寸話 『狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である』
/3人称視点/
--- 海洋国家アトランティス:ピストラーグ遊歩道 ---
口笛を吹きながら1人の男が雑踏の中を歩いていた。
「無秩序だ。法則性がない。吐き気を催す邪悪ではないか」
男は嘆いた。
目に映るのは色とりどりの世界。
笑顔を浮かべる人々。
異なる価値観に、異なる出で立ち。無造作に並ぶ露店の数々。
均一でない建造物が乱立していた。
法則性を見出す事ができない。
人々は自由気ままに振舞っていた。
自由にこの星を作り変えていた。
まるでこの世界の支配者であるかのような振る舞い。
それを見て心底吐き気がした。
勘違いも甚だしいと。
男は人々の心を見透かした。
その特別な力を使い、人の心を読んだ。
仲良く笑い合う者の内心は汚物にまみれていた。
仲良く談笑しているにも関わらず、心の内は嫉妬し、憎み合う。
「そんなに死んでほしいなら、今すぐ殺せばいいじゃないか」
不思議でたまらなかった。
「嫌ならやめればいい。邪魔なら殺せばいい。そんなに犯したいなら犯せばいい。暴れたいなら暴れればいい。なぜしない? なぜ嘘を吐く? 虚勢を張るほど長生き出来んくせに。人間はおかしな生き物だ」
偽りの感情を表出した仮面を被る悍ましき人間共。
「仲良しこよしを死ぬまで演じるつもりか? この汚物共は。
全く合理的ではない。論理性が見られない。
オレが秩序を作らねばならない……か。
同じ価値観、同じ理性、異物のない世界。綺麗な世界を。いや、そもそも人間が異物か」
クククと嘲った。
「では、手始めに」
口笛の男は口ひげを蓄えた小料理屋の露店商の男の肩を叩いた。
「なんだ? 兄ちゃん。なんか食うのか? 随分元気がなさそうだが」
眼が妖しく光ると。
「ケダモノよ。お前は今から理性のみに準じて生きろ」
力の戻っていない男の一言であった。
人格、記憶、感情、欲望、願い、矜持……精神。
人間の持つありとあらゆる記憶の形。
魂の輪郭とでも言えるモノを自在に操る権能。
自我と感情を持たせながら、人を合理的な機械のような存在に変える恐るべき権能。
「お前は今解き放たれた。自由になった。好きに生きろ。理性に準じて生きる事を許す。このオレの名の下において」
一言そう告げると、口笛を吹きながら男はその場を去った。
しばらく歩き、その場から十分な距離が出来た。
そんな時だった。
断末魔の叫びが響き渡った。
「おい! カメラ回せ、おっさんが人刺してるぞ」
「そんな事してる場合じゃないだろ! 誰か呼んで来い!」
口笛を吹く男の進行方向とは逆に多くの人々が走っていく。
幾人かと肩がぶつかると、ぶつかった人々はゆっくりと走りを緩めた。
「なに……してんだお前……」
絶句する男の言葉。
力の戻らぬ男は、そんな絶句する男の言葉を無視し、凄惨な殺戮現場を一目見ようと集まった野次馬共を触っていく。
ガラスの割れる音がすると、それが合図かのように悲鳴が木霊した。
絹を裂くような高い声で助けを呼び人々。
お互いに胸ぐらを掴み殴り合う人々。
1人の女に群がる男共。
刃物で人々を次々と刺す者。
赤ん坊に齧りつく者。
殺し、犯し、暴れ、食す。
先程までの平穏な日常はたった1人の男によって変貌した。
男は演劇を見る観客かのように、テラスにあった木製の椅子に腰かけ足を組んだ。
自分の力を確かめるように、握り拳をつくり、力を抜いて手の平を見せる。
そんな挙動を何度か繰り返し。
「まだ、この程度か。少し眠る必要があるか……終末に向けて。
だがその前に。この演目が終わってからでもいいだろう」
人々が欲望のままに理性に従う様を愉快に鑑賞した。
狂乱の騎士は既に顕現していた。