第93話欲望の早朝
知羽が日頃穿いている下着を染子は盗もうとして彼に阻止されてしまう。姉弟共々、下着泥棒の性分があるようだ。
後ろから襟を掴まれたまま2階の部屋へ戻った彼女は、ベッドの上で知努が録画しているビデオシネマを鑑賞した。
思春期の女子にふさわしくないストリップショーの場面を観ていた染子と知羽の隣で彼は就寝する。
夜更かししようが、毎度のように1人で手洗い場へ行けない彼女は彼の迷惑を考えず、起こしていた。
予定より1時間早い4時過ぎに尿意を催した彼女が彼の肩を激しく揺らす。深い眠りについている彼はまだ起きない。
「アパッアパッ」
足元付近に置いてあるオランウータンのぬいぐるみを持ち、反対側で寝ていた知羽の胸をぬいぐるみの後ろ足で触り、知努が平手打ちされる。
ようやく目覚めた彼に疑いの目を向けられないように白々しくぬいぐるみを窘める演技をした。
「寝ているうん知羽に悪戯したらダメでしょ。コレは怒らせたらウンコ投げてくる怖いメスゴリラよ」
強く叩かれた頬が赤くなっている知努は口元を緩ませながら半分だけ瞼を開けている。
部屋の薄暗さが不気味さを引き立てており、雪女の冷たい息を掛けられたように彼女の動きが止まった。
知努が頬から滑らせた人差し指で耳に髪を掛けさせる。そして、ゆっくりと耳元へ近づき囁いた。
『染子は造形以外に価値がないお人形よ。いつか誰からも興味を持たれなくなって棄てられるわ』
彼の声は耳の中で反芻し、悲しさと怒りが混じり合った感情を抱き、加減せず彼の頬を殴る。
それが孤独へ対する不安から生まれた幻聴に過ぎないと気付く。シャーマンを躾けるように彼が目線を合わせる。
「ユーディットに手を上げてしまったけど、俺は染子を殴ったりしない。やっぱり、俺みたいな人間へ染子がなってしまったらとても悲しい」
気に入っている女子に暴力を振るう悪癖が目立つ彼から数人だけ無償の愛を受けていた。
その中で親族で1番、彼が溺愛している男子小学生の姿を染子は思い浮かべる。彼女にとって邪魔者だった。
「何だか酷く男の事が羨ましくなってしまった」
自由奔放の彼女は彼の気遣いを無視して、好きな小説の文章を引用する。すぐ叩かれてしまい、乾いた音が響いた。
手洗い場に染子を連れて行った彼が物置兼演奏室のピアノを弾いている。幸い、廊下から下品な雑音は聴こえない。
ふと思い付き、演奏しているドラマの主題歌は父親達が高校生の時に流行っていた曲だ。
弾き終えて部屋を出ると手洗い場の照明が消えており、何故か寝室の扉が開いている。
扉の隙間から覗き込み、彼は様子を見た。母親の涼鈴が夫と染子の間に挟まれている。
2階の部屋まで戻りたくない横着な性格の彼女は、勝手に忍び込んでいるようだ。
「母さんのお布団、あったかいよ。それよりごま塩を連帯保証人にするからお金、貸してほしいな」
猿芝居をしていた染子に誑かされている涼鈴は息子だと思い、寝惚けた声で了承していた。
「もぉ、しょうがないなぁ。昨日、反抗していた癖に甘えん坊なんだからぁ」
民法上、明らかな連帯保証人制度違反に見かねた彼が異議を唱える。
「民法第450条で保証人の条件は弁済する資力を有する行為能力者と記載されているぞ」
間接的な被害が被るシャーマンでなく、まだ生後1年も経っていない子犬を標的にした辺り、性根が腐っている。
親権を持つ鶴飛夫妻という正式な保証人が付いている彼女の抵抗がまだ続く。
「ごま塩チビのドッグフードを抜きにしたら返済出来るわ。とりあえず3万くらい借りるわ」
保証人の資格に必要な弁済する資力を有していると主張しているつもりだ。
昨夜観た映画から得た知識を悪用している彼女は、民法における犬の扱いを知らない。
喉に負担が掛かる濁った声を出しながら彼はその映画の主人公を真似た。
「ドアホ! 民法85条でちゃんと記載されとる。この法律において、モノとは有体物をいう」
「つまり、犬はモノっちゅう訳じゃ! 法律は弱いモンの味方やない、知っとるモンの味方や」
往生際の悪い染子は映画のような背景音楽が無い事に文句を言いながら布団の中へ潜り込んだ。
もうすぐ身支度しなければならない現実を忘れ、布団という匣の中から女は出て来なかった。
扉の傍でしばらく待っていると顔だけ出した染子が、嘲笑しながら下らない冗談を飛ばす。
「私が知羽を連帯保証人にした借用書を作って、払わせたら法的に認められるわ!」
「こいつグーで殴りてぇわ。知羽は制限行為能力者だから民法第116条、無権代理行為の追認は適応されない」
かつて彼女は忠清を連帯保証人にした虚偽の借用書を作り、1円だけ彼から支払わせた。
後日、民法116条を脅迫材料に使い、まだ小学校低学年だった忠清を泣かせている。
その事を染子の両親に知られたせいで鶴飛家は民法を多く取り扱う『難波金融伝・ミナミの帝王』の視聴が禁止されていた。
早朝から彼女の悪巧みに振り回されている彼は無言で2階の部屋へ向かう。これ以上、付き合えば疲れるだけだ。
5時を回り、玄関にボストンバッグとキャリーケースを運んだ知努は染子の着替えとピーコートを持ち、寝室へ行く。
普段、服装に無頓着な彼は珍しく黒のケープコートを着ており、洗練された印象を抱かせる格好だった。
目を離した隙に眠っており、すぐ起こさなければならない。勢い良く掛け布団をめくり上げた。
「俺はオメェの召使いか? さっさと起きやがれ! 前髪パッツン守銭奴ダメ子」
知努が告白してから染子のだらしなさはますます酷くなっている。着替えや髪をヘアブラシで梳く事すら彼に任せていた。
極力、嫌われたくない知努は仕方なく要望に応えている。そのうち、校舎内で髪の手入れを要求しそうだ。
部屋の冷たい空気が肌に当たり、目を覚ました彼女は知努の格好をからかう。
「大正時代の学生がこんなところにいるわ。映画館でサイレント映画ばかり観てそう」
襟元から大きく伸びている特徴的な生地やコートの色が、マントを羽織っていた頃の学生服のように見えるようだ。
彼が目を逸らしながら先程、囁いた言葉をもう1度吐いて彼女に意趣返しする。
「このままだと染子がウェディングドレスを着る日もそう遠くないな」
急激に頬が赤くなった染子は涼鈴が使っている枕を抜き取り、彼の方へ投げ付けた。ブーケトスもこの調子で行い、知羽辺りにぶつけそうだ。




