万物を呑み込む蛇
/3人称視点/
天内は既に競技に参加していた。
その一方での話である。
大晦日の日―――
学園都市全域では、1日中、前触れもなく大規模な通信障害が発生した。
基地局から送られる電波は途切れ途切れとなり、デバイスは一斉に不具合を起こす。混乱の中で、何が起きているのかを理解できる者など一人もいなかった。
そんな中で。
雑踏に紛れるように、1人の女が歩いていた。
黒いドレスに身を包んだ姿は、人混みの中でも異様に浮いて見える。しかし、誰もその存在に気付かない。
否、気付けない――
彼女の纏う気配は、魔力の低い者にとって「存在しない」も同然だった。
女の瞳は虚ろで、どこにも焦点を合わせていない。その歩みは、ただ風に流される落ち葉のようで、周囲の喧騒を拒絶し、孤絶した雰囲気を漂わせていた。
彼女は――
喰っていた。
正確には、彼女の中に宿る獣が食事をしていた。
空気中に漂う魔力が、目に見えぬ形で黒いドレスの裾から伸びる影に吸い込まれていく。その影は歪み、蠢きながら貪欲に周囲を貪っていた。
電波も気配も、その獣の顎に飲み込まれていく。
『星喰いの竜』。
それが持つ力はたった一つ
地上に存在する万物を呑み込む力。
彼女は漂うように歩きながら、遂に出逢う。
その邂逅は偶然か、それとも宿命か。
雑踏の中で、ふたりの視線が交差する。
互いの間を人波が通り過ぎるにもかかわらず、その瞬間だけは周囲の音が遠のいたように感じられた。
「なぜ……ユラ。お前が……ここに居る?」
震える声を漏らしたのは、香乃。
驚愕に見開かれたその瞳が映すのは、かつての仲間、聖女ユラの面影。
「どうやって……この時代に。なぜ歳をとっていない?」
香乃は渇いた唇を震わせながら問い掛ける。
目の前の彼女の姿は、香乃の記憶の中にある若々しい肉体のまま。
だが、その眼が違った。
ユラの焦点の合わない目は、まるで感情を奪われたかのような眼。顔面は白昼夢に彷徨う者のように蒼白であった。
それがより一層不気味なモノにさせていた。
「ユラ、何が――」
香乃の声が途切れる。
次の瞬間、ユラはゆっくりと口角を上げた。
その表情に宿るのは、記憶の中の慈愛ではなく、冷たく鋭い嘲笑だった。
「フフ……フハッ」
ユラは目線のピントを香乃に合わせる。
香乃の記憶にあるものとは明らかに違う表情と目の輝き。
「な……んとか言ったらどうだ?」
香乃はゴクリを喉を鳴らし、なんとか言葉を紡いだ。
人込みの雑踏がお互いの間を駆け抜ける。
「……どちら様かしら?」
ユラは冷淡に呟いた。
無関心で切り捨てるような、その声は聞き慣れた仲間のものではなかった。
香乃の額を冷や汗が伝う。
「その気配、魔力、姿、髪飾り……」
彼女は、かつての仲間の姿を見紛うはずもなかった。
ユラは、目線を泳がせ、しばし考え込むと。
自身の胸元の衣服を乱暴に掴んだ。
「……お前、この身体の女を知っているのか?」
女の声とは思えぬ低く響く声。
そこには、何かが滲んでいた。
憎悪か、侮蔑か、あるいは――。
「身体だと?」
「……ククク」
香乃の質問には答えず。
冷笑するような邪悪な笑み。
その笑い声は異形そのもの。
香乃は咄嗟に後ずさると、腰に掛けられた鉄剣の柄に手を掛ける。
「いいだろう。例え、かつての仲間の姿をしていようとも……」
一瞬―――
ユラとの冒険の記憶が脳裏によぎる。
頭を振った。
「お前は違う……貴様はユラではない。そうだろう?」
小さく呟き、覚悟を決めた。
伝説的勇者である香乃の直感と判断力が。
瞬時にそうさせた。
目の前の異形が危険な存在だと。
「答えぬならば―――」
ここで斬る、と。
香乃が、宣言するよりも先に。
ユラが口を開いた。
「止めておいた方がよろしくてよ。有象無象の命が散る事になる」
ユラの周囲で、突如異変が起きる。
二人組の男女が―――
ユラの横を―――
通り過ぎようと―――
それは刹那の速さ。
今までユラの傍に居た男女が神隠しにあったように消える。
「ッ!?」
香乃の動体視力は捉えていた。
彼女が捉えた光景。
落とし穴に落ちるように、ユラの足元に蠢く異形の影が人を丸呑みにしたのだ。
それはほんの一瞬の出来事。
周囲を意識していない一般人には視えていなかったようであった。
「なにを……した?」
香乃の手元の剣が震える。
彼女の問いに、ユラは答えない。
お互いの間に長い沈黙が流れる。
ユラは、クチャクチャと咀嚼音を鳴らし始め、目尻と口角を吊り上げた。
香乃の眼に映るのは生前のユラと思えぬ表情と態度。
慈愛に満ちた笑みではなく。
侮蔑と冷笑、嘲笑の混じった笑み。
「……っペ」
ユラは咀嚼を終えると―――
口から何かを手元に吐き出す。
彼女は、ゆっくり振りかぶると、吐き出した何かを香乃に投げつけた。
「ッ!?」
パシっと――
乾いた音を鳴らし受け止める香乃。
手の平をゆっくりと広げると、顔を歪ませた。
そこにあったのは―――
人の目玉。
「……ど、どういうつもりだ」
香乃は動揺した。
この時代ではあり得ぬ仲間の面影。
日常の中の非日常。
瞬時に奪われた命の灯。
手元に握られた目玉。
ユラから放たれる圧倒的なまでプレッシャー。
彼女が浮かべる不気味な笑み。
それらがない交ぜになり、彼女を混乱させていた。
ユラはそんな動揺を見透かすかのように。
「今すぐに殺し合いをしても、お互い良い結果は得られませんわ」
「逃がす……とでも」
ユラは冷徹な目線を周囲の家族に動かす。
「よろしいので?」
「脅しのつもりか?」
「……自惚れるなよ。貴様に選択権などない」
ユラの声音が女とは思えぬ低い声音になる。
「……」
香乃は、一瞬たじろいだが、冷静さを取り戻そうと周囲を観察した。
(ここで動けば、間違いなく多くの死者が出る……アイツの魔力の揺らぎは、ユラのものとそっくりだ。万が一……ユラと同様の高度な治癒魔法が使えたら? 戦闘は確実に長引く……どうする?)
ユラは再び高い声に戻ると。
「深淵を開くのは、本日ではないのです。今宵のショーは中止になっておりますもの。それではご機嫌よう。来たる『終わりの日』に……貴方が相手になるのか、それとも別の誰かか、非常に楽しみですわ」
その言葉に込められたのは、警告とも宣戦布告とも取れる意味だった。
ユラの背中が遠ざかっていく。
数え切れぬ群衆を人質に取られた香乃は、しばらく身動きが取れなくなると。
「……ッ」
歯痒い気持ちでその背中を見送った。
雑踏の中、ただひとり立ち尽くす。
彼女の胸を締めつける疑念と恐怖が渦巻いた。
そして―――
かつての仲間の姿をした異形との戦いが避けられないと悟った。
香乃の覚悟が静かに固まり始めた。




