天内傑の消失
青白き顔の聖女は、静謐なる空気を纏いながら悠然と歩を進める。
彼女の手に握られし『均衡の聖杖』が、厳かに大地を打つたび、冷たい震動が世界を揺るがすかのようであった。まるで天秤が傾く音のように、運命が定められる瞬間のように——。
それは、あらゆる理を『平等』へと帰す。
神託を受けし者の『聖なる特権』。
そして今——。
万象を呑み尽くす大蛇が、虚無を孕むその口をゆっくりと開いた。
――― 現在時空 ―――
/小町視点/
「オーライ。オーライ。オーライ」
作業員の指示が響く。
誘導される大型シャベルが唸りを上げながら後退する。
新年を迎えた学園は、慌ただしさに包まれていた。至る所で『非常点検』が実施され、トラックやユンボが並木道に何台も停車している。
間もなく最上級生は卒業。
進路の決まった者、そうでない者。
期待に胸を膨らませる者と、神経質に眉をひそめる者。
それだけではない。
学園はオープンキャンパスを開いているのか、今年入学するであろう受験生の一団とすれ違う。未来に期待を膨らませた顔、不安な顔、物珍しさで辺りを見回す者。
そのすべてが交差し、学園は騒然としていた。
「アイツ……どこにいるの?」
人波を掻き分けながら、キョロキョロと周囲を見渡す。
だが――
「どこにも居ない」
胸の奥に焦りがこみ上げる。
あの馬鹿が、先輩が、本当に消息不明になった。
一昨日から連絡がつかない。昨日は例の写真を送りつけて脅してみたが、既読すらつかない。
―― 嫌な予感がする。
―― まさか、死……
「いやいやいや。それはない……」
アイツが死ぬのはありえない。
それに……
「本当に……?」
本当に終末が訪れるなんて、信じられない。
参考書を片手に顔を青ざめさせる者、部活に向かい、無邪気に笑う生徒。忙しそうに校内を走り回る生徒。
それは、いつもの日常。
立ち尽くした。
空は澄み渡り、海は深い青。
空気は清々しく、陽の光は優しい温もりを運ぶ。
土と花と木の香りが鼻腔をくすぐり、生命の息吹を感じる。
明日も明後日も、これが続くとしか思えない。
来季のドラマの予告も始まった。
話題の恋愛映画の番宣も流れている。
ニュースでは、休日に訪れたいスポット特集が組まれている。
誰もが、この世界が終わるなどとは考えていない。
私だってそうだ。
マリア先輩の言葉を思い出す。
彼女はあんなことを言っていたけれど。
信じたい。
けれど――信じられない。
天内傑は死なない。
私は何事もなく二年生になる。
彩羽先輩も、マリア先輩も、何事もなく三年生になる。
そして、日常は続いていく。
もうすぐ春だ。
マホロの地には、たくさんの桜の木がある。
今年の春は、みんなで花見をしよう。
私にも後輩が出来る。
きっと楽しいと思う。
そんな未来を思い描く。
すると――
「彩羽先輩!」
見知った背中に駆け寄る。
尊敬すべき先輩。
だが。
振り返った彼女は、冷たい目を向けてきた。
「ボク?」
違和感……
いつもの彩羽先輩なら、私の顔を見るだけで微笑むはず。
そして、何か言葉をかけてくれる。
けれど、今日の彼女は違う。
私を見ても、何の反応もない。
ただ、鋭い眼差しが私を刺すだけ。
「……なに?」
先輩の声音が、いつもより低い。
「……え、あの……」
一瞬、たじろぐ。
喉がゴクリと鳴る。
唇が乾くのを感じた。
機嫌が悪いのかもしれない。
いつもと違う彼女に怯みつつ、意を決した言葉を発した。
「アイツがまた消えました。どこに行ったか知ってますか?」
「なに? アイツ?」
「だから。アイツですよ。あの馬鹿で守銭奴な天内先輩のことです」
「……あのさ、唐突じゃない?」
威圧感があった。
今まで感じたことのない圧力。
いつもより目が据わっている彼女。
「……ど、どうしたんですか?」
「……君さ、随分馴れ馴れしいけど、誰?」
「は?」
脳が揺れる。
「突然声を掛けてきて、アイツを知りませんか? って、意味不明なんだけど。せめて主語を言いなよ。それに馴れ馴れしいし、失礼じゃない?」
な、なにを言ってるんだ?
「じょ、冗談はやめてくださいよ。なんか怒ってるんですか?」
「別に怒ってないよ。それに冗談って、なにさ?」
彼女の目は、まるで「本当に知らない人」を見るように冷たい。
「えっと……」
本能的に後ずさる。
「答えなよ。冗談ってなにさ?」
彼女の視線が、まるでナイフのように鋭い。
「い、いや……」
「からかってるの? もういいかな? つまらない人に割く時間なんてないんだよね」
誰だ?
この人は、本当に彩羽先輩なのか?
後輩思いの先輩ではない。
まるで、別人。
「い、いや――」
言葉を紡ぎかけた、その瞬間。
彼女はまるで私など眼中にないかのように、背を向けて歩き出した。
その背中に向かって、声をかけることを、私は躊躇った。




