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愛している人は近くて、遠い  作者: ギリゼ
第2章 緩慢な冷えた風
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第85話恥の多い生涯



 鶴飛千景の家へ向かおうとしている知努を追いかけて来たユーディットの頼みにより、自宅で密室が作られてしまう。



 多少の誤差が生じるも概ね、彼の予想した通り、物事は進んだ。早朝、帰宅した彼が忠文から姑獲鳥を見たという理解不能な報告をされ、困惑してしまう。



 自宅に姑獲鳥が奪い取る様な赤子はいなければ、渡された赤子もいない。ただ通り過ぎる姑獲鳥など聞いた事が無かった。



 いつも通り、登校した彼はまだ生徒の数が少ない教室へ入り、着席してから読書する。雑音も少なく、打って付けだ。



 4日間続くゴールデンウィークの後半が明日に控えている生徒達は、どこか浮き足立っている。周りから休日の予定について話す男女の声が聞こえた。



 部活動やショッピングモールで友人と遊び等、健全な高校生らしい予定が読書中の彼の耳へ入った。



 体育祭や文化祭といった行事で盛り上がる生徒達も流石に今日、行われる授業参観は話題に出していない。



 授業の観覧に運営費も掛かっていないためか、恐らくほとんど保護者が参加しないであろうこの行事は自動的に開催される。



 三中夫妻がこの必要性を感じない行事に参加するらしく、知努は前髪の左右に黒のヘアピンを母親から付けられていた。



 美容室へ行き辛い妊婦の時、亡き叔母は長くなった前髪を左右に分け、2つのヘアピンで留めていたため、妊婦の髪形という固定概念が彼に付いている。



 彼女と同じ髪形をしている知努は誰かに妊婦のようだとからかわれないか、心配していた。



 四方八方から見て読書している様子が分かるにも拘らず、陰気な女子生徒は彼に話し掛ける。



 彼の部屋から持ち去った黒いリボン付きヘアゴムで束ねた後ろ髪を左肩から垂らしていた。最近、彼女がよく作る髪型だ。



 倉持愛羅との喧嘩で受けた傷がまだ癒えておらず、彼女の頬が紫色に染まっていた。



 「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。幼時から父は、私によく、金閣の事を語った」



 鶴飛火弦は娘に金閣寺の話をした事が1度もない。それどころか、足利義満の事すら知っているか怪しいくらいだ。



 虚無主義の人間が登場する純文学小説から引用していた彼女は、何故か人生に絶望している。



 声を発する事すら億劫になっていた彼は、文章の世界へ閉じ籠っている。彼と他者の間を見えない襖で遮られていた。



 その態度が気に入らないのか、染子は人差し指と中指を彼の後頭部へ近づけ、拝み屋のような事を言い出す。



 「むっ、お主の背中に3体のモウリョウが憑いておるぞ。1体は〇ンコのような色合いをした長い髪に背丈が5尺5寸(約165センチ)も満たぬ醜女(しこめ)



 「2体は8寸(約24センチ)程度でいつも惰眠と暴食に耽り、よく飛び跳ねる白い物の()。名をオ〇コとズ〇コと言う。和漢三才図会(わかんさんさいずえ)に載っておる」



 彼の体から3体の邪悪な存在を退散させるため、祝詞を唱え始めた。読書している男の後ろでよく分からない単語を並べていた彼女こそ周りの生徒から怪奇だと思われている。



 元交際相手の祇園京希と彼女の部屋で生活していた猫2匹は、知努と深く関わっている理由だけで尊厳を踏み躙られていた。



 染子の三文芝居を見ていた倉持常盤がやる気のない拍手しながら近づく。背丈は忠清とほぼ変わらない拝み屋女を同族嫌悪している女だ。



 「今日が授業参観だから昨日の夜、部屋の鏡に向かって何度も練習したみたいだな。コレの母親、どんなマヌケヅラしているだろう」



 煽られた彼女は彼の頭を4本の指で叩き、そのついでに常盤の脛を蹴る。カナコとヨリコより凶暴だった。



 足元で脛をさすりながら蹲る常盤すら知努は無視し、外界の刺激を遮断している。染子がスカートのポケットから出した何かを彼のシャツへ入れた。



 妙に冷たく、虫の脚のような感触が肌へ当たると知努は驚きながら片手で異物を取ろうとする。



 「ひゃぁっ! む、む、虫! 染子、何しているの!?」



 シャツの中から取り出した物は、悪戯でよく使われるゴキブリの玩具だった。虫が苦手な情けない男だと周りの生徒達に知られてしまう。



 虫へ対し苦手意識を持つようになった原因は、染子だった。数々の虫を使った悪戯を彼女から10年以上、受けている。



 すぐ机の上に軽く投げ捨て、悪戯した彼女が後ろから手を伸ばして回収し、スカートのポケットの中へ片付けた。



 本を置いて振り向き、顔をしかめている彼の反応が染子に面白がられている。全く反省の色は見えない。



 普段、入浴中にしか着けないヘアピンで普段と違った髪形へ変わっている彼をからかう。



 「今日の知犬はいつもより可愛らしいわ。もうすぐ型落ち玉無しがいなくなるからこっそり庄次郎と入れ替えようかしら」



 蹴られた脛の痛みが和らいだ常盤が起き上がり、彼の隣へ座る。色気付いた小僧と言い、同じく彼をからかった。



 知努は口の端を吊り上げ、手で隠しながらミッション・スクールへ通う女学生のような口調になる。



 「ごめんあそばせ、(わたくし)、低俗で野蛮な貴女達と同じ空気を吸いたくなくてよ? それではごきげんよう、うふふ」



 席から立ち上がった彼を染子が、逃げれば幼少期の恥ずかしい写真を周りの生徒達に見せびらかすと脅迫した。



 大人しく座り、彼女から昨日の失踪劇について説明する事を命じられ、渋々、知努が語り始める。



 ユーディットを白木姉妹の家に連れて行った後、彼女の靴を持ち、一旦帰宅した。



 靴置き場に彼女の靴を置き、ピアノが設置している物置部屋の扉を施錠する。これで失踪の手掛かりは残った。



 足取り無く、失踪すればユーディットの父親が誘拐と勘違いし、通報してしまう。そうなれば少々、面倒だ。



 ユーディットと知努の家出は無事成功した。そのおかげで多少、精神面が回復している。



 「優しくて美人な幼馴染よりもうすぐアラサーおばさんを選んだからお仕置きしないといけないわ」



 ゴキブリの玩具が入っているポケットから1枚の写真を取り出し、机の上に投げ捨てた。



 白い朝顔の模様が付いた浴衣を着ている腰まで伸びた髪の子供は、境内で赤子を抱いている。



 両側で同じく浴衣姿の男女が片手を子供の尻に回していた。赤子の無病息災のため、神社へ行った時の写真だ。



 子供の中性的な容姿と人形のような無表情が相まって、どこか人ならざる存在に見えてしまう。



 「白木家から生まれたばかりの赤ちゃんを盗んできた姑獲鳥と眷属の山姥と牛頭(ごず)の記念写真よ」



 「赤ちゃん盗まれたお母さんが写真を撮っているけど随分呑気ですね。後、この小児性愛眷属に未だわいせつな被害を受けてます」



 髪が長い幼少期の彼は色んな人間に幾度と尻を撫でられ、情欲の捌け口に利用されていた。



 尻を撫でられた以外の記憶が所々、彼は思い出せない。長い髪を短くしたきっかけが何かすら覚えていなかった。



 時間の経過で忘れたような朧気と違い、脳が特定の記憶を無理やり黒く塗り潰していると考えてしまう消失だ。



 染子から受けた虫関連の嫌がらせや知努が行った彼女へ対するいじめは、鮮明に覚えていた。



 脳の一部がまるで適合していない他人から移植したような拒絶反応を起こしており、彼は頭痛に苛まれる。



 唐突な出来事に染子は困惑しながらも原因と思われる写真を片付けた。それでもまだ治まらない。



 頭を抱えている知努の隣にいた常盤が微笑みながら背中をさする。このような状況は慣れているようだ。



 「大丈夫だ。無理に嫌な過去を思い出す必要なんてない。そんな過去、忘れた方がいい」



 慰められている彼の元に幼馴染の慧沙が来た。尋常で無い光景は胸騒ぎを抱いている。



 染子から事情を訊くと、彼の表情に焦りが見えた。ここまで動揺する姿は珍しい



 「とても危ない事だから知努ちゃんの髪が長かった頃の写真はもう見せないでね」



 彼女と同じく知努をからかっていた慧沙ですら忌避している行為だった。理由を訊こうとした染子の声は、予鈴によってかき消される。


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