかり戸締りしたはずだ。
「まさかここから?」
一人で出ていったの?
私の言うことは守って、一人で出歩かないようにしていた彼が?
急に不安がこみ上げる。
一人になって、身体が震える。
気づけば私は部屋を出て、ネロを探しに外へと向かっていた。
窓の外は庭に続いている。
深夜の王城は薄暗く、廊下を走っても誰ともすれ違わない。
私は中庭にたどり着く。
「――まったく、困った奴らだな」
ネロの声。
やっぱり中庭にいたんだ。
木々の裏から覗き込む。
その光景を――
「え……?」
目を疑った。
そこに立っていたのは紛れもなくネロだ。
でも、普段と様子が違う。
何より驚いたのは、彼の前に倒れている男性だった。
「ぐっ……くそ」
「一体いつになったら諦めてくれるんだ? 何度撃退しても戻ってくる。その根性はどこから湧いてでる?」
「お前は……何者だ」
「それをお前に語るつもりはない。いいからさっさと……出ていけ」
ネロが男の額に触れると、男は一瞬にして消えた。
今のは間違いなく転移の魔法。
男をどこかに移動させた。
「どうしてネロが……」
魔法を使えるの?
そんな命令は付与していない。
そもそもゴーレムが魔法を使うなんて聞いたことがない。
ネロは小さくため息をこぼす。
彼の横顔には、少年のあどけなさがなくなっていた。
「……ん? なんだ、もう一人いたか」
気づかれた?
「追い返すだけでは不足か? あまりしつこいと、今度はその命を――!?」
「ネロ……?」
「お前は……」
目が合った。
やっぱり彼はネロだ。
でも、違う。
ネロだけど、私が知っている彼じゃない。
「……あなたは、誰なの?」






