2.婚約破棄、そして他人
「ど、どうして……ですか?」
私は震えながら尋ねた。
するとカイン様は小さくため息をこぼし、私から視線を外す。
彼が見ているのはテーブルに並んだ書類の山だ。
「理由はいくつかある。一つはこの、今の状況だ」
「今の……」
「君が宮廷に入ってから毎日、こんな遅い時間まで仕事をしている。最初は仕事熱心で素晴らしいと思っていた。が、最近気づかされた。単に仕事が遅く、怠けているだけなのだと」
「そ、そんなことありません!」
私は即座に否定した。
カイン様は勘違いされている。
私は今日まで一度もさぼったことはないし、手は抜いていない。
毎日まじめに働いている。
それでも終わらないのは、所長が無理な仕事量を私に押し付けるから。
「私はちゃんと休まず働いています。今日だって本当は――」
「もういい。言い訳しなくても」
冷たい声が耳に響く。
初めて聞く声に、背筋がぞっとする。
「カイン……様?」
「僕がなんの根拠もなくこんな話をすると思うかい? 先に所長に確認したんだ。君がここでまじめに働いているのか」
「所長に?」
「そうだ。答えを聞いて落胆したよ。まじめに働いていたと思っていたのは、僕の勘違いだったみたいだね」
所長がなんと答えたのか私は知らない。
それでも、いい返答をしなかったことくらいわかる。
あの人は、私のことが嫌いだから。
私の現状を作り上げたのは、まさにあの人だから。
「ち、違います! それは所長が――」
「嘘をついているとでも? 発言には気を付けたほうがいい。所長は宮廷魔導具師を束ねる方だ。つまり、この国でもっともすぐれた魔導具師ということ。君の発言と彼女の発言、どちらを信じると思う?」
「そ、それは……」
「所長からの話では、君は与えられた仕事を予定通り終わらせるので精一杯。いつも残業しているのも、効率が悪いからだ」
違う。
それも全部、無茶な量を……。
「確かに仕事量は他の魔導具師より多いと聞く。しかしそれも、君の能力を見込んでのもの。最年少宮廷魔導具師になった君なら、この程度の仕事はなんなくこなせると……が、期待外れだったと嘆いていたよ。本当に申し訳ない気分になった」
全部だ。
どれもこれも、すべて所長のいいように解釈してカイン様に伝えている。
ねじ曲がった事実を修正することは、私にはできない。
ここでいくら否定しても、カイン様は信じてくれないだろう。
婚約破棄を口にした時点で、カイン様は私を信じるつもりは一切ない。
だから私は……。
「申し訳ありません」
ただただ、謝るしかなかった。
自分が悪かったのか?
期待に応えられなかったことがダメだったのか?
いやがらせと期待の境界線はどこなんだろう。
私に対して行われていたことは、嫌がらせじゃなかったの?
私は……嫌だった。
それは思っちゃいけないことだったのかな。
「で、ですが、婚約の話は私たちだけの問題でありません。ロースター家とバルムスト家、双方の同意が必要です」
両家は古くから親交が深く、代々お互いに異性の跡取りが誕生した際、婚約者とする決まりがある。
より関係を深く、未来永劫共にあることを約束するために。
いわゆる政略結婚というやつだ。
それに、長女である私が選ばれた。
私たちの婚約は両家の伝統によって決められたもの。
それを一存で覆すことは難しい。
「心配はいらない。その点についてはすでに解決している」
「え、解決って……」
「僕は君ではなく、君の妹のアリアと改めて婚約することにした」
「アリアと?」
私より三つ歳の離れた妹、アリア。
彼女はちょうど今年成人する。
婚約者とするには、なんの問題もない相手ではあった。
「彼女はとても素敵な子だ。僕の前で、決して嘘をつかない。なんでも包み隠さず、真摯に答えてくれる。まだ垢抜けないところもあるが、そこも魅力的だ」
「カイン様は……アリアと親しかったのですか?」
「当然だろう? 君の妹だ。交流する機会はいくらでもあった。君は毎日宮廷にいたから知らなかっただろうけど、これまで何度も会っているよ」
「……」
言葉が出なかった。
まさか、こんなにも堂々と本人の目の前で、妹と浮気していたことを告白されるなんて。
私が必死に仕事をしている間に、二人が仲良くしていた。
想像すると……ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
だけど言葉には出せない。
出したところで意味はない。
「アリアは……なんと言っているんですか」
「もちろん彼女も了承済みだよ」
「そう……ですか」
もう、これ以上話すことはなさそうだ。
結論はとっくに出ている。
カイン様から言われるより先に、せめて自分から言おうと思う。
私は背筋を伸ばし、ゆっくりと頭を下げた。
「今までありがとうございました。カイン様」
「ああ、僕としても、いい経験にはなったよ」
こうして、私とカイン様は他人に戻った。
あっさりと、感慨深くもなく。
人と人との繋がりなんて、こうもあっさり切れてしまうんだと知った。