第六話 戦う意志
五日の時が過ぎ去った。
私はこの五日間、転移後のあらゆる危険に備え、様々な品を各地から取り寄せ、入念な準備を行った。本間聡への報復は蘇生を完了させてからでも遅くはない、そう判断したためだ。
用意した物は、携帯食料と水を二週間分に塩一キログラム、日焼け止めクリームが二ヶ月分に替えの動きやすい衣類が数着、手帳とシャープペンシル、シャープペンシルの芯をそれぞれ一つずつと後はその他諸々。そして、これらを用意した物を収納するための大きなリュックサックや肩掛けの鞄が一つずつと、中々に数が多い。しかし、この五日間で用意した物はこれで全てではないのだ。
「これでよし、と」
万が一でもなんでもなく、宇宙空間に転移してしまう可能性が一二分に存在する。なので、そうなってしまった際の対策として、船外宇宙服を一着奥の部屋から引っ張り出してきた。二年程前に作成し、今回新たに改良を加えた代物だ。これで本当に準備した物の全てが揃い切った。
実は、酸や塩基などといった化学薬品から身を守るためにガラスの船なんかも用意したかったのだが、そこまでしないといけないような状況では他の生物、延いてはそこへ転移した私自身の生存も絶望的だとしてそれの用意は諦めた、という裏話があったりなかったり。
閑話休題、宇宙服を着用し、何もかもが整った。念の為にも再度持ち物の確認、点検を行い、本当の本当に全ての用意が整った事を把握する。それでは、いざ、出発と洒落込もう。
意識を内なる湖に落とし込み、奥へ奥へと沈ませる。そこに輝く一つの宝石を手のひらでぎゅっと握り締め、そんな水中でも火を灯してしまう程に強い意思を込めて、念じる。転移、座標未指定──。
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消失世界を離れますか?
[NO][YES]
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頭の中でそう紡げば、以前と同じようにして画面がひゅんと現れた。迷わず[YES]を選択する。
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行先を選択して下さい。
[他世界(未解放)][全世界][CANCEL]
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どうやら、もう一工程あったらしい。転移先の座標を指定しない事から、ここを離れるか否か、というあの問い一つですぐに転移が始まると考えていたため、少々肩透かしを受けた気分に陥る。
[他世界]、[全世界]、[CANCEL]とあるが、その内の[他世界]は未解放との事なので、今はまだ選択できないと見る。となると、選ぶ事のできる項目は二つ。言わずもがな、[CANCEL]とは中断や一つ前の画面に戻るという意味だろう。それならば、最早選択肢は残されておらず、迷っている余地などないのだが、しかし、この[全世界]とは一体どこまでを指しているのだろうか。
[他世界]とある事を考えると、地球のあるこの世界全てというよりも、この世界を含む全ての座標を対象とした転移を行うという線が濃厚と見える。とすると、宇宙空間に放り出される可能性が今までの比ではなくなった、と考えてよさそうだ。しかし、これでは私の裁量でどうにかできる域を超えてしまっている。誠に不本意極まりないけれど、後の事は幸運の女神様とやらにでも祈るとしようか。
「ふぅ……」
未知の世界に対する恐怖に、目的達成が確実ではないという不安感が私の胸に去来する。それは徐々に解像度を増していき、刻一刻と私を中から蝕んでいく。水面を打ったように覚悟は揺らぎ、未来に翳りが差すけれど、それでも私の本能は、直感は、心臓の高鳴りとして内に孕んだ消えない期待を、成功の予感を強く伝えていた。いや、そんな生温いものではない。訴えていた。訴え掛けていたのだ。手足が震える程に強烈に。息を飲む程に熱烈に。
それ程までに激しく踊り狂う心を落ち着けるためなのか、はたまたただただ不安が抜け切らないだけなのか、そうして大きな一つの溜め息を吐く自分がいる。しかし、この一瞬で脳裏を行ったり来たりと繰り返していた足を竦ませるような感情は、まるで初めから存在していなかったかのように綺麗さっぱりと消えてしまっていた。そこには膨らみ続ける胸にありったけ詰め込まれた、大きな大きな期待のみ。
「[全世界]」
覚悟と祈りを織り交ぜ、誰に言うでもなくそう宣言をする。瞬間、虹色の光が私の視界を埋め尽くし、それが、私が世界から足跡を消した合図となった。
眩しさのあまりに閉じていた瞼をゆっくりと開きやる。そこに映りしは、神聖さを帯びた豪奢な室。それを認識しては、ほっと一安心。一先ず、宇宙空間に跳ばなかった上に、ここは高度な文明のある場所のようだ。しかし、それはそれとして、ここに住まう者たちに私の操る言語が通じる道理はない。さて、これからどうしたものか。
不法侵入している現場を誰かに目撃される前にこの場を離れようと辺りを見回してみるも、どうやらそれは無駄な心配のようだ。転移した時には既にそこにいたのだろう、周りには多くの人がおり、その者たち皆が私たちを取り囲んでいた。
見る限り、ここの住民は私と同じく人間であるのか、目に見える範囲での骨格や身長などといった身体的特徴は元の世界の西欧人に近しいようだった。その者らの身形や部屋の装飾から察するに、文化に価値観なんかも中世から近世頃の西欧諸国のそれに類似するものであるらしい。しかし、この足許に描かれたミステリーサークルのようなもの。これが一体何を示すのか……甚だ疑問が尽きない。
また、ここにいる者のほとんどがローブを纏っていたり、神官のような服装をしていたりと、先も述べた中世近世的な衣裳に身を包んでいるのに対し、私と同じように取り囲まれていた三名の男女はそうではない。清廉さを漂わせる白いワイシャツとそれを包み込む香色のブレザー、統一感を示すチェック柄の入った丁子茶色のズボンやスカートに、それらの弛緩した空気を一気に引き締める赤いタイ。彼らは、文化の隔たれたここでは有り得るはずもない、見慣れた日本の学生服に身に包んでいたのだ。
足許のミステリーサークル、魔法使いを思わせるローブを纏った人々、豪華絢爛な室の装飾、何より、私と同じく地球から来たと思しき三名の男女。これらから導き出される答え、それは──。
一先ず、向こうの世界の人間と思しき彼ら彼女らが難なく呼吸ができている事から、ここの大気の酸素濃度に問題はないと見て取れる。となれば、宇宙服は邪魔だな、脱いでおこう。そうして半ばいそいそと脱衣していると、煌びやかな衣裳を纏った四人の男性、その内の一人が鎧を着込んだ男に何かを伝えた後に前に出ては、咳払いの後に口を開いた。
「皆様、ようこそおいで下さいました。私はここ、アルガント王国の防衛大臣を務めてございます、リコリス・ラジアータと申します」
リコリス・ラジアータと名乗るその男性は軍服よく似た荘厳な衣服に身を包み、「どうぞお見知り置きを」という言葉の後に美しい所作で辞儀をした。過度に面長の顔が強く印象に残ると感じたものの、しかし、今はそんな事はどうでもよい、とその考えを一蹴する。
私はこの者の放った言葉に強い興味と疑問を抱いていた。聞き慣れない単語などはあれど、その全てが日本語と全く同じ発音、文法を取っており、その他の単語に至っても、全く変わらないだろう意味を有していたからだ。私と共に囲まれている男女三人が日本人らしき容姿を持っていた事もあり、一瞬、世界を渡る事に失敗してどこかの撮影現場にでも紛れ込んでしまったのかと考えてしまったくらいだった。アルガント王国と呼ばれたこの地では日本語の使用が一般的なのだろうか?
「突然の出来事に戸惑っている事と存じますが、これより順を追ってお話し致しますのでどうぞご安心下さい」
それを聞き、狼狽えた様子だった三人の内の二人が一旦の落ち着きを取り戻す。しかし、その二人を除いた後の一人、ショートボブの少女。彼女はこの場では一切狼狽した様子はなく、むしろ冷め切った目をしているくらいで、その胆の座り具合には見習うべき点があるとさえ感じられた。
二人が落ち着いたところを確認すると、立ち話もなんだと彼は部屋を移動させる。道中にも中々に色彩豊かで煌びやかな装飾が施されており、それらは窓から覗く壮観な風景と合わせ、ここがいつの日か童話の中に見たようなお城の中である事を教えてくれた。
一陣の微風が舞い、城下に広がる営みから柔らかに緑の匂いを運び込む。眼前から入り込んだそれに感化されたかのように髪は踊り、けれど、私はそれを落ち着かせようと頭を軽く押さえた。
「わ、綺麗……」
立ち止まり、胸下まで伸びる長髪をポニーテールに結いた少女が零すように呟く。それに先導していたリコリスが返した。
「お目に適ったようで何よりです。こちらは我が国の華とも称されます、王都プラチナム。その街並みはこのシロニタス城から映る景色と合わせ、それはそれは美しいと各国の然る方々からもご評判に預かっているのです」
彼の言葉に興味を誘われ、私も改めて窓の外へと視線を送ってみる。そこに広がるのは、綺麗な弧を描く外壁とそれに囲まれた家屋の嵐。城門から伸びる広い通りには八百屋に肉屋、雑貨屋などといった様々な店舗が展開されており、そこを行き交う人々へと笑顔を享受していた。また、王都と言うだけあり、人の数も凄まじい。河川の激流を思わせる程のそれはさながら、渋谷のスクランブル交差点にも似た様相を呈していた。
じっと見つめていれば眩暈を起こしてしまいそうで、そっと瞳を伏せる事でそれを回避する。けれど、やはり口惜しい。その都市の美しさに惹かれ、私は再び窓の外に光を求めた。そうして四人で景色を眺めるも、少しの間の後、その熱をぴしゃりと遮るようにリコリスが言った。
「随分とお気に召されましたようで非常に嬉しい限りなのですが、貴賓たる皆様方をこれ以上立ち放しにしておいては国の恥。是非ともこちらへ」
そうしてまたさらに歩を刻む。皆もそれに倣って止めていた歩みを再開させた。
「すみません。けど、凄いですね、ここからの風景は。圧巻の一言です」
先導するリコリスへ、三人の内の一人、茶髪の少年が声を掛ける。先程までは美麗な内装や道往く人らの佇まいなんかに緊張していた様子で、それは今も変わらない。しかし、それ以上に初対面の人間と無言でいる事の方が辛いようだ。視線、声音、筋肉の緊張具合に歩調など、彼の体は特段正直者であるらしい。
「それはそれは、お褒めに預かり恐縮です」
「この国にはこのような所が他にも?」
「ええ、まあ。しかし、そちらのお話はまたの機会に致しましょう」
到着しました。そう言って彼は眼前の扉をがちゃりと開く。脇に視線をやれば、『第一会議室』と記された札が設えられているのが目に入る。どうやら、ここで彼の説明を受けなければならないらしい。いきなり逃げ出しても今のままでは右も左も分からない。この場に居続けるのはリスクとなるものの、この世界を学ぶためにも、ここは素直に流れに身を任せよう。
「お荷物の方はこちらでお預かり致しますが、構いませんか?」
入室する直前、リコリスが私たちに訊ねる。それに対し、皆一様に問題ないと告げるので、そのまま荷物を全て預ける運びとなった。他者に自身の持ち物が掌握されている事に一抹の不安を抱えつつも、それを直隠しにして皆の後を追うように室へと足を踏み入れた。
室内に身を投じれば、真っ先に視界に映るのは円環状に設けられた机と座席。それは水面が打たれた後のように中央から幾重にも広がっており、中心に佇む、人の頭蓋程の大きさをした水晶玉を取り囲んでいた。一種のカルト的な何かのようにも見えなくもないが、一応は会議室との事なので、あの水晶玉も実務的な何かしらの役割を持つのだろう。
「お好きな所へお掛け下さい」
そう言って中央へ進む彼。先頭を立つ彼に引っ張られるように中央を目指す三名を前に、固まっていた方が色々と都合もいいだろう、と私もそれに着いていく。結果、この広い部屋の中、初めの部屋から来た私たち数名と衛兵数名の、計二〇にも満たない少人数が中央にだけ集まっているという、なんとも奇っ怪で侘しい様が出来上がってしまった。
どうしてこんなにも少ない人数であるのにも関わらず、これだけ広い部屋を選んだのだろうか。そう一瞬疑問が過ぎるが、どうせ体裁やら威信やらの非合理的な理由なのだろうと判断する。しかし、一国の大臣が自他国の王以外にここまで謙らなければならない存在とは一体。学生服を身に纏う彼ら三名はそれ程までに高貴なる存在なのだろうか。私には日本中にありふれたただの一般的な高校生のように見受けられるが……。いや、日本にはありふれていたとしても、高校生が今この場にいるという事実は極めて価値のある情報のはずだ。何せ、それは、この世界には神呪を用いずとも元の世界とコンタクトを取る術がある、という事を示す大事な根拠なのだから。そして、恐らく彼ら三名はそのなんらかの手段の末に向こうから喚び出されたのだろうと推測される。
まず、映画か何かの撮影に紛れてしまったのであれば、私を退室させようとする動きがあるはずであり、また、機材なんかもそこかしこにあるはずなのだが、そういったものはただの一つも見られない。飯事でもやっていたのであれば、私が介入した時点で困惑なり驚愕なりしている空気が流れていても不思議ではないのに、そういった空気は一切漂っていない。それならば、このアルガント王国なる国は実在する国家であり、恐らく日本語の使用が一般的。人種や気温湿度から察するに西欧辺りの国であると推察されるが、そんな名前と文化の国は存在しない。また、初めの部屋にいた時からずっと、私と同じ立場にあるとされているであろう三名がどうしてこのような状況になっているのか、全く知らない様子なのだ。無知を演じる必要性のないこの状況で態々何も知らない素振りを見せる意義が見当たらない。そして、最後の材料として、私は先程、全ての世界の全ての座標を対象とした無作為転移を行っている。そのため、ここが地球やそれに類する同じ世界の惑星である可能性は限りなく低い。世界がどれ程の数存在しているかなど知る由もないが、少なくとも二つや三つ程度で終わる事はないだろう。根拠はないけれど、並行世界は無限に近い数存在するというし、その可能性が捨てられた訳ではない。
よって、ここは地球のあった世界とは別の世界に存在する国であり、そこの三名は先も述べた通り、なんらかの手段によってこちらへと無理矢理喚び出されてしまったのだと考えられる。確か、巷ではこういった現象を “異世界召喚” などと呼ぶようであるが、彼らの場合は正にそれだろう。アルガント王国にはなんらかの目的があり、それを遂行するための駒として彼らが召喚された。私はたまたまそこへ紛れ込んでしまった異物であり、しかし、彼らにそれを判別する術はない、と。となれば、初めの部屋の床に描かれていたミステリーサークルのような絵にも納得が行く。あれは向こうから彼らを召喚するための魔法陣か何かだったのだろう。
あの時、我が家へと訪れた本間聡の行使していたあれが魔法なのだと言うのであれば、理屈は不明ではあるが元の世界でも魔法を使う事は可能だという事が分かる。向こうでは意味を為さないただの紋様であったとしても、こちらでそれが機能していれば魔法の存在しないあちら側にも影響を与え得る、と。しかし、そうなると、どうしてあの時奴は魔法が使えたのだろうか? 魔法を使う者の持つ何かしらの形質が要因となっているのか? 様々な疑問が生まれるが、ここでこれ以上考えても仕方がない。材料が足りず、机上の空論に終わる事が目に見えている。このままぐだぐだと宣っていても今は然して重要な情報でもない上に切りもない。この迷宮のような思考の答えを見つけ出せぬまま、私は水晶玉の横に立つリコリスの方へと視線を預けた。
彼は口を開く。
「皆様お席に着かれたご様子ですので、ここに至るまでの経緯について、ご説明に入らせて頂きます」
まず初めに。そう口上を述べて、彼は私たちへと事のあらましを伝えた。
曰く、このアルガント王国は私の推測通り、 “人工世界” と呼ばれる、地球とは異なる世界に存在しており、学生らしき彼らは地球からこちらへリコリスらが召喚したのだと。何故地球から人を喚んだのか。それは、今現在、この世界は危機に瀕しており、そこから召喚された “勇者” なる存在にその危機から救ってもらうためだそうだ。危機というのは、五〇〇年程昔に討伐された “魔王” なる存在がつい一月程前に復活を遂げてしまった、というものらしい。甚大な被害が齎される事を恐れたアルガントは被害が出る前に逸早く手を打とうと、教会からの協力の下、この度勇者を召喚した、といった経緯だと言う。実に勝手だ、と思う反面、それがあったお蔭で今、私は不法侵入者として投獄されずにいるこの事実にむず痒さを覚える。他者の不幸を喜ぶ訳ではないが、この状況が今は都合がいい。
話は戻るが、どうやら、その魔王というのは全部で七柱存在しているらしく、その一柱一柱が未曾有の大天災である、と過去の文献には記録されているようだ。そして、そんな存在に対抗できるのは世界の救世主たる勇者を措いて他にいない、という事で召喚に踏み切り、一週間前からそのための儀式を続けて、今日、ようやくそれが完了した、と。
経緯の方はこれくらいにして、初出の単語の詳細についてまとめると、 “人工世界” は私たちの今いるこの世界の事を指す。名前にある人工というのは、この世界が創世主と呼ばれるある種の神によって創出された、という教会の聖典にある記述が元となっているらしい。
その他、 “勇者” は教会の指導する集団儀式によって召喚された、世界にとっての救世主を指し、リコリスらの話し振りから地球からの来訪者が主のようだ。 “魔王” については情報が少ないが、どうやら魔物と呼ばれる存在を統べる七柱の王たちを総称してそう呼ぶらしい、という事だけは分かった。それと、死後五〇〇年で復活可能だという事も。先述の “魔物” については話の中で極自然に出てきており、その場での説明がなかったので、後程調べておくとしよう。
「どうか、どうか……危急存亡の秋を迎えた我々人類に救済を、未来を照らす日の光をお与え下さい……!」
その場で跪き、そこに全てを賭けたとでも言うように懇願するのは、この国の防衛大臣たる男、リコリス・ラジアータ。部下の前であるのになんら惜しむ事なく頭を下げる彼のその姿に、現状がそれ程までに危ういのだという事をまざまざと感じさせられる。上司のそんな姿を見せられては自分たちの立つ瀬がない、とばかりにこの場の衛兵たちも続いて一斉に片膝を着く。重なり合った板金鎧の擦れ打つ音が私の鼓膜を蹴り上げ、つー、と甲高い耳鳴りが暫しの間耳の中を泳ぎ続けた。それも止んで周りの音を鮮明に拾えるようになった頃。ぽつり。彼の伏せられた額から一粒の雫が床を叩き、円に広がってはその点を湿らす。彼の必死さが伝わったのだろう、少年が立ち上がった。
「顔を上げて下さい」
未だ不安げな様子でリコリスは正面を向く。そこに映るのは、少年の微笑む姿。彼は続ける。
「僕はあなたが、あなた方が思うような大層な人間ではありませんし、今後もそうはなれないかも知れない。失敗だってするし、時には酷く落ち込む事もある。何もかも駄目な時は自暴自棄になったりするかも知れませんし、大層な事を並べたって、心も体も伴っていなかったりするでしょう。挟むのはいつも口だけで、誰か困っている人がいればまずは誰が助けに入るのかと周囲を見渡してしまうような、そんなちっぽけな人間です」
誰がなんと言おうが、自分の器の小ささは自分が一番よく分かっている。そう言いたげに彼は言葉を連ねる。けど。リコリスの顔を、この場に立つ兵士たちの顔をその目で捉えて、この音と共にその言は終わりへと向かう。
「それでも、そこに僕しかいなければ、誰も助けられなければ、僕は迷わず手を伸ばします。それだけの勇気は備えてるつもりだ。どれだけ臆病でも、どれだけ矮小でも、自分しかいないのなら、自分にしかできないのなら、僕は逃げずに立ち上がる、こうやって」
彼はそこに湛えた笑みを崩す事なく、真正面の彼へと向けてそっと手を差し伸べた。
「では……!」
歓喜を宿すその声に、ただ一つだけ首肯する。
「戦いましょう、共に」
リコリスの伸ばす手をぐっと握り、彼もまたそれを握り返す。袖口で涙を拭いながらも立ち上がり、はにかみ笑顔を見せる彼。どうしてそんな……いや、きっと私がそういう事に疎いからそう思ってしまうのだろう。無駄な邪推は止そう。切り替えて彼らの会話に再度耳を傾ける事とする。
「二人もそれで大丈夫?」
「うん、もちろ──」
「大丈夫な訳ないでしょ」
そうやってもう一人の言葉に被せるようにして発言したのは、今まで全くと言ってもいい程口を開いてこなかったショートボブの少女。こちらはたった今被せられたポニーテールの少女と比べてかなり派手な見た目で、ぱっと見でギャルという単語が頭に浮かんでくるような風貌をしていた。何か一波乱起きそうだ、と身を構えつつ、いつでも仲裁に入れるようにそっと私は息を潜めた。
その強い口調を崩す事なく彼女は続ける。
「いきなりこんな意味分かんないとこに連れてこられて、口を開いたかと思えば「ここは別の世界です」とか……そんな事言う方も信じる方もマジ頭おかしんじゃないの? 普通に考えてあり得ないし、映画かなんかのセット利用して騙そうとしてるだけのただの愉快犯じゃん。しかもやれ勇者だやれ魔王だって、余計意味分かんないし……。それなのにホイホイ釣られてさぁ、ホント馬鹿みたい。いい歳して恥ずかし過ぎるでしょ普通に。分かってる? ガチ反省しな。そんでお家に帰って引き籠もって金輪際うちの視界に入んないようにして。それに、そこのあんたもさぁ、男に媚び売りたいのかなんだか知らないけど、そうやって簡単にそいつの言う事ぺこぺこ肯定しないでもらえる? 巻き込まれてるこっちの事も考えてから発言しろよ。それすらできないとかマジ終わってるから、終わり過ぎ。人として最悪だわガチで。てかここにいるのって私以外だと詐欺師と馬鹿と売女と餓鬼って事? うわ何その地獄絵図、ヤバ〜。帰りたい、てか帰るから。じゃあそういう事なんでオジサンたち〜? 真面目にここってどこな訳? うち早いトコ帰りたいんですけど」
物凄い勢いで捲し立てるその少女は、あまりにも自由奔放に罵詈雑言やら自身の要望やらを連ねていく。そのあまりの醜さと逞しさに思わず吹き出してしまいそうになってしまったが、彼女の言っている事は確かに妥当だ。
彼らの言っている事が嘘で、ここにある物たち全てが人を騙すための道具だという事は、日本で普通に生きていれば小学生でも思い至る。それなのに、目の前には真剣にそんな戯言を宣う五十路と、それを馬鹿正直に信じる少年。しかも、一緒にいた少女はそれを一切否定しようとはしない。悪口は過剰だったとはいえ、あのような反応をしてしまうのも理解できるというもの。
しかし、ここでそれを許してしまっても話がややこしくなるだけで進まない。先の弾幕で呆気に取られてしまっている皆に代わり、私がこの場を諌めよう。
「あなたの言う事は尤もですが、それは少々言い過ぎですよ」
「は?」
少し怒りを露にした様子でこちらを睨めつける彼女。しかし、それを気にも留めずに私は続ける。
「それに、思い出して下さい、このお城からの景色を。城下町を行き交う人々の服装や石畳を進む馬車の姿は、現代の文明レベルとはあまりにも掛け離れています」
「だから何?」
「今までいたはず場所からいつの間にかここにいた、という事実も含め、少なくともここは元々いた場所とは別の世界に当たる、と考えて差し支えないだろうと言っているのです。ラジアータ大臣の仰る事が事実かどうかは確証がないため正確には判断し兼ねますが、あのような話で私たちを騙す利点も見受けられませんし、全てとは行かずとも、恐らくそのほとんどが事実と見てよいでしょう。そちらのお二人もそれを分かっていて引き受けたのではないですか?」
「あのさぁ、だから何? うちは今すぐ帰りたいんだって言ってんの、話聞いてる? つーかさ、餓鬼がしゃしゃり出てくんなよ。一丁前に敬語とか使っててマジキモイ」
説得を試みるが、どうやら理屈の通用しない相手のようだ。しかも、一向に謝るつもりはないようで、追加で私にまでこのような暴言を吐き捨てた。
「では、ラジアータ大臣」
「はい」
私と彼女が話しているうちに平常心を取り戻していた彼に訊ねる。
「どうすれば元の世界に戻れますか?」
「はい、聖典にはこのように記されております。『救世の使命果たす時、祝福の扉開かん』──過去の勇者様の動向などからも察するに、恐らくは全ての魔王を倒す事が適いましたらご帰還が叶うのでは、と我々は推測致しております」
「だ、そうですよ」
そうして、私は苛立ちを隠せない彼女に向けて言葉を放つ。
「これでお探しの帰る手立てが見つかりましたね」
「それが本当だって証拠はある訳?」
「ありませんよ」
「なら──」
「でも、それしか情報がない。それしか分からない。それなのに、あなたは何もせずにただただ文句を垂れるだけでいるつもりですか? 帰れるかも知れないのに一切の行動もしないのですか?」
言葉を連ねる毎に顔を顰めていく彼女。そこへさらに追い討ちを掛けるかのように、私は話す口を止めない。
「もっと早く行動していれば帰れたかも知れないのに、あなたは何もせずにただいるだけ。その頃には私たちは魔王を倒して帰っているかも知れませんね。おっと、一人だけ残ってしまいました。でもその頃には全ての魔王が散ってしまっています。どうしましょうか? ……ああ! ここが日本のどこかであると信じて、あるはずのない地元を探し彷徨い続けるのですね! それはなんとも、哀れな事で」
「ッ!!」
嘲るようにそこまで言ったところで彼女の低い沸点を突っ切ったのか、メイクで綺麗に彩られたその顔を顰蹙させながら私の胸倉を掴み上げる彼女。睨みつける彼女と見下すように視線だけを向ける私。彼女は拳を振り上げるも、数秒の後にそれを降ろし、同時にちっという舌打ちと共に私の胸倉を掴んでいた手を離した。
「……ああもう! わーったよ、やればいいんでしょ、やれば」
「それでは」
彼女の吐き捨てたような言葉に期待と安心の混じった声音で言うリコリス。信じる覚悟を決めたとでも言うように、すっと引き締まった表情で彼女は一言。
「やってやんよ、勇者」
修正 2021/10/03
<気分屋>を<気分屋>に変更
修正 2022/01/23
<天照>の効果を修正
修正 2022/04/03
誤字修正
修正 2022/05/05
<天照>の効果を修正
文章の一部修正
修正 2022/05/27
文章の一部修正
修正 2022/05/28
誤字修正
修正 2022/10/30
文章の一部修正
修正 2023/04/19
誤字修正
文章の一部修正
修正 2024/12/15
本文の大幅修正
修正 2025/01/14
誤字修正
修正 2025/03/12
文章の一部修正