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救出という名の──  作者: 五月雨
序章 -彼は誰編-
3/21

第三話 黒き悪夢

 両親に英語の教師を就けてくれ。そう頼んで一週間が経過した。家庭教師はお父さんが知人数人に当てはないかと聞いて回って見つけた、知人の親戚の人物のようだ。その人物は早速という事で、昨日から我が家へ訪れる事となった。

 始め、お父さんから説明を受けた時はてっきり小学生や中学生が相手だと思っていたらしく、机に向かう私を見た瞬間に目を白黒とさせて固まっていた様子は今でもくすりとしてしまう。

 そして、現在はその人物に教わりつつ、英単語の意味や発音、文法や文として構築された際の抑揚の変化などを学んでいる最中だ。やはり、人としてのそれぞれに対する考え方の違いが勉強の仕方や暗記方法など、様々な違いに発展しているのがまた面白い。


「えっと……」


 聞き取り能力を上げるための音声を聞き終えた私がそう唸れば、どこか分からないところでもあった? と優しげに訊ねられる。分からないばかりで半分程度しか聞き取れなかった。その内理解できたのはさらに半分だ。唸るのも仕方ないだろう。

 しかし、それを分からないのまま放置しない。私はもう何度かその音声を聞き、知らない単語があった場合などに家庭教師に助言を求め、なんとかその英文の意味を理解する事に成功した。

 疲労が凄まじいが、後一時間程度は勉強を続けると決めている。多様性の素晴らしさに感動を覚えながらも、私は勉学に勤しんだ。



 ◇◇◇



 翌日。今日も今日とて私は勉学に励んでいた。ちなみに、本日は家庭教師の訪れる日ではないため、教科は英語ではない。

 先生と勉強するのが嫌という訳ではないけれど、一人で勉強する、というよりも一人でいる方が気が楽ではある。彼との距離感が未だ掴めずにいるからだろうか。


 朝、起床して朝餉を済まし、勉強を始める。そうして正午を回り、食事を終え、再度机に向かった。徐々に集中力も上がってきたと自覚し始めた辺りで、()が現れた。


「そっち行った! 早く! 早く殺して!」

「あっ、ちょっと!? お母さんドア閉めないで!」

「嫌あぁあああ! 着いてきてるうぅうう! 来ないでぇえええ!!」


 奴。そう、(やつ)である。

 私は節足動物の類が全般苦手なのだ。海老や蟹といった食用にされている甲殻類たちも、私に言わせれば虫と大差ない。彼らは海に棲まう虫である。

 そんな私の許へ、そいつは姿を現したのだ。大罪である。そして、頭ではこのように冷静に振る舞ってはいるが、実際にはこうである。


「嫌ぁっ!! 嫌ぁああぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!!!!」


 我ながら、なんとも情けない。高々虫けらの一匹が私の方へと寄ってきた程度でこの様だ。声を上げて涙を流し、必死に四足で逃げ惑う。この焦茶色は私の移動速度よりも幾分かは速いという事を知っているはずなのに、それでも逃げたいと思うのは人の性とでも呼ぶべきか。

 焦茶色が私の方へと迫っており、お父さんと私が部屋からまだ出ていないというのに、お母さんが扉に鍵を掛けてしまった、というのが現在の状況。どれ程絶望的か、こいつが嫌いな人類ならば誰でも理解できるはずだ。

 

「スプレー! 確かあっちにスプレーあったよね?!」


 お母さんが殺虫スプレーを取りにこの場を離れようとする。扉を施錠したまま。


「スプレー探しに行く前にドア開けてーッ!!」

「開けてくれないと死ぬ! 死んじゃうからあぁぁああああ!!!!」

「嫌! だって開けたらこっち来るかもしれないじゃない!」


 全力で抗議をして解錠を求めるも、結果はこの通り。彼女は聞く耳も持たずにここから離れようとするのだ。その意志は固く、まるで希望のためならば少しの犠牲すらも厭わない軍の指揮官のようとさえ思える。


「ドアの下に隙間あるから開けても閉めても変わらないよ!」


 そう。お父さんの口にした通り、開閉しやすくするためか、扉の下には数ミリメートルの隙間が存在する。それは、恐らくこの焦茶色が通り抜ける事ができてしまいそうな隙間であり。


「それでも閉めてた方が安心するから!」


 一切こっちの言い分を聞く気はないみたいで、お母さんはお父さんの言葉にそんな非合理的な言葉をぶつけた。


「こっちはちっとも安心できないよ!」


 精神が徐々に限界へと追い詰められていき、余裕を失っていく。そのために、体力の限界で逃げる事も儘ならなくなった体で精一杯の反論を見せる。それに便乗して、お父さんも弁を並べた。


「お願いします開けて下さいなんでもしますから!」


 え、お、お父さん……? 今、なんでもって……。私に働く嫌な予感は確実な現実を手繰り寄せ、それを的中させてしまう。


「じゃあスプレー取ってくるまでそこで待っててね!」


 そう言い残し、彼女はその場から走り去っていってしまった。この場合のお父さんの罪は相当に重い。そう仄かな恨みを抱き、お母さんが戻るまでの数分の間、狭い部屋の中で必死になって逃走を図った。

 やばいやばいやばいやばい、またこっちに来た! なんでそんなに私の事狙うの?! もういいでしょ? お父さんの方行ってよ!! そろそろ死ぬよ? 死んじゃうよ? 心の中で様々な呪詛を吐く。そろそろ最終手段を実行する時が来たのかも知れない。っと、本格的に不味い。焦茶色が目前にまで迫ってきてしまった。

 焦りが心中を支配する。恐怖、嫌悪、不快感など、無数の負の感情がそれに付随する。羽を広げてこちらへと向かいくる悪夢。これが本当に夢だったならどれ程よかっただろう。そうやって目の前の事象からは目を背けてする事といえば、現実逃避。

 もうすっかり逃走を諦めてしまった私の耳に届いたのは、この言葉。


「死にさらせ!!」


 同時、ぱしーんという小気味よい音が響く。ベランダ用のスリッパだ。それで勢いよく叩かれた焦茶色は、それでもあまりダメージの入っていない様子でそこから逃げようとする。


「離れて!」


 お母さんの指示に従い、その場から離れる。すれば、ぷしゅーという音と共に白っぽい煙が目の前に振り撒かれた。どうやら、殺虫スプレーを探し出してきたお母さんが戻ってきたようだ。


「はぁ、はぁ……っ、これで大丈夫でしょ」

「いや……」


 どこか嫌な予感がして、私とお父さんが焦茶色の方をそっと振り向く。その瞳に触れるのは、白煙に当てられた焦茶色が尋常ならざる勢いで床を這いずる姿。


「嫌ぁ! 冷凍スプレー使わないとこうなるじゃんってッ!!」

「ちょっと! こっち来ないで!」


 がちゃ、かちっ。その場から逃げるように四つの足をばたつかせ、そのまま開いた扉から廊下へと向かった。お父さんも私に続いていたのだが、そんなものはお構いなしとばかりに、お母さんは私が部屋を出てすぐに扉を閉じ、施錠までしてしまった。


「え、ちょ!? まだ俺いるんですけど!!」


 扉の向こうから猛抗議の声が聞こえてくる。扉を開けようにも、私では体が小さ過ぎて届きやしない。そのため、お母さんに頼むしかないのだが……。


「冷凍スプレー探してくるから待ってて!」


 そのお母さんときたら、そう言い捨てるなり二階の物置部屋まで走っていってしまった。こうなれば、もうどうする事もできない。


「さようなら、お父さん。いい奴だったよ……」

「え、本当に開けてくれないの?」

「…………」

「あ、俺死んだ」


 ほんの少しの僅かな希望さえないのだと理解したお父さん。彼はそれでも扉の向こうで決死の覚悟を見せる。どたばたと騒音を立てているところから焦茶色と格闘しているのだろうと推測できた。そんな彼には目もくれず、私は扉の隙間から殺虫スプレーを振り撒き、外からじわじわと攻撃していく。

 お父さんの響かせる騒音も次第に弱々しいものへと移ろい、流石に彼の身を案じ始めた頃。お母さんが冷凍殺虫スプレーを手に、私たちの許へと舞い戻ってきた。


「じゃあ、ドア開けるよ!」

「早く早く早く早くッッ!!!!」


 お母さんのその言葉に、お父さんが今にも泣きそうになった声で催促する。可哀想な彼を救うために、否、自分の安寧を守るために、お母さんはゆっくりと扉を開けた。その瞬間、扉が開いている事に気づいたお父さんが扉の縁をがっと掴んで、そのまま思い切り開いて一目散に部屋から飛び出す。それに続いて部屋を出ようとする焦茶色を、お母さんは恐怖に染めた顔のまま冷凍殺虫スプレーで狙い撃った。

 ぷしゅーという気の抜けるような音がしばらくの間浮遊する。数十秒もして、もう申し分ないだろうといったところでお母さんはスプレーを噴射する手を止めた。


「ど、どうよ……!」


 決めたような顔つきでそう言う彼女。段々と振り撒かれた薬剤の冷気が取り払われていき、次第に視界が明瞭となる。そんな私たちの注視する点といえば、スプレーの噴射された中心地以外にはないだろう。

 視線が集う。じっと見つめられたその場所にあったもの。それは、体の表面が凍りついて上手く身動きが取れずにいる焦茶色。必死に触角と三対の足をばたつかせ、この場からどうにか逃げ延びようと試みる姿は、私の目にはどこか哀れで可哀想なものとして映った。しかし、虫は虫。害があろうがなかろうが、それはいるという事実だけで不快感を促すのだ。私のテリトリーに入った以上はその命、ないと知れ。

 ぎち、ぎちぎち……ッ。


「──っ?!」


 瀕死のそいつを見下ろして悦に入る私の耳を劈いたのは、鳥肌の立つ肌にさらなる凹凸を促すような、不快以外の何物でもない気色の悪い音。そんな拒絶反応待ったなしの状況で、私は思わず息を呑む。そんな音の正体は、凍ってしまった焦茶色の脚。凍ってしまって中々思うように動かせないのにも関わらず、それを無理矢理に動かそうとしたために体の裏側や他の脚と擦れてしまい、今のような音が鳴ってしまったと推測される。

 そして、そんな焦茶色はといえば、上下左右へゆらゆらとその細長い触角を彷徨わせながら、脚をそのままぎちぎちと鳴らし、こちらへとゆっくり歩み寄ってきていた。


「止まれええぇぇえええ!!」


 死に物狂いで手に持つスプレー缶のスイッチを押し込んで、お母さんは確実に仕留めようという意志で以て冷凍剤を振り掛ける。そんな彼女の背後に隠れ、情けなく事態を見守るのは私とお父さん。私だけならまだしも、お父さんがそこでそうしているのは一体どういう事だ、と考えるも、そもそも私の虫嫌いは二人からの遺伝による影響が強い。虫嫌いで武器を持った彼女が前に出ているのなら、同じく虫が嫌いで武器を持たない彼が後ろに下がるのは道理と言えるだろう。

 全身全霊で冷凍剤を振り撒くお母さん。その勢いは凄まじく、蜚蠊(ゴキブリ)許すまじ、という文字列が背後に浮かんできているような幻覚さえ見えるようだ。しかし、そのせいで冷凍剤の振り撒かれた周辺の床は氷漬けのようにされてしまった。簡易銀盤の完成だ。ただ、その勢いが功を奏したのか、霧の晴れたそこには、もう少しだって動きを見せない焦茶色の姿しか見当たらない。

 じっと観察する。焦茶色は動かない。じっと観察する。焦茶色は動かない。じっと観察する。焦茶色は動かない。


「「「はああぁぁぁ〜……」」」


 宿敵とも呼べるその焦茶色の動きが微塵も感じられなくなった事を確認し、三人全員が一斉に安堵の息を漏らす。と同時に、私は今後の家内の衛生管理を徹底しようと心に決めた。二度とこのような出来事があって堪るものか、と天に弓を引くかのように心を引き締める。絶対に、次はないと豪語できるだけの清潔な環境を維持してみせよう。

 しかし、今日の疲労は凄まじい。思い返してみても久しぶりと言っても過言ではない程の疲れが、私の体に重く伸し掛かる。今日はもう勉強なんて集中力を多用する事はできそうにない。今回の後処理なんかも二人がやってくれる事だろう。


「も、もう私寝るね。おやすみなさい……」


 どっと溢れるそれに身を任せるようにして、私は自身の床へと向かい、そのまま眠りに就いた。

第三話地点での主人公の体(生後一ヶ月)は人間に換算して一二歳児と相違ない程度には丈夫であり、かつ視界も良好で自由に動きます。


修正 2021/06/28

最後を少しだけ詳細化

修正 2022/04/03

誤字修正

修正 2022/04/04

誤字修正

修正 2022/05/26

文章の一部修正

修正 2022/10/29

誤字修正

修正 2023/10/26

本文の大幅修正

修正 2025/03/12

誤字修正

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