第五話 人生の分岐点
「こんな事もあったっけ。あははっ、懐かしいなあ」
そんな笑い声と共に響くのは、産まれて間もない頃のささやかな想い出たちに浸る私の声。自分で言うのもなんだが、どこか寂しげに感じてしまうような声音でそれは放たれていた。
しかし、改めて振り返ってみて思う。どこまで荒唐無稽な話なんだ、と。お母さんの胎内にいた頃には既に自我があり、周囲の音を僅かながら知覚しており、生後一月で言語を解する。それからしばらくしないうちに四足から二足で起立できるようになり、家庭教師をつけて文字の読み書きまで覚えた。恵まれた才能に、それを育めるだけの調った家庭環境。そんな奇跡に抱かれて、私はこの世界に生を受けた。
乳幼児期にはお父さんにお母さん、家庭教師として来てくれた先生が。幼稚園に通っていた頃には先生や同じクラスの子たちが。小学校に上がってから今までも、同じように先生やクラスの子たちが。私というある種の異端を優しく受け止めてくれた。その恩は絶対に忘れずに、今後私が成長して大きくなった時に返していけたらな、と思っている。そして、何より、こんな私と親友になってくれたあの子。あの子には今まで何度も救われた。特に、精神的に辛かった時なんかは優しく慰めてくれたり、強く抱き締めてくれたり、感謝しかない。そうしてくれるような人に巡り逢えた私はもう、幸せだと誰に豪語したとしても罰は当たらないだろう。
けれど、そんな風にいい縁に恵まれたのも、私を賢く産んでくれた両親のお蔭だ。そのお蔭で私は学力を早くから磨く事ができた上、創作や武芸といった自分自身の才能を活かした活動にも取り組む事ができた。それ故か、人との交流にはそう積極的ではないけれど、それでも、仲のいい子たちと会話するのに話題は尽きないのは僥倖と言える。グループだと私が話を回す場合が多いので、尚の事そうだ。
人はほとんどの場合、思春期を迎えるまでは左脳があまり発達していないために、右脳による思考、つまりは衝動によって行動が左右されていく。もちろん個人差はあるし、それまで左脳が成長しないのかと言われればそうではないから、必ずしも皆が皆そうだとは言わないが、そういう人が多いのは確かだ。そして、その後さらにそれを大きく成長させていき、一八を過ぎる頃には完全にその人の人格が形成される、という仕組みになっている。けれど、私は人よりもそれが早かった。今も尚人格形成の途中である可能性は捨て切れないが、周りよりも社会性が身につくのが早かったのは確か。恐らく、それは私が産まれながらにして、否、産まれる前から物心がついていた特異体質だからなのだろう。それに、両親二人が比較的学習能力の高い頭を持たせてくれたのも一因だと思われる。だからなのか、通常、左脳の成長に伴って徐々に社会性を育んでいくはずが、私はある程度の社会性を既に持った状態で産まれ、そこからの時間をとても有意義に使う事ができた。
運動能力も学力も同年代の域からは外れてしまっているため、やり甲斐というものはあまり伴わないけれど、普通に学校生活を送るだけでも時々辟易してしまうのに、授業でまで苦戦はしなくてもいいだろう。まあ、強いて挙げるのなら、現在人との接し方に難航している、というくらいか。それでも、その程度。そもそも、人は顔と名前を繋げて憶えられる数に限りがある。確か、一五〇人程。あまり関わりのない人との接し方など、その場限りの方法でいいのだ。うちの学校はエスカレーター式に上がっていくとはいえ、今の時点で既に関わりが薄いのなら今後の関わり方までも考える必要はないだろう。どれもこれも私の裁量だ。今のうちくらい、関わりたい人とだけ接させてほしいものだ。どうせ、将来否が応でも嫌な相手と関わりを持たなければならなくなるのだから。
ここまでの道程、そういった些細な失敗はあれど、お蔭様で致命的とも言えるような大きな失敗には出会わなかった。普通はそんな大きい失敗というものに巡り会う事はないのかも知れないけれど、私のルーツがルーツなだけに色々と不安が募ってしまう。このまま何かの拍子に躓いて、そのまま一気に転落人生、破滅の一途を辿るとか、そんなふざけた筋書きにはしたくない。されて堪るか。私は意地でも生き残ってみせる、何があっても。それこそ、どん底に突き落とされたとしても這い上がってみせるから。
因みにだけれど、私がある種の異端を抱えて産まれたという事は、両親を除けば家庭教師の先生と親友の二人しか知らない。それは祖父母も同じで、話し始めてもおかしくない時期になるまでの一年と少しの間、隠すのがそれはそれは大変だった。お母さんがうっかりばらしそうになった時は流石に焦ったよ。そんなお母さんの口の軽さは二人から遺伝したんだろうな……。
遅くなったけれど、過去を振り返り、ここまで長々と連ねたのには一応理由がある。その理由とは、もう後一週間で私は一〇歳の誕生日を迎えるからだ。
「もう、一〇年か……」
今までの色々な想い出がひっきりなしに湧き上がってくる。意識の表層に顔を出しては深くまで沈んでいき、また別の想い出と交錯する。その繰り返しだ。
産まれて一〇年というのも一種の節目だと考え、そうやって改めて今までの一〇年間を振り返ってみていたという訳なのだが、もしかしたら、これからの身の振り方というのを考え直すいい機会なのかも知れない。そうして私は、将来の夢をどうするのか、どう生きていくのか、そのためにはどうしたらいいのか、そんな思考を積み重ね、今のうちにできる事をまとめていった。ご飯できたよ、というお母さんの合図が届くまで。
◇◇◇
それから六日。今日は家族で私の誕生日プレゼントを買いに、ショッピングモールへと行く予定だった日だ。だった、というのは、急遽友人に遊びに誘われてしまい、その子と二人で遊ぶ事になったため。けれど、それだとお父さんとお母さんが可哀想だと思ったので、この間作ってみた自律思考型模倣機械人形を同行させようと思っている。バッテリーの続く限りは限りなく私に近い思考や判断を下してくれる人工知能を搭載している上、私と思考や視聴覚を無線で繋ぐ事もできるからまあ、問題はないはず。
二人に同行もさせるくらいだし、どうせなら愛称を考えてあげよう。う〜ん、自律思考型模倣機械人形……。決めた、律人にしよう。
ここで律人の紹介を少し。律人事自律思考型模倣機械人形とは、私の代替として機能させるロボットの試作品として、ついこの間設計図から形にしてみただけの身代わりロボット。要はプロトタイプだ。
まだ研究、試作段階ではあるけれど、一応私と同じだけのパフォーマンスを再現できるよう、筋肉部分や骨格部分を限りなく私に近似させている。また、特別な機器を使う事で私の意識や五感と律人をリンクさせる事も可能だ。これで、私自身は本作業を熟しながら別の事ができるという算段だ。他にも、律人内部の機構は人間の臓器と同じような働きのできる部品を搭載しているので、口に食物を入れればそこからエネルギーを抽出できるのも特徴で、今までのロボットでは成し得なかった食事が可能となった。ただ、消化吸収にエネルギーを大きく使うためか、あまり燃料効率はよろしくない。そのため、充電をするのなら直接電気を与える方がいいだろう。行く行くはその辺りも改良して完全に食事だけでもエネルギーを賄えるようにするつもりだ。
その他にも多彩な機能が備わっているけれど、極めつけはこれ。本体の核となる機構の損傷をトリガーとした、発電機構の意図的暴走による広範囲爆発。最後の自爆はロボットと言えば、みたいなところがあるので、不要とは理解しつつもついつい機能として搭載してしまった。不要と分かっている機能を入れてしまうのは私の悪い癖なのだ。一応、損傷させずとも、押せばそれだけで爆発させられるスイッチを用意してはいるけれど、使う機会がない事などは想像せずとも分かるだろう。
大まかな彼女の性能といえばそんな感じだ。それはそうと、服装も整えさせ、買ってきてほしい物も伝えたので、早速彼女には二人と共にショッピングモールへと赴いてもらおうと思う。
「今日ゆーちゃんと遊ぶ予定入っちゃったってこの間言ったじゃん?」
ソファに腰掛けながら珈琲をしばき、我が物顔でどっかりと寛ぐ父。スマートフォンを片手で弄りながらちらちらとテレビの液晶を見る彼に私はそう話を切り出した。
「おう、どうした、藪から棒に?」
「だから、私の代わりに今日はこの子を連れていってほしいの」
そうして律人を紹介すると、彼は途端に固まった。どう反応すればいいのか分からない、とでも言いたげだ。
「この子、目のところにあるカメラに映った映像を録画できるんだ。しかも、ちゃんと私と同じ思考で会話してくれるようにしたんだよ」
律人の持つ機能を一つ一つ挙げていけば、取り敢えずといった様子で相槌を打つ父。聞く耳を持って最後まで話を聞けと。
「だから、この子にはできるだけ私だと思って接してあげて。録画越しだけど、私も今日あった事見返したいし」
その映像を想い出の一つとして保存しておきたい。そう彼に伝えるも、彼はうーむ、と唸るばかり。どうして渋るのか。そう訊ねれば、彼はこう答えた。
「いくら似てるからとは言え、ロボットを娘のように扱いながら買い物とか、流石の俺でもちょっと恥ずかしいよ」
そりゃあ、どうしてもって言うなら連れていくけどさ……。続けて、彼はそう宣った。
「うん、どうしても」
大切な一〇歳の想い出の欠片なんだもん。どうしてもに決まってる。
「……愛娘からのお願いだしな、仕方ない。じゃあ、お母さんには俺から言っておくから」
私の答えを聞いてお父さんは首を縦に振り、そのまま重い腰をぐっと持ち上げて立ち上がった。足を運ぶ先は、彼の言葉の通り、お母さんの許だ。
「ありがとっ」
私の無理な要求を受け入れてくれたお礼に、私は彼に思い切り抱き着き、にんまりとした笑みを湛えて無邪気な風を装ってそう言った。きっと、お父さんという生き物は結局こういうお礼が一番嬉しいのだ。前にクラスの子の真似をしてみた時は結構反応よかったし、うちのお父さんに限って言えばこの分析は正しい。それを肯定するようにとても嬉しげに頬を緩ませる彼を視界に収めて、予想通りこれで十分満足したのだろうと判断する。すれば、私は息をするように自然な所作でその場を離れ、ほんの一瞬しか愛娘と戯れる事ができずにがっくりと項垂れる父を尻目に、この後に迫る予定のための準備をしに自室へと戻っていった。
ぱたんと私室の扉を開閉し、中に入った私は、まずシャワーを浴びる準備から始めた。何せ、起きてから今までずっと律人の改良作業を続けていたのだから。姿見に視線を流せば、頬は煤け、髪は絡まり頻っている自分の姿が目に入る。待ち合わせの時間までかなりぎりぎりなので、早急に身を清めてこなければ。
という訳で湯浴みを済ませた私は、諸々の手順を踏んで全ての準備を終えたのだった。
もう一度鏡を見て、装いが完璧であるかと確認を入れる。少し寄れてしまっていた前髪を指と薬剤で整えた私は、淡く紅の点された頬と唇を指先でなぞり、一言。
「うん、今日もかわいい!」
どこに向けるでもなく笑みを浮かべた私の許へ、不意に声が届いた。
「おーい、冴智ー」
お父さんだ。
「何〜」
間延びした声で応えながら、呼ばれるがままに下へ降りる。リビングで待ち伏せていたお父さん。私の姿を視界に収めた途端、彼は口を開いてこう言った。
「これ、どうやって動かすの?」
そう言って彼は先程この場に置いていった律人を指差す。
「ああ、ごめん、電源入れるの忘れてた」
私は苦笑しながら彼女の髪を掻き分け、項にある蓋をスライドさせてボタンを押す。すると、無機質な音声が発せられた。
「認証を完了させて下さい」
次いで、項のボタンのすぐ横から赤色の光が溢れ出す。そこへ手を翳せば、その赤い光はぱっと消え去り、認証は次の段階へと移行する。律人と目を合わせ、私の網膜情報を認識させれば──。
「認証が完了しました。ロックを解除します」
このように、操作可能な状態へと移る。そのまま
ボタンを特定のタイミングと長さで押して命令を与えてやれば、後は勝手に判断して動いてくれる。
「命令を受諾。これより、代替行動を開始します」
途端、無機質だった声色に生気が宿り、完全に私のもののそれとなった。
「はい、これで電源入ったから。いつでも連れていって大丈夫だよ」
「おう、ありがとう」
「お父さ〜ん! まだ〜?!」
機能するようになった彼女をお父さんへと返す。笑みを浮かべながら発せられた彼からの礼に被さるように、玄関の方からそう声が届いた。お母さんだ。
「今行くー!」
太い声を大きく響かせ、彼は向こうへと返事を送る。
「それじゃあ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい。最近物騒みたいだし、お父さんたちも気をつけてね」
「冴智もな。子供だけなんだから気をつけて遊んでこいよ」
「はーい」
そうやって各々心配の言葉を交わし、私は彼らの出発を見送った。
「さて、と」
時刻はそろそろ一一時を回る。予定通り、私も家を出なければ。遅刻魔などという汚名のつかぬよう、私は足早に集合場所へと向かった。
「おはよう」
「あ、さっちゃん、おはよ」
電車から降り、まだ集合の一〇分前だというのに時計台の前で退屈げに待ち合わせる友人へ声を掛ける。途端に液晶に齧りついていた瞳はこちらへと向けられ、首筋程の髪をはらりとはためかせながら彼女は振り返り、そのまま私へと挨拶を返す。
「今日もかわいいね、ありがとう」
「でしょ? 今日はいつもより赤強めにしてみたんだけど、これが本っ当にかわいくてさ……。鏡見て感動しちゃった」
いつもの如く勝手に褒めては勝手に感謝する彼女に、今回は同調して自賛する。我ながら今日のメイクは上出来だったので、逸早く彼女に会って伝えたかったのだ。
「しかも、この色とこのワンピの相性がばちばちによくてさ、やばくない?」
「うん、やばい。がちやばい」
そう言って着ているシャツワンピースの裾を軽く摘み上げ、ふわりとアピールしてみる。すれば、彼女はそう共感の意を示すなり、熟達した手つきで液晶をなぞって私の姿をカメラに収めていった。ぱしゃしゃしゃしゃと連写する音も気に留める事なく、私は続ける。
「よき過ぎて袖通した瞬間声出ちゃったもん。これ選んでくれて本当にありがとね」
軽くポーズを返しつつ、彼女への礼を口にする。それは、前にどの服を購入しようか迷っていた時、このワンピースを選んでくれた事への感謝の意。
「ううん、私がさっちゃんに着てもらいたかったの選んだだけだから。てか、似合い過ぎてて鼻血出そう」
そう言う彼女の手は今も止まらない。ティッシュあるから出たら言ってね。それだけ添えて、私たちは現地へと再び歩み出した。
服やコスメを見たり、本を買ったり、ご飯を食べたりしているうちに、あっという間に五時間が経過した。そろそろ門限も近いので、ゆーちゃんとはここでお別れとなる。
「今日もすっごく楽しかった! 本当にいつも時間作ってくれてありがとね」
「こちらこそ、いつも私といてくれてありがとうだよ」
最寄り駅まで戻るなり感謝の気持ちを伝えれば、彼女からはお返しとばかりにそう返ってくる。
「友達なんだから当たり前でしょ」
「それなら私も、友達だから」
「あははっ、それもそっか」
くすりと二人で笑い合う。長閑な一時が訪れるも、それはほんの少しの間だけ。駅を出てしまえば、すぐさまに終わりを告げられる。
「じゃ、また明後日、学校で」
「うん、またね」
互いに手を振り、そのまま各々の帰路へと着いた。
それから数分、私は帰宅を果たす。靴を脱いでただいま、と声を上げるが、返ってくるのはしんとした静寂のみ。後少しすれば一七時になろうかというのに、三人はまだ帰ってきてはいないようだ。律人の相手以外にも食材の買い出しでもしてるのかな。一先ず、お風呂に入ってしまおうか。
浴槽を掃除し、そこへお湯を張っていく。湯船が出来上がるまでの間に髪を梳かしたりパジャマを用意したりといった支度を終わらせる。時間が少し余ってしまったので鞄の中身を整理していれば、丁度終わったタイミングで湯船の出来上がりを報せる音楽が耳に入った。
膝下程の長さがあるために髪のケアに時間が掛かるも、四五分程で浴室を上がる。軽くタオルドライをした髪をターバンのようにしたバスタオルで覆い、用意したパジャマを身に纏う。ニュース番組を開きながら梳かした髪を乾かしていると、アナウンサーの放ったとあるニュースの情報が私の耳を打った。
「続いてのニュースです。本日午後四時三〇分頃、都内にあるショッピングモールの駐車場が爆弾で爆破されるという事件が起きました」
まさか、ね。途端に浮かび上がる悪い考えをそう一蹴しようとするけれど、どうしても不安は拭い切る事ができない。私は髪を乾かすのを中断し、専用の機器を用意して律人とリンクさせた。
「っ」
言葉を失った。リンクは成功し、映像の受信にも成功したのに、画面に映ったのは真っ暗な映像のみ。そこにあるはずの両親の姿は見当たらない。視点を動かしてみるも、どこもかしこも暗闇で、動いているのかすら分からない。ナイトビジョンとサーモグラフィーをオンにし、音声も受信させて現状把握できる情報を全て集めようと試みる。部屋にあるパソコンには媒体を問わず、今日の午後に報道されたニュースやSNSなどの中からそれらしきものの情報を収集させた。
「嘘……」
絶句する。受け取った位置情報と報道されていたショッピングモールの場所が明らかに重なっていたから。しかも、律人に搭載しているGPSから送られた位置情報はそこの駐車場で。こんな事はしていられない。私は速やかに準備を整え、急く思いを赤裸々に、飛び出すように家を出た。
しばらくして現場に駆けつける。目に入ってきた光景はあまりにも酷い。一言で言えば、惨状。
爆弾で破壊された箇所は駐車場の一階の隅の方。けれど、場所が悪かった。そこには様々なパイプが通っており、中には飲食店などで使用されるガスが通っていたのだ。爆弾が爆発した際にそのガスへ引火してしまい、ショッピングモールの飲食店が集中するエリアが爆発により倒壊。それに巻き込まれる形で上下の階層も破壊され、支えを失った駐車場もそれと共倒れとなった。脱出できた人はほんの数十人のみであり、それ以外の人たちは今も瓦礫の下で生き埋めだ。けれど、事件が起きたのは一六時半で、現在は一八時二二分……ほとんどの人が亡くなってしまっているだろうと言わざるを得ない。
早く二人を探そうと思いサーモグラフィーを使用するも、爆発による影響か所々に火が上っており、あまり役に立ちそうにない。しかも、まあ当たり前の事ではあるのだが、現場は立ち入り禁止になっているためにこれ以上進めそうにもない。しかし、そんな事をされたところで私が足を止めるはずもなく。私はトラテープや大人たちによる包囲網を潜り抜け、律人の位置情報を頼りに瓦礫を掘り返していった。
私を追う警察の人たちをがむしゃらに振り切り、律人の許へ、二人の許へ必死に向かう。
「この辺りのはず……っ」
GPSからの情報を頼りに瓦礫を退かしていく。鉄筋やコンクリート、車の残骸などがいくつも積み重なっており、中々下まで辿り着かない。一人じゃ効率が悪すぎる……! 時間がないっていうのに!!
「おい君、戻りなさい!」
私の事を追ってきた消防士が窘めるように、けれども強い語気でそう呼び掛けてくる。その言葉に大人しく従う訳もなく、私は瓦礫の中を漁り続けた。口では聞かないと悟ってか、彼は私の脇の下へと腕を通すと、そのまま私を持ち上げようとする。
「邪魔しないで!!」
そんな彼の手を力任せに引き剥がし、どこかへ行ってしまえ、とばかりに突き飛ばした。いきなりの事で対応し切る事ができなかったらしい彼は、過剰なくらいに大きく後ろへと下がり、けれども咄嗟に受け身を取ってみせた。
倒壊から一時間なんて優に超えている上、こいつみたいな邪魔者が後何人、何十人といる。そう考えるだけでも頭が痛くなってくる。ただでさえ刻限は迫ってきているというのに、その上消防という存在までもが私の焦燥を煽り立て、着々と冷静さを奪っていった。
しかし、それでも私は理性を全開に働かせ、淡々と邪魔な瓦礫たちを退かしては、崩しても問題ない箇所を少しずつ小型のドリルで砕いていく。コツなんてものはとっくのとうに掴んでいる。後は効率化を図るのみ。大丈夫、私ならできる。焦る事なんてない、冷静に対処するんだ。
退けて、砕いて、振り払って、また退けて。そうしてどれだけの時間が経ったろう。五分か、一〇分か、もしかしたら一時間以上経っていたのかも。それさえも分からない。
頭がくらくらして、どうしてか意識が朦朧として。ふと思い出す。ここは倒壊現場で、周りは火の海。漏れ出たガスや黒煙を吸い過ぎたのだ。失念していた。ガスマスクを持ってくるのを忘れていた。しかし、それでも止める訳には、ここで諦める訳には行かない。
無心で大丈夫だと自分に言い聞かせ、ただただ繰り返して、そうして、瓦礫の奥にやっと見つけた。
「お父さん、お母さん!!」
小さな隙間から覗く二人の横顔。その胸の中には、私と瓜二つの機械人形。
瓦礫を崩して道を通し、三人をそこから助け出そうと試みる。絶えず声を掛け続け、覆い被さるコンクリートの塊を慎重に持ち上げる。それでも二人は動かない。どこか怪我をしていて動けないのかも。いや、それ以前に、見るからに意識がない様子だった。
「起きて! しっかりして!」
塞がった両手を補うように大きく張り上げた声で語り掛ける。現状意識が戻らないのならば、せめて安全な場所まで運び出そうとゆっくり瓦礫をずらして。
「っ……!!?!」
そこまでしてようやく気がつく。二人が息を引き取っていたという事に。死因は一目見れば誰にでも分かる。落ちてきた瓦礫に半身以上が潰された事による失血死だ。それを肯定するかのように、今まで位置情報を発信していた律人の瞳の光がすっと落ちていく。自爆機能が起動していないところを見ると、恐らくケーブルが切れて電気の供給ができなくなってしまったのだろう。
隠す気などまるでないと言わんばかりに無気力感を漂わせながら、軽くなった三人を地上へと引き上げる。出た先には消防士が一人。彼はこちらを視認した途端、酷く血相を変えて私たちを抱き抱え、そのまま来た方角へと踵を返して走り出した。こちらの方が早いのもあり、私は抵抗する事なくそれを受け入れた。
安全地帯へ戻ってくるなり、そこへ集まる野次の声が一層強まる。理由は恐らく、お父さんとお母さん。二人の体には重いコンクリートや車なんかの瓦礫が積み重なっていたために、胸から下が無惨な程に拉げてしまっている。服には赤黒いものが染みついている上にボロボロで、それらとは対照的に顔だけがとても綺麗で。そんな二人の姿に各々違った反応を見せる。ある者はその姿に心を痛め、ある者は非日常を面白がり、またある者は善意からか、或いは注目を集めたいが故なのか、写真や動画を撮ってはSNSに投稿する始末。野次としてここにいる時点でこの場にいる者は皆平等に倫理観の欠けた屑であるというのに、あたかも自分だけは正義であるかのように振る舞い、それを信じて疑いもしないようだ。それとも、皆がしているのだから自分もしていいとでも思っているのか。それが悪だと知ってか知らぬか、皆一様に好奇の視線を集めている。
「……っ」
悍ましい。はっきりとそう感じざるを得ないような大衆心理に、私は思わず身震いしてしまう。ぎらぎらと輝いているはずの好奇の瞳には、無機質な程に闇が広がっていて。そこには光など一筋さえも見当たらないのだ。
初めて感じる、人心への恐怖。人が、両親がこのような姿になってしまっているというのに、それでもこの者たちの関心は飽くまでも表面にあるこの光景にしか向けられていない。この国の民の冷め切った心には、人の死さえも酷く二次元的に映ってしまうのか。ここは、この光景は、画面の先にある作り物でもなんでもないというのに。
……だめだ、感傷的になっては。思考を休めるな、思索を巡らせろ。論理的に物事を知覚するんだ。今はその時じゃないから。まず、今したい事、しなければならない事を明確にし、順を追って達成していこう。
今私がしたい事。それは、犯人への報復と律人の修復、そして……二人の蘇生。だって、おかしいじゃん。ただ私へのプレゼントを買いに来ていただけの二人が、なんの脈絡もなく唐突にいなくなるなんて。私には自分の心を偽ってまで、二人の死を受け入れるなんてそんなの、到底できる訳がなかった。
今私がしなければならない事。それは、この場からの離脱と二人の付き添い。客観的に考えれば、子供がこんな場所にいてはいけない事は論ぜぬとも分かっていた。ならば、それも兼ねて、身元の確認が済むまでの間だけでも二人の傍にいるべきだろう。
となれば、これからの行動の順は『一.両親と共に遺体収容所へ赴き、二人の身元を保証する。二.犯人の情報をできるだけ多く集め、同時に誘拐のための計画を立てる。三.律人を修復する。四.諸々の準備を整えて計画始動。五.両親と犯人誘拐後、そいつを被験者として蘇生の研究を開始』このようになるだろうか。思考はまとまった、後は実行に移すのみ。
運ばれていく二人に声を掛けながら、自然な動作でそのまま車両の中まで着いていく。見ていられない、とばかりに顔を背ける周囲の大人たち。よかった、邪魔だとかなんとか言われて追い出されるかと危惧していたけれど、そうはされないみたいだ。
車両に揺られている間も必死に声を掛け続けた。瞳に涙を滲ませ、時には嗚咽も漏らして。肩から下の全てが潰れ、もう誰の目から見たとて死んでいるはずの二人に。これで、周りからの評価は “両親が無惨に亡くなってしまった哀れな女の子” になっているはずだ。多少ならば不自然な行動を取ったとしても、哀れみの視線が邪魔をして深く怪しまれる事はないだろう。
住所や連絡先など、個人情報の諸々を訊ねられたので、一枚の用紙に必要であろうと思われる情報を揃えて記載し、私たちを運んでくれた警察官の方に渡しておくなどをした。ある程度の身元の確認も済んだようなので、名残惜しいけれど、これより帰宅し、予め集めさせた情報の精査を行わなければ。
頭の隅で計画の概要を構築しつつ最短経路を辿り、可能な限り急いで家に戻る。到着したのはおよそ三〇分後。ある程度は計画の構想もまとまりを見せてきた。
部屋に上がり、すぐさまパソコンに目を通す。命令を下し、無造作に並べられたこの情報たちを属性や時系列などでグループ分けし、より確認の取りやすい状態へと持っていく。作業が完了するまで数十秒。その間に深呼吸を繰り返し、精神を落ち着けようと試みる。ハイになっていては正常な判断も難しい。無理に理屈っぽくなるのではなく、心を落ち着けた状態で論理を積み立てる事が何よりも肝要なのだ。
何度か肺に空気を入れて心も整えられたところで、進行度の表示されたウィンドウがすっと音も立てずに画面から消えた。どうやら作業が完了したようだ。早速確認作業に入るとしよう。
映る様々な資料一通りに目を通した。集まった情報によると、容疑者は三〇代無職の男性。名前は本間聡。爆弾による爆破が起きてすぐの段階で自首してきたみたいだ。爆破の動機は「自分がこんなにも惨めな思いをしているのに、大勢の人間が楽しそうにしているのが許せなかったから」だとか。それにしては爆弾による施設破壊という実に計画的な犯行な訳だけれども。しかも、そいつは「自分でもどうしてそんな事をしたのか分からない」とかほざいているらしい。そんな薄っぺらい理由で、こんな掃き溜めに捨てられたような人間にたくさんの人が。お父さんとお母さんが。
今一度、二人の死に顔が瞳に差し込む。とても優しげな表情の裏側に一体何を想っただろう。一人娘と同じ顔をしたただの人形を抱いて、何を想っていただろう。そんな考えが頭から離れない。
ふつふつと込み上げるのは、北極の海すら煮え滾る程の途方もない怒り。同じく心に湧き出すのは、地中深くのマグマすら一気に固まってしまいそうな程、途轍もない憎しみ。怨恨の念が弾けては周囲を侵食して、私の全てを飲み込んでしまいそう。
「……いや」
そう感情の湖へと沈み、波に揺られ、ふと思う。どうして私が怒らなきゃ、恨まなきゃいけないんだ、と。こいつにはそうしてやる程の価値もないのに、何を私は心を動かしているのか。ああ、そうだ、そうだった。怒るでも恨むでも、ましてや哀しむでもなく、私はただ淡々と、先に決めた事物を全うするだけ、ただそれだけでよいのだ。ならばこそ、今するべきは一つ。今回の容疑者とされる男、本間聡を誘拐する手立てを整えなければ。
今現在立てているこの誘拐計画は、なんのためにあるのか。ずばり、研究と報復のためだ。ここで言う研究とは、即ち死亡した人間を蘇生するための研究を指し、彼にはこの研究の被検体になってもらう予定だ。無論、苦痛を与える事も目的の一つなので、麻酔を少なく投与した状態での解剖実験なども予定の内だ。データが手に入って苦痛も与えられる、正に一石二鳥。しかし、容疑者を誘拐するとなると、警察の目がある以上、一般人を拐かすよりも尚リスクが大きい。それを解消できるような策を今から考えていきたい。
まず第一の関門、留置場への潜入。普通に考えて警備員くらいいるだろうし、中にはたくさんの人がいるはずなのだ。そう簡単に潜入させてくれるとは思えない。また、私は子供である上に被害者の親族だ。正攻法で行っても現段階で被疑者に会わせる訳には行かないはずなので、正面突破も難しい。
次に第二の関門、居場所の特定。留置場にいるであろう事は自首をしたという情報から分かるのだが、肝心の部屋の位置が判然としない。留置場の間取りなどはいくら調べても出てはこず、ここまで悩みの種となっている。
最後に第三の関門、容疑者の誘拐。これまでの関門二つを突破できたものとして考えても、彼を連れ出すにはあまりに人目が多すぎる。彼と同じ部屋にいるかは分からないけれど、扉付近には人がいると推定される上、監視カメラなどによって彼を監視している可能性は限りなく一〇〇パーセントに近い。また、これらも突破して誘拐自体には成功したとしても、公共交通機関や市街など、至るところに点在するカメラの情報から居場所が特定される可能性が高く、自動車の運転が難しい私には荷が重いと言わざるを得ない。無理矢理に突破しようとすれば、それはテロ行為となってしまうと思われ、確実に身元の特定が為されるであろう。
ここまで計画を実行する上で壁となる事物を枚挙してきたが、どうだろう。上手い具合いに解決できそうだろうか? 非常に難しいところだと考える。一つ目に関しては光学迷彩スーツがあるのでなんとか問題なく行けそうではある。が、しかし、問題は二つ、三つ目だ。光学迷彩スーツを装着したからと言っても、足音が消える訳でも呼吸音が消える訳でもない。バッテリー切れに焦って駆けるなどしてしまえば、すぐに訝しまれてしまうだろう。また、三つ目に関しても、スーツによって周囲から見えなくなったとしても、一度扉を開けてしまえば疑惑を抱かれ、調査の末にばれてしまう、なんて落ちが目に見えている。万一そうはならずとも、その状態で彼を連れ出せるとは到底思えない。やはり、勾留されている間は成功率が低い上に危険が大き過ぎるようだ。ならば、留置場から出てくる日程を調査して待ち伏せが無難か。
留置場から解放されるにしても、どこかへ移送されるにしても、結局は外で無防備になる瞬間があるはずなので、そこを光学迷彩スーツを着用した状態で忍び寄り、誘拐を実行しようと思う。現在はまだ取り調べなどの事実確認の段階にあるため、移送時期などは未定かと予想するが、自首をしているという事なので、それも時間の問題だろう。
しかし、恐らくこれらの情報はいくら合法的に調べたところで判明する事はない。そのため、拘束されている可能性の高い都内の留置場、そこのパソコンやカメラなどを乗っ取って密かに情報を共有させようと思う。これからは勝負の時間だ。
向こうにウイルスを仕込むなどして情報を盗み見
てみたところ、彼はとある一室で詰問されている事が分かった。調書は未だ作成中のようで、進行具合を鑑みても、彼の解放ないし移送はまだ余裕があるだろうと思える。では、この間に律人を修繕しておこう。
夜さり、律人の修繕作業が完了する。動作確認をして正常に動くかどうかも確かめ終えたので、これで完璧と言えるだろう。しかし。そう思考して鏡に目を送りやる。見れば、煤やら埃やらで全身が酷く汚れてしまっていた。折角お風呂に入ったというのに、これじゃあまた入り直さなければならないではないか。
それと、留置場の方から受け取った情報は全てAIに精査させ、望む情報を得られた場合やウイルスを忍ばせた事がばれた場合に報知音を鳴らすよう、設定など諸々を弄っておいた。また、その際、あちらとこちらとの繋がりを切断するようにした上、別の端末にもそれらを報せる通知を送るようにした。これで、リスクは最小限に抑えられたはずだ。
「ねえ」
一〇年前の私は。私は、こんな時、どうしたのかな。あの頃の私なら、二人の死を真正面から受け止められたのかな。それとも、今の私のように精一杯足掻いていたのかな。
「例えそれが犯罪者でも人のために、か」
ずっと胸の内に抱いてきたこの信念。何を思うでもなく確信めいたように疑いもしてこなかったけれど、ようやく分かった。私はどうあってもそんな高尚な人間にはなれない。それなら、もう、いい。私は他の誰でもない私のために、我欲を貫き通すのみ。
「私は、自分のエゴに正直に生きていく」
新たに心に剞むのは、己が抑圧された想いを解放せしめるたった一つのお呪い。途端に移ろう魂の色に得も言えぬような違和感を覚えるも、しかし、それは些事たるもの。たちまちに過去を切り捨て、現在すらも踏み台にして、先んじて未来の予感を生きるのだ。
変化とは、望むように自分の手で物事を導いていく事。それはさながら、無数の糸の中からある一本を手繰り寄せるかのように。自己の揺らぎなどという隔離された動きなんかには気にしてやる価値もない。だから、そんな思考などは昨日の向こう、またさらに向こうにまで放り投げ、意識の外へと追いやるのだ。この、新たな信念、ただそれだけを胸に掲げて。
がらっ。そう一つの騒音を立て、ペンケースからノートとシャーペンを取り出す。一先ず、今できる事だけでもしておこう。そうして、蘇生をする上でのアプローチの仕方を模索するため、頭に浮かぶ全てを紙に書き出していく。しかし、ただの蘇生法では意味がない。肉体のほとんどを損失している患者の蘇生が可能な方法を確立しなくてはならないのだ。
臓器に関しては人工臓器やオルガノイドでなんとかなる。骨格や筋肉は機械で再現が可能だが、血液を生成する力や成長する力など、様々な面で問題が生じるだろう。各種ホルモンを生成ないしは全身へと巡らせる力がないため、ホルモンバランスの乱れによる体調の悪化も予想される問題の一つである。また、定期的な充電やメンテナンスが必須なので、怠けてしまったら命に関わってしまう。
脳に関しては、私の持つ技術を駆使すれば、時間を掛けさえすれば記憶や性格の再現は可能だ。方法も様々なので、状況に合わせて行える。しかし、もう既に二人の脳は少なくとも四時間以上は無酸素、無栄養状態にある。記憶や人格に関する部位や情報が一部破損していたとしても不思議ではない上、重大な損傷が発生している可能性も否めない。そうなれば、いくら私の技術といえども再現は不可能だ。
家にある設備ではガラス化保存法を筆頭に、様々な方法による臓器の長期保存が可能だ。ラットを使用した実験では、一〇〇日を超える期間の間冷凍保存していても移植には大きな問題は起きる事なく無事成功した。だが、しかし、既に大きな傷がついていた場合にはどうしようもない。その場合は……割り切るしかないだろう。
けれど、ここまで散々「難しい」と並べておいてなんなのだという話だけれど、二人の脳に代わりはないと私は思っている。人は確かに蛋白質の塊で、電気信号によって動くただの機械。それは分かる、分かっている。けれど、それでも、私は敢えて言おう。記憶や人格をコピーしたところで、それはただの代替品でしかないのだ、と。そこに人の心が、信念が、魂があるのかと、そう私は問いたい。ただの複製品でしかないそのロボットに、二人の想いが宿っているのだろうか。誰にどう問うたところで、この問いへの確固たる答えは見つからないだろう。だからこそ、私は私の正義に則って、例え記憶や人格が壊れていたとしても、蘇生には二人の脳そのものを使う道を選びたい。
葛藤の末に出した答えに否やを唱えるかのように、頭の中で誰かが声を大にして問うてくる。
(二人を蘇らせるなんて事、本当にできると思ってるの?)
ははっ、本当にできると思うか、だって? 愚問だ。けれど、敢えて言葉にするのなら、無論、思っていない。思っている訳がないだろう。だって、だって二人の身体はあの様だ。頭、首、肩、腕は残っている。けれど、それ以外の人体に必要不可欠な臓器の全てが失われているんだ。長時間の無酸素状態で脳に蓄えられた情報も失われつつある。冷凍保存をしたとて、今から始めるんじゃあほとんど間に合わないに決まってる。
(なら、どうして?)
それこそ愚問だ。どうしてか、なんて答えは一つしかない。だって、諦め切れないじゃん。どれだけ不可能に近くても、どれだけ無謀な行いだったとしても、挑戦するのとしないのとじゃあ天と地よりも大きな差があるんだから。
今から死ぬ気で研究を重ねて、それでも、二人が生き返る確率が一〇億分の一パーセント程度にしかならなかったとしても、私は諦めない。ほんの少しでもそこに可能性があるかも知れないのに、それを端から諦めていては望みを叶えられる確率は〇パーセント、確実な不可能しか手許には残らないじゃないか。そんなの、私は御免蒙る。 “絶対” “確実” “必ず” ──この言葉がない限り、私が諦める事は絶対にない。
(……そっか)
その声は納得したように、ワンテンポ遅れてそう零す。声色はそのままに、それは続けた。
(あなたが歩むのは、きっと荊の……ううん、それよりももっとずっと過酷な道程になる。だから、これは私からのほんのささやかな餞別)
いきなり何を言っているんだ。そう思ったと同時、その音が私の脳を揺さぶった。
[対象:霧矢冴智の蕾が神呪<次元跳躍>へと開花しました。]
[<次元跳躍Lv.1>の権能は以下の通りです。
・一日一回の視界内の場所への転移
・一度だけの未把握の場所への転移
・五次元までの空間の認識、適応]
……………………待った、意味が分からない。必死に思索を巡らし、頭蓋に流れた無機質なその声の内容をどうにか飲み込もうと試みるも、やはり理解が追いつかない。ようやく思考が言葉として上がってきたと思ったら、出てきたのは心底理解を拒むようなその言葉。
実際のところ、本当にこれはどういう意味なのだろうか。とうとう気でも狂ったのかとも思いはしたけれど、どうやらそういう訳でもない。自分の心の底のそのまた奥底まで意識を巡らしてみれば、それがあるのだ、という事をありありと感じるのだ。神呪と言っただろうか、これを、あの声は。これは一体なんなのだろうか。
正体不明、奇々怪々なその感覚に戸惑いを隠せずにいれば、哀れな子羊を導くかのように、それは言った。
(それは、あなたの持つ可能性)
幼くも静謐なその声は、紡ぐように一つ一つを音に変えていく。
(可能性の糸は無数にある。さながら、夜空に浮かぶ星のように。それは、その内の一糸。あなたが今、最も必要としていた可能性)
淡々と、けれども暖かみを帯びる優しげなその声に不思議と心を開いてしまいそうになるが、そこはなんとか理性で留まる。要は、私がこの神呪とやらを望んだから、それが芽生えたのだと言いたいのだろう。しかし、使い方が分からないうちは幻とそう大差ない。
(私が言えるのはここまで。後はあなたの努力次第。成功を祈ってるよ)
そう言うや否や、その声はすっかりとその気配を断ち、一切の痕跡も残さずに後にした。結局、使い方については何もなし、か。努力次第と言われても……。困惑の念が後を絶たないが、一先ず、真偽を確かめよう。話はその後だ。
神呪というものが実際にあるのだろう事は先に感じた謎の感覚から理解した。しかし、実際にそれがどういったものなのかは使ってみなければ分からない。危険もある可能性を考慮し、ノートに記述した情報を整理した後はお父さんとお母さんの脳を回収しに行って、今日は就寝としよう。
そうして、精査を終えた私は、遺体収容所へと忍び込んで両親の遺体から脳を持ち出し、それを自宅にて灌流、冷凍保存を行うと、色々な問題に頭を抱えながらも、ほんの僅かな一縷の希望に想いを馳せて眠りに就いた。
◇◇◇
翌日。今日は神呪が果たして使えるのかどうかの確認作業のため早朝より活動を始め、現在時刻は午前一〇時。万が一を考え、周辺に何もない山へと来ていた。
この山は数年前に私が購入して以降、様々な実験に使用していたもの。そのため、不法侵入などではないのでそこは安心してもらいたい。まあ、つい昨晩、不法侵入を犯したばかりなのだけれども。
さて、それでは検証開始と行こう。
確か、あの時に頭に流れてきた声によると、転移は一日に就き一度、視界に映る場所へと行う事ができるようだ。また、一度だけ行えるという “未把握の場所への転移” が果たしてどういった意味を持つのか。時期指定がない事や前文との比較から、恐らくは視界に映っていない場所へも、一度だけなら転移する事ができるのだろうと予測されるが、それが本当なのだとすれば、簡単に試す事はできない。視界内転移に関しても、日に一度しか行えないのでデータを揃えるのに苦労しそうだ。
「いくら理論を組み立てたところで、結果がなければ机上の空論か」
これ以上は考えても無駄だと判断し、私は思考の焦点を神呪の使い方の探究の方へと切り替えた。
意識を自分の底の底、さらに底まで沈ませる。すれば、まるで湖に落ちたかのように重く冷たい感触を全身に受ける。目的のものを探るためにその冷たさの中を泳いでいけば、きらりと僅かに光を反射するものが目に入った。見つけた。しかし、これを一体どうしたものか。
視界に映った場所へと移動するという話だったので、なんとはなしに二〇メートル程先を見つめ、神呪を意識しつつ、そこへ転移するよう念じてみる。すると、どうだ。一瞬ぐわんと視界が歪んだかと思えば、先程まで見つめていたその場所へと私は移動を果たしていた。いきなりの事に少々驚きを覚えつつ、こんなものでいいのか、と同時に肩透かしを受けた気分だ。念の為、もう一度転移できないか、と先の感覚を再現してみるも、今度は失敗。何も変わらなかった。どうやら、無機質なあの声が言っていた事は正しかったようだ。
となれば、だ。未把握の場所──視界に映っていない場所へも一度だけ転移が可能だ、という話も恐らくは本当。しかし、それと私の望みが一体どう合致するのだろう。うーん、と唸り、頭を捻る。
「二人を蘇らせる事と転移の関係……或いは、容疑者誘拐の手立てとの関係か」
利用の仕方が実に曖昧だ。考えを整理するためにも、三つ程例を枚挙してみるとしよう。
一つ、現実的な案。転移を使って容疑者を誘拐し、身を潜めつつ研究に励む。二つ、短絡的な案。転移をした先に欲しかった蘇生法が存在し、それを覚えて施術する。三つ、突飛な案。本当はあの時に言っていた “五次元までの空間の認識、適応” が本命で、それを駆使して二人を蘇生する。
こんなものだろうか。三つ目に関してはないにしても、一つ目、二つ目はどちらも可能性がある。特に、一つ目はそれが高い。だが、しかし。昨日も一度思考したけれど、蘇生の研究に長い時間は極力掛けたくない。脳の保存がどれだけ可能かが不明瞭だからだ。腐敗はまだ起きていないと仮定したとしても、情報の欠落が起きている可能性は捨て切れない。保存期間中にそれが発生する可能性だって残っている。また、学校もあるので、出席しなければならない分、時間が取られてしまう。そんな中で研究をできるだけ早く完成させなければならない。そのため、一つ目の案ができないのなら、二つ目の案に懸けるしかない。
一番最悪なパターンは、「適当に力はあげたから。後は自分でなんとかしてね」という場合。その場合、どう足掻こうとも目的に繋がらない可能性があるので、思索を巡らせたところで無駄となる。私が最も必要としていた力、というあの声の言葉を信じるしかないだろう。
また、現実的な案として出しはしたけれど、数日で新たな蘇生法の確立なんてできる訳がないので、最終的に残るのは二つ目の案となる。半ば賭けとはなるけれど、それに期待するしか道はないだろう。しかし、これでは犯人への報復ができないな。何か別の形で為せるよう、考えておかなくては。
「ああ、そうだ」
一応、未把握の場所への転移というのがどういった形式で行われるのか、確認してみよう。視界内へのものと同じなのであれば、恐らくは座標指定でもしない限りは転移は起こらないと予測されるが、果たして。
意識を心の湖へと潜らせ、神呪を知覚し、どこか知らない場所への転移を希望してみる。
────────────────────────
消失世界を離れますか?
[NO][YES]
────────────────────────
すれば、このような画面が私の目の前に現れた。音もなく現れたそれに記された言葉、 “消失世界” 。文脈からしてこの世界を指す語のようだが、どうして消失世界という名称なのだろうか。また、一体誰が命名したのだろうか。まあ、しかし、今のはただの確認作業の一環でしかない。ここは一先ず[NO]を選択しておこう。映された画面に対して[NO]と念じてみれば、この文字が一瞬光ると同時、ひゅんと画面も閉じられた。続けて、新しく画面が開かれる。
────────────────────────
テレポートを行いますか?
[NO][YES]
────────────────────────
こちらも[NO]を選択。同じようにひゅんと画面が閉じられるが、特に何か起きる様子もないので、少なくとも今は警戒を解いて問題なさそうだ。
さて、神呪の確認作業も終わった訳だけれど、初めに想定していたよりも随分とあっさりと終わってしまったものだから、かなり大きく時間が開いてしまった。ここでできる事もそう残っていないので、入れていた予定を早めて行う事としよう。
再び電車に揺られて数時間、帰宅を果たす。移動中、祖父母からの電話があった。警察から連絡があったようで、内容は、葬式について。特に、参列するのかどうかというのが主のようだった。
「辛いなら無理に出ようと思わなくてもいいからね」
「こういうのは大人の仕事だ、我慢しなくてもいい」
二人は私に無理をしないよう言うけれど、私が返したのはそれに対する否定の言葉。
「ううん、行くよ。両親の葬式に娘が行かない訳にはいかないし、寂しい思いをさせたくないから」
二人の優しさに心を震わせながら、それでも自分の気持ちを伝える。そうか。二人は私の意志を尊重するように、けれども心配そうに零し、言った。
「それじゃあ、私たちも色々やらなきゃあならない事があるからな。そろそろ切るな」
「でも、変に気は遣わないで、いつでも頼ってくれていいからね」
「うん、ありがと。またね」
「ああ」
「はい、またね」
ああ、それと。彼らはそう繋げて最後に一言。
「「誕生日、おめでとう」」
その言葉を残し、通話を切った。
一瞬にして呼び起こされた、これまでの記憶。山も谷もあったけれど、それでも充実した日々だった。真っ白な朝焼けに染まるように、辛い事全てを上から喜楽で書き換えていってくれていた。いつしかそれは温かみを帯びていき、張りに張った私の緊張をゆっくりと解かしていった。
呼応するかのようにどくんと一つ心臓が唸る。言葉に詰まり、息が上手くできない。徐々に表情が歪み、目頭に熱が灯っていって。瞳が湿り、滴は頬を伝い落ちた。
「……ありが、と……っ」
がたんごとん、がたんごとん。辺りに響いていたのは、聞き慣れた電車の走る音──。
現在。赤く泣き腫らした瞼を尚も擦り、視界に掛かる長い髪をしゅばばっと後ろで一つにまとめる。まずは方針を決めていこう。
まず、二人の遺体から脳を取り出した時点で、それ以外の全ての器官を機械として作成する事は決定づけられている。しかし、今現在、それを作るための材料が底を突いている。そのため、材料を仕入れる所から始める必要があるだろう。また、その後は学生生活と研究、開発を両立するため、睡眠時間はあまり削れないにしても、その他の不必要な時間一切は削る事となる。
ならば、これからは『蘇生法の案を出しつつ、機械部分の材料や部品を調達。犯人の解放または移送時期を特定し、タイミングを見計らい誘拐。その後は書き出し作業を主とし、犯人を使った実験を重ねて研究を行う』を今後の行動方針とする。もちろん、授業中も可能な限りは研究の理論考案の時間に割くつもりなので、極力無駄を省くスケジュールを立てる事が肝要だ。それに、いつ二人の脳が利用不可能となるか見当をつかない現状、あまり悠長に過ごしてはいられない。一刻も早く行動に移さなければ。
そうして、私は犯人の移送が明日の午後に決定された事を確認してから、素材や材料となる部品を買いにホームセンターまで足を運ぼうと、玄関でスニーカーを身に着ける。靴紐を結き、扉の取っ手に手を掛ければ、ぴんぽーんと不意にインターフォンが鳴り響いた。
「? 誰だろ」
はーい。無警戒にも外の様子を確認する事なく、そう声を掛けながら私は扉を開いてみせた。
「どちら様、です、か……っ!?」
私は目を見開き、その顔を驚愕の色に染め上げた。何故か。扉の前に立っていた人物が件の容疑者たる男、本間聡その人であったから。
驚愕のあまり一瞬固まるも、すぐに正気を取り戻す。須臾にして立ち上がり、彼の右脚に左脚を掛けてそのまま重心を崩して後ろへと倒してやる。瞬時に前転して馬乗りになり、そのまま倒れた彼の眼窩に両の親指を突き刺した。
「?!!」
しかし、どうしてか、指が僅かにも刺さらない。その上、体がぴくりとも動かないのだ。どう力を込めてみてもそれは変わる事なく、私の体は依然拘束されたまま。
なん、で……! なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんで!!!! 今目の前に仇がいるのに、なんで動かないんだよ!!!! 最早怒りに我を忘れたような状態で、怨嗟の念を滲ませながら全身全霊で抗う。けれど、それでも、全く、全く動く事はない。どういった原理なのかも分からないその現象を前に、彼は別段驚いた様子もなく対応してみせる。
「所詮は欠片にも満たぬ砂粒か」
どういう意味なんだ、などとは考える暇もなく、私は空高くへと吹き飛ばされた。ものすごい勢いで中空を進んでいき、身体には途轍もない程の重力が襲い掛かる。息もできない程に掛けられた圧力は、一瞬ぐんと跳ね上がると同時、ぴたりと止んだ。急停止したのだ。しかし、ここは空の上。予想とは反する結果に何が起こっているのかと困惑していれば、唐突にそれは訪れた。たった今通ってきた道筋を遡るように、私の体はぎゅいんと方向転換を始めたのだ。
あまりに物理法則から外れてしまっているこの現象を前に、場違いにも私は言い知れぬときめきを覚えてしまう。すれば、受け身の準備もしていないのにいつの間にか地面は近づいて。咄嗟にそれを取ろうとするも、しかし、無駄に終わる。先に方向転換をした時のようにぐんと圧力が掛かると同時、私は玄関前の空間に固定されてしまった。
「〜〜〜〜」
酷く振り回されてしまったためか、耳の奥からぐわんぐわんと音が聞こえてくる。そのせいで、彼が何かを言っているにも関わらず何も聞き取れやしない。一先ずはこの拘束を解かなければ、と体中に力を込める。けれど、やはりというかなんというか、全くそれが解ける様子などなく、ぴくりともしない有様だ。
次第に聴覚が戻っていき、聞こえていた耳鳴りも徐々に薄れていく。
「親の脳はどこだ」
彼がなんと言っているのかも理解できるようになると、今度もまた奇怪な出来事が起こった。
「私の部屋に置いてある冷凍庫。そこにある」
ぐにゃりと一瞬視界が歪んだかと思えば、答える気のなかったこの問いに対してぺらぺらと簡単に口を割って話してしまったのだ。はっと慌てて手のひらで口を押さえようとし、まだ動けないのだという事を思い出す。私の返しに何か一つを発するでもなく、眼前の彼は無表情に家内へと歩み始めた。それに続くようにふわりと私の体は宙へ浮き出し、彼の背を追う。
「これか」
二階にある私の部屋に土足で踏み入る本間聡。こくり。彼の問いに私は一も二もなく首肯してしまう。そこに抵抗の余地など一切ない。どうして教えた? どうして答えた? どうして奴に? どうして? 湧き上がる疑問の渦に、それでも隠せぬ程の怒りや憎しみが溶け込んでいる。思考の端々にそれが滲み出て、一層思索の海を濁らせた。
奇々怪々なこの現象の原因は今は置いておき、どうして彼がそのような事を訊ねたのかを探ってみる。大体にして、彼が家の住所をどうして知っているのか甚だ疑問だ。爆破の動機は警察への供述とは違い、初めから私たちに対する何かしらの目的があったと考えざるを得ない。そう考え、思考に思考を重ねてみるも、そこに答えなどあるはずもなく。ならば、と、私は動機ではなく結果を予想する方へと舵を切った。
大勢の人を巻き込みながらも、お父さんとお母さんを狙った理由。態々二人の脳の在処を知りたがる理由。それが本来あるべき場所から失われている事を知っている理由。秘密裏に探るでもなく、直接私に訊ねた理由。挙げられたそれら様々な要素が徐々に一本の線で結ばれていく。想像が想像を呼び、そうした果てに辿り着く、ある一つの可能性。まさか。まさかまさかまさかまさかまさか!?!!
「どれだけ細やかな法則さえも事物の基軸たる大きな歯車足り得るように、高々沙の一粒に過ぎない童でさえも、その身に大いなる使命を宿すのだ」
饒舌に舌を滑らしながら冷凍庫の扉を開く。そこには私の頷いたように、両親の大脳やその周辺組織が保管されていた。氷点下となっていて普通じゃあ触れる事すら儘ならないというのに、言いながら彼は涼しい表情をして平然とそれを取り出してみせた。
ゆるりとこちらに視線を落とし、彼は卑しめるようにその目許を濁す。やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ!!!! 舌を、唇を、回そうとするけれど、体と同様に口も喉も全く言う事を聞く気配はなく、抗議の声はただの一つも発せられる事はない。不安と焦燥が安寧に小石を投じ、次第にそれは小石から鋭く尖ったナイフへと変じていった。
「早急に役目を果たせ」
吐き捨てて、次に彼が行ったのは、私が危惧に危惧を重ねたその可能性。父母の脳を床に落とし、それをぐしゃりと踏みつけたのだ。さらにシャーベット状のそれを靴の底でぐりぐりと踏み躙り、しゃりしゃりとした音を立てながら見せつけるように、着実に形を奪っていく。
「ぁ……ぁ…………」
目の前が赤く染まる。かと思えば、墨を垂らしたように黒が侵食を始め、それを塗り潰すように白がその顔を表した。
「ああ、ああ……うああぁああああぁぁぁあぁああああ〜〜〜〜ッッ!!!!」
奇術が解けたのか、どさりと床へ落ちる体。目の前で繰り広げられた光景を信じるか信じたくなくて、信じる事ができなくて、それでも突きつけられたこの出来事から目を逸らす事ができなくて。気づけば、私は四つん這いとなって両の手で拳を握り、咆哮しながらただひたすらに床を叩いていた。
どんどんどんどん!! と何度も何度も叩き、その度に力強い打音が室に響き渡る。繰り返す毎に強くおどろおどろしい憎悪は大きく膨らんでいき、それはたちまちに私の心を覆い尽くしてしまった。そこに怨恨の色が混じり始めると、その矛先は自ずと対峙する男へと向けられる。床を叩くという私の行動は、ぎろりと目を見開いて敵を睨めつける、という風に変貌を遂げた。けれど、打音が収まったからと言って決して静かな訳ではない。
「ううぅうぅうう゛う゛ぅ゛ぅ゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛…………!!!!」
口角はぐっと真横に引かれ、歯は強く食い縛られている。咆哮は唸り声へと姿を変え、その様は正に、獲物を狙う飢えた獣のそれであった。例え声が発せられずとも、鬼気迫る表情が場の静けさを吹き飛ばしていた事だろう。
[対象:霧矢冴智のつ、つぼ、蕾が、がががが……ッ]
「それは許していない」
そう言って唸る私へ手を翳す彼。すれば、昨夜に訪れたものと同じ声が気味の悪いノイズを発しながらその口を噤んだ。そんな事ができるのか、とあまりの衝撃に一瞬我に返る自分がいる。あの声は自分にしか聞こえていないと思っていたし、干渉ができるものでもないと思っていたから。しかし、僅かに生まれたその隙が大きな命取りとなる。
「かはっ……?!!」
不意に鳩尾に大きな衝撃を受け、嗚咽を漏らす。四足の体勢で今にも襲い掛かりそうな私の鳩尾へ、彼が蹴りを入れたのだ。
手足がびりびりと痺れ、じんわりとした痛みが鳩尾から全身へ波及する。どうにか退避しようと試みるも、こんな有様では真面に動く気はしない。
「……どっ、どこだここ?! 俺は何を……」
突然、人が変わったように混乱した様子でそのように宣う本間聡。先程までとは明らかに違う雰囲気に、悶えながらも戸惑いを覚える。
「ひっ……な、なんだこれ!?!! くそッ、なんなんだよ畜生〜〜〜〜!!!!」
足裏に潜む違和感に、彼は自身の足許をそっと覗き込む。そこにあるのは、踏み躙られて四散した二人分の脳みそ。散り散りとなった破片たちから元はそうだった事を察したのか、顔どころか首許までもを青白く染め、彼は恐怖を叫んでそのまま走り去っていってしまった。
「ま……待て…………っ!!」
ああ、駄目だ。逃がして堪るものか、と必死に体に力を込めるけれど、健闘虚しくぼんやりと目が霞み出す。視界が大きく揺れ始め、体の自由に加えて平衡感覚すらも失いつつある事を理解した。
「待て……っ、ま…………」
幾度として呼び止めるその声もいつしか消え去り、麻酔に掛けられたみたいに私はその場で意識を手放した。
◇◇◇
目を覚ましたのは、二日後の昼だった。火曜日の、皆が今か今かと待ち侘びた給食の時間。父母の脳は相変わらずで、それが厭にあの時の出来事を現実のものとして突きつけてくる。
「…………は〜あ」
ごろりと寝返りを打ち、うつ伏せだったのを仰向けへと変える。数秒の後にそうして大きな溜息を吐くけれど、それも致し方ないだろう。一時の感情を切り離し、思考に思考を重ねて立てた計画を、文字通り踏み躙られたのだから。こうもあっさりと断念しなければならなくなるとは露にも思わなかった。計画の大本を潰されては、プランBもプランCも用意したところで泡沫に変わりないではないか。
「はあ……これからどうしよ」
学費と生活費のどちらとも、私の持ついくつもの特許から齎される収益で賄う事ができる。名義も口座もお父さん持ちだったけれど、通帳やその他の大事な物の保管場所は把握しているので問題はない。現時点でも好きな事だけをして生きる事が可能な環境は整っているのだ。けれど、これはそういった類の話ではない。親権を握ってくれる人を探さなくちゃならないし、遺産相続の手続きもしなくちゃいけない。葬儀にだって参列しないとだし、他にも色々やる事が山積みだ。ただ、今はもう、何も考えたくない。
しばらくの間、ぼーっと横になっていた。苔の生した岩のように、ただただじーっと。
疲れてきた首を正面に戻せば、そこにあった天井と目が合う。てんじょうか……。私も天上の世界に行けたらな……。そしたら、何も考えずに、何も感じずに済んだかな……。悠ちゃんと遊ぶ約束さえしなければよかったのかな……。
「いや、違う」
そうだ、違う。最終的な判断は自分が下して、それに則って動いたのは、他の誰でもなく、紛う事なく自分なのだから。人のせいにするのは屑のする事だ。自分まで成り下がるつもりか、あんな、あんな屑に。
「そうだ」
瞼を閉じ、あの時の記憶を思い返していた中でふと、それを思い出す。 “神呪” という名の超自然の存在を。そうだ、そうだよ。どうして今の今まで頭になかったんだ。一度捨てた選択肢だけれど、最早賭けるしか道がない。
あの時の声が言うには、神呪は私の望みの形、可能性の糸が紡がれたもの。それは即ち、どんな願いでも叶うという事。二つ目の神呪の覚醒は本間聡に阻止されてしまったけれど、それはつまり、私は少なくとも二つ以上の神呪を持つ事ができる、という訳で……。二つ目以降に蘇生に関する神呪さえ目覚めてくれればその時点で私の勝ちとなる。
まるで六等の星。けれど、それでも確かな希望の光。道は屍を乗り越えるか振り返らずに進み続けるかの二択のみ。実に夢物語のような話だが、それに頼るしか私にはもう残されていないんだ。何が起きるかも分からない、この籤に。ならば、私はここらで屍の山には風穴を空けるとするさ。それはもう大きな大きな風穴をね。大き過ぎて、そこにあった屍なんかは失くなっちゃったりするかもね。
心は固まった。後は、どんなところへ跳んだとしても生きられるよう、入念に準備をしなくては。怠った時点でそれは終焉への片道切符へと成り果てるのだから。
「なんとしてでも──」
──我が家を取り戻すのだ。
修正 2021/09/28
誤植修正
修正 2022/01/31
誤字修正
修正 2022/04/03
誤字修正
修正 2022/04/04
誤字修正
修正 2022/05/23
誤字修正
修正 2022/05/26
文章の一部修正
修正 2022/06/05
誤字修正
修正 2022/06/30
<次元跳躍>のアナウンスの修正
修正 2022/10/29
誤字修正
修正 2024/09/14
本文の大幅修正
修正 2025/01/14
誤字修正
修正 2025/03/12
誤字修正